痛覚
それからリージュの頭は3つの選択肢に支配された。
1.やっぱり自分の頭がおかしい。
2.あの本は空想のものだった。
3.別の世界にやってきた。
(手首はまだ少し痛いし跡もある、こめかみの嫌な感触もある、1はなし。2は、あの本の書き込み量で全て想像だとしたら狂人の粋だ、ありえない。3は……嘘だろ)
何度振り払おうとしても疑念がシミめいて頭にこびりつく。ハシという見慣れない食器やテレビなる絵を動かす装置、そのテレビやナツカワが話す言葉が自分の知るものと同じであるはずなのに途中途中意味が理解できなくなる会話がどんどんと選択肢を狭め頭痛を呼ぶ。
「大丈夫?」
「あ?え、大丈夫だ」
明らかに大丈夫ではないリージュの様子に気付かぬナツカワではなかった。ただナツカワはあまりに無知なリージュがまさか別の世界からやってきたオカルトやSFの住人と考える訳もなく、その境遇を勝手に想像して目頭を熱くしていた。
「リージュ。あなた、行くとこないんでしょ」
「行くところというか、その」
「その感じだとお金もないだろうし、やっぱさ、ウチで働く?あなたセンスいいし」
ナツカワに出会う数時間前までは捕虜の身かつ嬲られる最中だったリージュに当然持ち物らしいものはない。仮にナツカワの目的が邪なものだったとしても、この扱い自体は悪くないし、家の構造を見るに本気を出せば逃げ出すくらいなら問題はないとリージュは踏んだ。
「すまない、世話になってもいいだろうか」
「そんな堅苦しくしなくていいよ。明日ちょうど練習日だから、みんなに挨拶ついでに諸々の話しようか」
練習、という言葉でリージュはナツカワとの初対面を思い出す。囲まれた中で女同士が戦い合うというのはウインダム王国にもなくはなかったが、リージュが知るものはあのようなどこか楽し気なものではなく、血生臭いアンダーグラウンドな世界だった。何度王国から規制がかかろうと、血に飢える人々が夜な夜な集まり開催される不健康かつ退廃的で、刺激だけはどんなものより得ることができた。
(あれに比べれば、問題はないだろう。勝てばいいだけだ)
腹をくくったリージュは静かに頷いた。
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次の日、ナツカワの家から歩いて数分程度のところにある倉庫にリージュは案内された。トタンの壁は錆が目立ち、お世辞にも活気があるようには感じられないが、中から響いてくる掛け声はリージュの肌がピリつかせるほどの熱がある。
「まあ今日は初日だからどういうトレーニングしてるか見て、そっから基礎を始めようか」
ナツカワが開いた扉の先、ロープに囲まれ少し高さのある舞台……リングの上で2人の女が肉弾戦を繰り広げていた。一人はあの時リージュが蹴りを入れた大柄な女。もう一人はエキゾチックでとても闘いに向いているとは思えない格好をした小柄で褐色の女。大柄な女が褐色の女の腰を抱え根を抜くように持ち上げるが、褐色の女は肘を相手の顔面に叩き込んで攻撃を中断させ、屈み気味に顔を押さえる大柄な女の首を腕でロックし頭を床に叩きつける。小が大と渡り合う神話的なやり取りではあったが、妙に隙が多い2人の動きにリージュは疑問を持った。
「2人とも止め!新しい子が入ったから挨拶ね」
「ナツカワさん!その人!」
大柄な女がリージュを指さしリングを降りてきた。
「その人ナツカワさんの仕込みだったんですか!?もー、あれ本当ビックリしたんですから!」
「いや、ああ、まあな。訳あってね。リージュ、この子がクドウ。ウチの稼ぎ頭だ」
女性ながら180cmはあろうその体格は首を上げないと目が合わず、戦い慣れているリージュでも思わず強張る威圧感があった。リージュは視線を落としクドウの脇腹にうっすら残る痣に目をやる。魔法がないとはいえ全力で蹴ったはずがそのダメージは見るからに薄い。
(魔法に頼り過ぎていつの間にか鈍ってたんだろうか)
「で、あっちがタグチ。リングネームはオー・ジャグリング」
「昨日の見れなかったけどすごいらしかったじゃん乱入。よく修正できたよね」
タグチもリングを降り、3人の元へ駆け寄ってくる。
「私はリージュ。これから世話になる」
「よろしく~、私のことはタグチでもオーでも好きに呼んでいいよ」
「名前が二つあるのか?」
「いやリングネームだって。まあ自分でつけたから思い入れはあるけど」
リングネームの意味は理解できなかったが、名前に関して質問を繰り返すと恥をかきそうな気がしたリージュは相槌で流した。
「クドウです。稼ぎ頭ってほどじゃないですけど……」
クドウはその体格に似合わず、視線を落としナツカワの言葉をやや卑屈気味に否定した。その様子に疑問をもったリージュはナツカワに耳打ちする。
(稼ぎ頭ってことはあいつが一番強いんだよな?)
(そうではあるんだけど、まあ見ての通りちょっと自己肯定感低くてね)
リージュにはこれまでくぐり抜けてきた修羅場が授けた戦士としてのプライドがある。実力はあるのに謙遜が過ぎて悪気がないのに嫌味になってしまうその行動は、そんな甘えたことを言える立場でなかった自分を否定されているようでリージュは心底嫌いだった。
「クドウ、ちょっと来い」
リージュはリングに上がりクドウを手招く。
「え、なんでしょうか」
「先日のことは申し訳なかった。だがそれはそれとして本当にアンタが強いのか確かめたいだけだ」
そういう手合いは一度本気でやり合えば自己認識を改め気に障る行動をしなくなるという経験則がリージュにはある。要は憂さ晴らしでしかないのだが、リージュが物心つく前から戦争を続けていたウインダム王国では兵士のメンタルを鍛え上げる訓練の一環として重宝していたため黙認されていた。
「新人対団体トップとか超レアカードじゃん!ナツカワはどっちに賭ける?」
「バカ、ウチはご法度だよ。リージュも、いきなりスパーリングは怪我するよ!」
「怪我するようなことはいくらでもやってきた」
リング上で構えるリージュの姿に、それらしくプロレスの演技ができるだけの人間とは違う、格闘技という範疇を越えるドロドロとした殺気がまとわりついているような凄みをナツカワは感じ取った。横にいたクドウに目で合図を送る。『一発本気でいってみろ』と。クドウは頷きリングに上がった。
軽く息を整え構えた瞬間、リージュの蹴りがまだ痣の残る脇腹に深く刺さる。だがクドウは歯を食いしばり痛みに耐えながらも、むしろその目には闘志が宿っていた。
(え、嘘)
これまでリージュのキックを耐えれた者は老若男女いない、はずだった。痛みで膝をつくか、勢いそのまま吹き飛ばされることがほとんど。戦場で相まみえれば魔法込みで肉をえぐり取る。だがクドウはひるむことなく力強い一歩を踏み、右手を鞭めいて振り抜きリージュの胸を打つ。
「痛っっったぁぁ!?」
リージュがこれまで行ってきた訓練は相手を的確に殺すか生存確率を上げるものばかりで、痛みに耐えるという発想自体が存在しなかった。だがプロレスラーはその真逆。肉体を限界まで追い込み痛みに耐えるという生物として不可解極まりない鍛え方を日常としている。そしてプロレスラーの打撃は痛みを知るからこそ、痛い。
「ハァーハァー!」
尻もちをついて呼吸を荒げるリージュ。目じりには揺らせば零れ落ちそうな涙が溜まっている。その涙の理由は痛みだけではない。
「大丈夫ですか!?」
「こ、殺して……」
「殺しませんよ!?」
リージュは爆発しそうな羞恥心が顔から漏れ出ないように体育座りでうずくまった。
続く
■簡易キャラ紹介
クドウ・カズミ:「江戸川ハイスターズ」のトップヒールレスラー。身長がコンプレックスであり、これまでの経験もあってプライベートでは非常に気が弱い。180cm。筋肉質。
ラール・タグチ:インド人と日本人のハーフ。リングネームの「オー・ジャグリング」は彼女の得意技からきている。158cm。普通。
リージュ:調子に乗りやすい割に結構地雷が多い。