船底の穴
最近なろうでは政治関係のものを書くのはやめていましたが、今回は書きます。
先日、自民党の杉田水脈議員が、「LGBT支援は度が過ぎるのではないか。例えば、子育て支援や子供ができないカップルへの不妊治療に税金を使うのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことについて賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供をつくらない。つまり生産性がないんです」等と、LGBT差別の発言をしました。
それに対して、8月5日に渋谷駅前の広場で、LGBT当事者やその他の人々による抗議行動がありましたので、私も行ってきました。(私自身にも何らかの差別意識はあるでしょうが、それで参加する資格がないとは思いません)
で、抗議でスピーチした人たちが、こんな風なことを言っていました。
「杉田議員がこうした差別発言をするのは初めてではなく、今までに何度も、執拗にマイノリティへの攻撃を重ねてきました。しかしそれを容認するのが、この国の“保守派”の共通の認識になっている。むしろ、彼らが表立っては言えないことを代わりに言ってくれる存在として重宝されているのではないか」
「私たちがこうした差別に抗議して声を上げなければ、私たちの存在はなかったことにされてしまう。それでは駄目なんです。少しでもいいから、反対の意を示してください。沈黙して、差別を黙認することはしないでください。
私は杉田議員にももちろん抗議しますが、こうした差別を容認している自民党総裁の安倍晋三氏や幹事長の二階俊博氏にも抗議します。差別を容認している自民党にも抗議します。そしてこんな状況を黙認している、ここを通っていく人たち(駅前の通行人)にも、少しだけ抗議します。少しでもいいから、抗議をしてください。私たちには、あなたの力が必要なんです」
ところで、私は以前、日本語訳されたイランの教科書を見たことがありますが、その中にこんな風な文章がありました。
「人はなんでも勝手にやっていいわけではない。仮にあなたが、他の人々と一緒に一つの船に乗って旅をしているとしよう。そこでもし、乗客の一人が突然、船の底に穴を開け始めたとしたら、あなたは“それは他人のやることだから、自分には関係ない”と言えるだろうか?そんなことはないだろう。それを止めなければ、みんなが溺れてしまうだろう」
私はイランの政教一致の体制は支持できませんが(そもそもこういう体制でこそ、マイノリティへの迫害が正当化されるわけですし)、この文章には同意できます。マイノリティへの迫害を黙認していれば、それはいずれ自分への迫害をもたらすであろうし、そもそもそのような迫害は不正なことだとも思うからです。そしてそのような不正を放置しておけば、それは船底の穴のように、いずれ社会全体を沈めることにもなりかねません。
有名な話ですが、マルティン・ニーメラーも、ナチスの台頭についてこんなことを言っています。(この文章には幾つかバリエーションがあるようです)
「ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった。
私は共産主義者ではなかったから。
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった。
私は社会民主主義ではなかったから。
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった。
私は労働組合員ではなかったから。
そして、彼らが私を攻撃したとき、
私のために声をあげてくれる者は、誰一人残っていなかった」
そんなわけで、私も抗議しましたし、ここにも書いておきます。