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「あの……ロード・セシュラール」
女の声で、ユーリははっとしたようだ。引きはがすように肩を掴み、その顔を食い入るように見ている。
「……い、もうと、か」
「はい。突然の訪問、失礼いたします。ミラベル・コンスタンティエでございます」
身体を離したせいで、シルビアの位置からもその全身が見えるようになった。真っ白なひざ丈の高級なコートと、おそろいの帽子とブーツ。ワンピースの裾が少しだけ覗く、丈も色合いも考え抜かれた格好だ。たぶん、あの手袋ひとつで、シルビアは二カ月は食べていけるだろう。
彼女はうやうやしく淑女の礼をとる。ほれぼれしてしまうような美しい所作を、ユーリはただただ見つめている。
ふと彼女の目がこちらに流れ、いぶかしげに、上から下までを往復する。
寝癖のついた髪を一本に束ねただけの、古い外套を着た女。彼女の目を通して、そんな姿が見えた。
そういえばユーリは、あっち側だった。
何かを考えるのを、やめる。思考を止めて、何もかもを頭の中から締め出した。
「入ってもらえば?」
不躾な物言いだったか、女は眉を寄せる。ユーリは振り向かない。シルビアは、そっとその横を抜けるようにして外に出たが、やはり反応はないようだった。
「出かけます。どうぞ、中へ」
女の、お付きらしい侍女に伝えて、外に出た。
町で唯一の、婦人服専門の店に行こう。店主は確か、王都にいたことがあったはずだ。きっと良い助言をくれるだろう。
買い物を終えて、家へと帰る。階段を上り、ドアの前に立つ。内側から開かないそれを、少しだけためらってから開けた。
服を買ってきたことをなぜか知られたくなくて、店に預けてきた。手ぶらで部屋に入る。
「あ……」
声がして、中には、女が二人。ミラベルという女とその侍女だ。
相変わらず値踏みするような目を交わし、辺りを見回す。
「ユーリは?」
「……あ、ええ、バスルームに」
「は? 客を置いてお風呂?」
女はやや躊躇うように唇を湿してから、口を開く。女が座っているテーブルの上には、魔石らしきものがふたつ、転がっている。
「少々、ユーリアン様にとっておつらい話をしたのです。お姉さまについての。少し一人にしてほしいと言い置いて、バスルームにこもってしまわれたのですわ。
もう何時間にもなりますが……」
「お姉さまって誰? ユーリの恋人だったって人?」
「ええ」
「その人、死んだんじゃないの?」
「はい」
もう何年も感じたことのなかった、怒りの感情が突発的に湧いてきた。
はい、だって?
死んだ恋人についてのつらい話をして、一人にして、それきり放っておいた?
「馬鹿じゃないの」
「なんですって?」
「なぜ何もしようとせず、馬鹿みたいに座っているの?」
「お声掛けはしましたわ! ただ、放っておいてほしい、と」
もう女のことなどどうでも良かった。シルビアは、バスルームのドアに駆け寄る。開けようとしたが、やはり開かない。怒りは薄れ、急激に不安になる。
死んだ恋人をずっと忘れたことはなかったはずだ。忘れられなくて、苦しくて、もう半年も逃げている。そこに追い打ちのように何かを聞かされた。それがもし、耐えきれないほどの何かなら?
「ユーリ! 開けなさい!」
ドン!と叩くが、びくともしない。安普請の部屋で、扉などどこも取り付けが甘くなっている。がたがたと揺れもしないなんて、おかしい。
中で何をしている?
死んだ恋人を思って、何を?
「開けなさいよ!」
掌に違和感を感じる。揺れがないことといい、この扉は魔力で呪封が施されているのだと気付いた。心を出来るだけ落ち着けて、ここ数カ月教えてもらっている魔力の使い方を思い出しながら、陣を立ち上げ流してみる。手ごたえが合った。ユーリが内側から魔力で扉ごと空間を閉じている。そのせいで、彼の気配が感じられない。
怖ろしさに魔力がぶれて、手ごたえも消えてしまった。
もし、ユーリが、最悪の手段で恋人の元へ行こうとしていたら?
胸が痛い。痛くて泣きそうだ。
その時、初めて気付いた。自分がユーリに惹かれていることを。いつの間にか大事な人になっていた。それは、一人ぼっちになったシルビアの傍らに突然寄り添ってくれた、その温もりに依存しているだけなのかもしれない。それでもいい。この気持ちが本物ならば、やるべきことがある。
もう一度、陣を現し、糸のように隙間からもぐりこませる。集中しながら、バスルームを包んでいる空間をさらに外側から包んで行った。人の作る陣には必ず、ほころびがある。そう教わった。丹念に探って、それを探す。
額に汗が流れ出す頃、ようやくそれを見つけた。膨大な魔力で大きな魔術を成し遂げるユーリに勝てる気はしないが、今の彼は正常ではない。
気を一本に絞る。目を閉じて、自分の中の魔力を一気に解放する。
パンッ!と弾けるような音がして、バスルームのドアがかたりと揺れた。
「魔術をこじ開けたの……?!」
背後で女が立ちあがり、寄って来る気配がしたが、それを無視してバスルームの扉を足で蹴り開けた。シャワーの下でうずくまるようにしていたユーリが、ゆらりと顔を上げる。
たった数時間で、こんなにも人の顔は変わるのだろうか。絶望と、後悔に彩られたその顔は――シルビアの横を抜けて何かを見ている。
視線の先にいたミラベルは、シルビアをおしのけるようにして彼に駆け寄った。
「ユーリアン様……!」
「ああ……開けられてしまった」
「申し訳ありません、私が不用意に姉の声をお聞かせしてしまったから!」
ユーリはただ、ミラベルの顔を見ていた。真っすぐに、それ以外目に入らないように。呼び間違えるほど、良く似た姉妹なのだろう。
生きていた。それを確認できただけで、シルビアは心からほっとした。
「ユーリアン様。話をしましょう。姉の遺したものについて。そしてこれからのことを」
「そうだな……そうしよう。俺にはその義務が、ある」
これから。この先。
そこには、シルビアの居場所はなかった。聞くべき話ではないだろう、と判断する。くるりと背を向けて、シルビアは窓際にいた侍女に近寄った。
「出かけます。あとはご自由に」
そう言って、外に出た。夜の町は、今日も橙色の灯りでいっぱいだった。どこへ行こうかと考えて、すぐに役所の一室を思い出す。長い会議の時は今でも夜中まで役所にいるので、入り口の鍵は持っていた。あの大きなソファを借りよう。少し寒いかもしれないけど。
そう思ったが、いつの間にか、季節はぬるんでいた。春が来る。
何かが終わり、そして新しく始まる季節が、来る。