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少しずつ寒さも緩んできた。季節は確実に動いている。
シルビアは、すっかり朝型に慣れて、出勤に苦労もしなくなっていた。その日も、いつも通りに朝食を摂り――そのようにユーリに変えさせられた――眠気の覚めた頭で役所に来た。
小さな街の役所は、シルビアの部屋が四つ五つくっついた程度の小さな建物だ。町長は古くから住んでいる一族の襲名で、それでも問題ない地域なのだ。
「シルビア、ちょっとおいで」
一応町長室らしき、小ぢんまりした奥の部屋に呼ばれ、シルビアは少し緊張する。頑固だが悪い人間ではない町長が、普段通りの顔をしているので、悪い話ではなかろうとついて行った。
入室すると、見慣れない壮年の男がいた。だが、威圧するような眼光と、なにより詰襟型の軍服についた勲章で、『偉い人』だと直感し頭を下げる。
「こちら、領主さまだよ」
「はぁ、そうですか」
この辺りは、辺境伯の領地の一部だ。敵国との境目になる土地は、王都から遠くとも、防衛の要と考えられている。ゆえに、森と山を含む広大な領地を、防衛大臣たる辺境伯が治めていた。ここは、領地に点在するいくつかの町のひとつにしか過ぎない。そんな田舎に、なんの用だろうか。
「そうですかってことはないだろうに、申し訳ありません伯爵、物を知らない娘でして」
代わりに町長が謝ってくれたらしいことにさすがに気付き、再びぺこりと頭を下げた。そうしながら、相手の姿を眺める。
バルドア・イレニウス辺境伯。五十代と聞いていたが、そうは見えないほど若々しい。筋骨隆々という言葉がこれほどに似合う人もいないだろう。少なくとも、この辺りの民とは鍛え方が違う。眼光鋭い彫りの深い顔は、見つめるシルビアを値踏みするように見返してきた。
「シルビアというのは、そなたか」
深い声。上からの物言いも、さもありなんと思わせるほど板についている。確か、つい数年前、先代から爵位を引き継いだばかりだったはず。
「はい。初めまして」
「記憶力が良いと聞くが、どうか」
「どうか? どうかって、どういう意味ですか?」
「こらシルビア」
「え?」
町長が天を仰いでいる。なんだか分からないが、町長を困らせるのは本意ではないので、頭の中をさらってみた。
「ええと、二十五年前の夏に、イレニウス様、先代と一緒にこの街に来られましたね。金の装飾と、竜の小さな像がついた馬車で、大通りを通って行かれた。イレニウス様はあの時は白の軍服で、勲章の数は二つで、髪が今より長くて、かっこよかったですよ。あ、今でもかっこいいですよ」
「シールービーア」
「え?」
とうとう町長が目を覆ってしまった。淑女、とかいう世界の教育を受けていないシルビアには、これ以上どうしていいか分からない。困ったわね、とのんびり考えていると、ふっ、という息がイレニウスから漏れた。
笑ったのだ、と気付くまで、数秒かかった。なぜ真顔なのか。怖ろしい顔だ。
「これは驚いた、たいしたものだ。ちなみに、その時そなたはいくつだった?」
「二歳です」
「ふむ。よかろう。エジェフ町長、話をすすめてくれ」
肯いて、町長はシルビアに向き直った。
「海沿いに、ヨーク様の別邸があるのは知っているね?」
「はい。王都の貴族様ですよね。もう8年くらいいらしてないけど」
「あー、うむ、遠いからの。それで、辺境伯様がそこを買い取られた。先日より、奥様含めご家族と共にしばらく滞在される予定だ」
「あんな寒いところに大変ですね」
「あー、うむ、返事は、はいかいいえだけで、いい。近頃、絹の生産が増えてきていての、町の工場だけでは追いつかない。その辺の援助をいただけないかと私がお願いしたのだ。それで、援助に値するかどうかを見にいらした、というわけだ」
「はい」
「ただ、領地の仕事は放っておけない。腹心であられるお方を残して来て下さったので、その方の代わりに、こちらで伯の仕事を手助けする人間を探している」
「へぇ。あ、はい」
「仕事の内容は、伯の調査の内容を同様に見聞きして書類にまとめること、および、生活の必要なお手伝いだ。お前が向いているのではないかと思ってな。どうだ、やってみないか」
「はいはい」
いい話だ、と素直に思う。もうすぐ春が来る。ユーリの春ものも買わなければならないし、そろそろ母の荷物も片付け始めて、部屋の改装をしようと思っているから、ちょうどいい。お金はいくらあってもいいものだ。
「……あの?」
「あー、うむ、決断が早いの」
何かを諦めた風の町長は、ではまた後日、と話がまとまったとみて部屋を出るイレニウスを見送って行った。
シルビアも一緒に出て、さあ仕事をしよう、とした時、町長が戻って来ると、
「シルビア、お前、今日はもう仕舞いだ。あのな、手付金をやるから、少し、そのう、小奇麗な服を買え。明日はそのまま直接、昼丁度にヨーク……いや、イレニウス別邸に行け。いいな?」
渡された封筒を手にしながら、しげしげと自分の姿を見下ろしてみる。寝間着と大して変わらないくたくたのワンピースに、毛玉のついたカーディガンに、色あせた肩かけとペチコート。
なるほど、と肯いて、外に出た。小奇麗、とはどの程度を言うのだろう。貴族の屋敷に行くのだから、それなりでなければならないことは分かる。だが、具体的には全く浮かばない。
「そうだ、ユーリに聞こう」
王都にいたならば、貴族に会ったこともあるだろう。助言をもらえるに違いない。
いつもよりかなり早い時間に、相変わらずの狭い階段を上る。すぐにドアが開いた。足音ですっかり分かるようになったらしい。
覗いた顔を見て、なぜか胸が高鳴る。なんだろう。この気持ちは。
「どうしたシルビア、クビか?」
「あんた路頭に迷っちゃうじゃない、それ」
家の中に入ると、いい匂いがする。濃いクリームで煮込まれた野菜と、シルビアの好きな固めのパンが焼かれる小麦の匂いが全身を包む。
「あのね、イレニウス辺境伯って知ってる?」
「……もちろん。なぜ?」
シルビアは、今日の出来事を簡潔に説明した。それから、買い物についてのお願いもする。ユーリは、いいよ、と身軽に出かける支度をするべく立ちあがった。料理に保存の魔術をかけて、外套を手に取ろうとした時、階段を上る足音があった。
二人で顔を見合わせる。来客など滅多にない生活で、他人の足音は珍しい。しかも二人分だ。
控えめなノックがある。出ようとしたシルビアを制して、ユーリが、ドアを開けた。
外光とともに、一瞬、若い女の姿が見えた。
「ジゼルっ!」
すぐにユーリの背中に隠れてしまったけれど。
見知らぬ女は、名を呼んだユーリに突然抱きしめられ、肩越しに驚いた顔を覗かせた。美しい波打つ金髪に、人形のような整った顔。
ユーリの広い背中が震えていて、シルビアはそこから目が離せない。
ただ、なぜか胸が痛い。痛いのに、視線をそらせない。
見てはいけない。きっとこの記憶は、いつまでも鮮明に残ってシルビアを悲しくさせるから。