5
再び巡って来た休日、シルビアは今日も惰眠をむさぼっている。冬の朝の眠りと言うのは、どうしてこんなに気持ちがいいのだろう。特に、それが休みであればなおのこと。起きても起きなくていい、そんなまどろみは世界で一番快い。
先週からシルビアは夕方からの勤務を、朝方に変えていた。慣れない時間帯の仕事と、ますます厳しくなる寒さに、少々疲れ気味なのだ。
とろとろと眠る。外は今日も雪だ。見なくても分かる。雪の日は音がしない。あらゆる音を吸い取って、静かに降り積もっている。
暖かく手触りのよい毛布と、けばだって古いけれど肌になじんだ布団にもぐり、自分の体温であたたまった空気を堪能する。
「シルビア!」
暖かい。洗いたてのシーツが自分の形に馴染んで、最高の寝心地だ。
「シルビア! 起きろ!」
「……だーっ、うっさい! 休みの日は放っておいってってあれほど……」
「ちょっと来い、いいもの見せてやる」
「あっ、こら、立ち入り禁止だし!」
せっかくの時間を台無しにするユーリの大声と、不躾に侵入してきた笑顔に不機嫌をぶつける。だがそれしきで怯む男ではない。
「いいからいいから!」
「嫌っ、布団から絶対出ないっ」
「いいよ、そのままで」
「は?」
体感したことのない重力の移動があって、視界がぐるんと回る。布団をはいで、毛布にくるまっていたシルビアをそのまま抱き上げたらしい。抱き上げたというよりは、肩に担ぎあげたと言った方が正しいかもしれない。うつぶせで肩に乗せられ、ユーリの背中と床が視界の中で揺れている。
「ちょちょちょちょちょっと、苦しい!」
貧しい生活で痩せ気味だとはいえ、成人も大分越えた人間を軽々と担ぎあげるなんて、随分と力があるものだ。とりあえず抗議をしてみると、右腕に座らせるように抱え直された。ふらふらとする身体を、ユーリの首に捕まって支える。
「あんたねぇ!」
「見ろ、シルビア。綺麗だろう?」
リビング兼キッチン兼ユーリの部屋に連れて行かれる。誇らしげに言われて見てみれば――星が降っていた。
いや、きらきらと光るのは、多分、雪だ。部屋の中は暖かいというのに、雪が溶けずに部屋いっぱいに舞っている。渦を巻くように空中を漂っているのだろう。床には積らない。小さな雪の粒が、どこからか差す白い光を反射してちらちらゆらゆらと光っている。夏の海の底から見上げた水面のよう。
「お、おお……きれい」
「だろう?」
光る雪はシルビアの上にも降る。寝癖爆発の髪に、頬に触れ、そのまま滑ってまた舞いあがる。しばらく見惚れていたが、次第に不思議さが勝った。
「どうなってるの?」
「食材の保存と一緒さ。雪を魔力でコーティングして、溶けないようにしてる。それをゆっくりした気流に乗せて、見えないところから光を当ててる」
「しぇぇぇぇ……」
この光景には、とんでもない量の魔力が使われているはずだ。今もなお、力が維持されている。少し怖いくらい。想像以上にけた外れの魔力量だ。
降ろすように要求して、滑り落ちるようにすとんと床に降りる。肩からかけた毛布がずり落ちそうなのをおさえ、天井を見上げる。
ふ、と息を吹く。雪が舞いあがり、光を散らす。
が。
「さすがにちょっと疲れた、おしまいな」
「は? いや待っ……!」
ぱしゃん。魔力を解かれた雪はいっぺんに溶けて、部屋中に降り注ぐ。
「あ」
「あ、じゃないし! 冷たっ!」
「ははっ。問題ない問題ない」
絶対にこの結果を見越していなかっただろうユーリは、べしゃべしゃに濡れた床を魔力で一気に拭き取って、何もなかった顔をしている。だが、シルビアの濡れた髪はそのままだ。どうやら本当に疲れたらしい。呆れる。
シルビアはため息をつきながら、湿った髪に自分の魔力で暖かい風を送った。
「え」
「え?」
「お前、そんな陣使えたっけ?」
「ううん。あんたの真似」
「見ただけで覚えたのか?」
「見たし、あと、呪の詠唱も聞いて覚えたけど? 何これ、門外不出なの?」
「いや、そんなことはない。使いたければ使えばいい。ただ、使えるヤツはそんなにいないだろうってだけで」
乾かすついでに適当にひっぱりながら寝癖を直す。
小さなころから貧しい家を支えてきたシルビアは、なんとかぎりぎり初等教育で読み書きを習った程度だ。ちょっとした魔力があるからといって、魔術をどこかで習うなんてことは夢のまた夢だった。それに、この辺りにはそもそも魔力持ちが少ない。唯一身近にいた魔力持ちは母のエルザで、火のつけ方なんかは母から習った。だから、物心ついてから実際に大きな魔術を使っているところをみたのはユーリが初めてだった。
浮き上がる陣形も唱える呪も、一度で覚えられる。あとは、その形になるように立ちあげた陣を整えるだけでいい。
「もしかして、小さな魔力の使い方しか習ってないだけで、教えればもっと使えるんじゃないのか?」
「魔力量じゃなくて、使い方の問題ってこと?」
「ああ。よし、お前、今日から俺が魔術を教えてやろう」
「めんどくさいからいい」
ユーリは本気で驚いたようにのけぞった。
「お前、言っておくが俺は結構偉いんだぞ。俺が直々に教えるとか、とんでもなくありがたがっていいんだが」
「本当に偉い人は、自分で偉いなんて言わないわよ」
「いや本当だ」
「はいはい」
「聞け」
「はいはい」
不満そうにしながらも、ユーリは手早く二人分の朝食を用意していく。
胡椒のしっかりきいた分厚いベーコンと、とろんとしたいり卵を、行儀悪くパンに乗せて頬張る。ちょっと硬めのパンに噛みつくと、小麦とバターの香りが口いっぱいに広がった。
「ん。なんかパンの味が違う」
「ああ、焼いてみた」
「パンって家で焼けるんだ」
「ここ、石窯があるじゃないか」
「ないよ、そんなの」
「コンロの下にあるだろ」
「え、あの空間、窯だったんだ!」
「なんだと思ってたんだよ」
「設計ミス」
「……」
認めたくはないが、シルビアよりユーリのほうが料理の手際も腕もいい。それはきっと魔術がどうということではない。誰かに食べさせよう、という気持ちがある人間だけが出せる味だ。せわしくかきこむような食事しかしてこなかった自分とは違い、きっと、誰かと一緒に食べるための味。
羨ましい、とは思わない。ただ違うだけ。
シルビアにはもともとなかったものを、彼は失った。それがどんなに悲しいことか、想像もつかない。ただ、思い出が苦しくなることは知っている。
もう、シルビアの記憶の中の母はほとんどがベッドに伏している姿だけど、そうしながらも編んでくれた肩かけや、一緒に食べたスープの味、その光景にあった全てが、今はもうただ悲しい。嬉しかったことも楽しかったことも、今では悲しい気持ちを思い起こさせる、そのことそのものが、苦しい。
忘れられない訳じゃない。ただ、思い出してしまう。ふとした瞬間に、もういないのだと知る。
彼もきっと同じ。だからここへ来たのだろう。幸せだったころに苦しむ自分が許せなくて、思い出の詰まった世界から逃げてきた。
遠く、故郷を離れ、彼は今まだ、旅の途中。
そして旅とはいつか、終わるもの。
ミラベルのデビュタントの記述を削りました。
もう少し年上の設定に直します。