3
週に一度の休みの日、シルビアは陽が高くなってからようやく、寝室から這い出てきた。前の日の仕事は日付が変わるよりずっと前に終わったのだが、その日は訪問者も会議もなく、やらされたのは書類の山を運ぶ力仕事だったのだ。
つまり、筋肉痛だ。
「せっかくの休みだっていうのに、寝過ごした……」
「どうした、身体が痛いのか」
腰が痛い、とは言いたくなくて、まあねとごまかす。
「万能に見える俺も、治癒魔法だけは使えない。代わりにほら」
出してくれたのは、朝食代わりらしい飲み物だ。背の高いグラスに、色とりどりの果物が層になって入れられ、それに果実水が注がれている。いい香りだ。柄の長いスプーンを渡されて、ちまちまとそれを食べた。
ふと、窓を見る。シルビアは、グラスを持ったまま窓際に引き寄せられた。
「うわぁ、雪かぁ……」
外は、粉雪が舞っていた。きっと夜になるにつれ、ひとひらが大きい雪粒になっていくだろう。それでも、寒さは少し、緩むかもしれない。
王都とは違い、この地方はこれから数ヶ月ばかり雪に閉ざされる。そういえば、ユーリの靴を買わなければ。
「ねぇユーリ、」
「外に出よう、シルビア!」
「……は?」
いつの間にか、彼は上着を羽織っている。ほとんど空になったシルビアの手のグラスを取り上げ、早く着替え得て来い、とせかす。
もしかしてはしゃいでる?と思いながら、仕方なく寝癖のまま適当に髪を束ね、その辺の服を着て、母のものだった外套をひっかけた。
外に出ると、少し成長した雪粒が、ゆっくりと降っている。まだ昼時を少し過ぎただけなのに、夕方くらいのうす暗さがある。こんな季節があと三カ月は続くのかと思えば、シルビアなどはため息の一つも出るのだが、ユーリはどうやら違うらしい。
珍しげに掌に雪を受け、辺りを見回している。
促されて、歩きだした。どこへ行くと言うあてはないらしく、密集した石畳の細い道を気が向くままに抜けて行く。いつの間にか、海の方向へ向かっていた。どちらもなにも話さない。ただゆっくりと、並木道を歩く。
海岸沿いの水の抜かれた噴水広場は、今年初めての雪に外出を控えたのだろう、人の気配は少なかった。
ユーリは噴水の淵に立ち、中を覗きこんだりしている。さすがに寒くなったらしく、ポケットに手を突っ込んでいる。雪粒はますます大きくなり、ユーリの頭にも肩にもとまっていた。
「遠くへ来たんだな、俺は」
空を仰ぎ、その綺麗な顔にも雪を受けながら、ユーリはそう言った。季節も空気も、王都とは違う。向こうは特に南というわけではないが、海に近く平野がちだ。ここは、同じく海が近いが、東に世界有数の剣山を臨む。冷たく湿った空気を含んだ大気は、剣山を越えられず雪となって降り積もるのだ。
呟く言葉は、ただの感慨か、それとも後悔か。
「……そろそろ行こう、ユーリ。風邪ひくわよ」
「帰るのはもったいないなぁ」
「これからいくらだって見られるわよ、雪なんて。それより、そんなオシャレな靴じゃ外歩けなくなるわよ。雪用の靴を買いに行きましょう」
「雪用?」
「靴の裏に、滑り止めがついているの」
「へえ!」
「手袋とコートも要るわね」
歩き渋るユーリを連れて、少し、街の方へ戻る。ユーリが足を踏み入れたこともないだろう、なんでも売っている雑貨屋に入り、冬用の装備を物色する。すると、さり気なさを装って、店主のボニが寄って来た。
「やあシルビア、とうとう降ったな」
「こんにちは。嫌になっちゃうわ、寒くて」
「ふむ。それで、あれかい。お友達の靴を?」
探りを入れてくるボニの口髭がぴくぴくしているのを見て、笑いをこらえるのが大変だった。街の雑貨屋は、噂話も売っているようなものだ。隅っこにテーブルとイスが設置され、暇になった他所の店主や客がちょっと座って色々な話をしていく。
シルビアは、さらりと、
「遠縁の親戚なんだけど、雪のない地域から来たのよ。だからこっちで揃えないとと思って」
「遠縁……? エルザのかい?」
「いいえ、父さんの」
そう言うと、ボニは詰まったように口を閉じた。母エルザは、この町で生まれて育った。遠縁の親戚などいないことは、街中が知っている。
しかし、父は違う。父のことは誰も知らない。なぜなら、母はどこかでシルビアを身ごもり、身二つでこの街に帰って来た。未婚のままシルビアを育てた。彼女は決して、父親が誰かを皆に話さなかったのだ。
だから、嘘をついたところで誰も何も言えないはずだ。
「お父さんのこと、分かったのかね?」
「母さんが死ぬ前に話してくれたの。でも、他の人には話さないで欲しいみたい。母さんの遺言だから、例えボニさんでも内緒よ」
「ああ、無理に聞く気はないよ。そうかい……良かったな、シルビア。エルザはお前を天涯孤独にすることを可哀そうに思ったんだろう。そうかいそうかい」
根はいい人間なだけに、勝手に母の気持ちを思って涙ぐんだりしている。それから、ユーリの肩を力いっぱい叩きながら、
「おい兄ちゃん、シルビアのことよろしく頼むよ! いつまでいるんだい。しばらく? そうかそうか、なら色々要るだろう、値引きしてやるからな!」
馴れ馴れしい街の人間にも怯まず、ユーリはにっこり笑って礼など言っている。
予定通りに靴と手袋と、値引きしてもらった外套を買う。おまけにマフラーをつけてもらって、すっかり冬の国のいでたちだ。
これでもう、明日にはみんなが事情を知っているだろう。変なうわさが立つ前に、先制攻撃だ。
礼を言って、家路につく。本格的に夕方を過ぎ、辺りは早くも暗くなりかけている。
この地域は、山向こうの民とともに絹の生産を始めてから、財政が潤っている。その影響か、魔石を大量投入して、本通りに街灯をあかあかとつけるようになった。
夜の街、舞い散る雪と、橙色の居並ぶ灯り。人々のざわめきと、辻馬車の馬のいななき。
シルビアは哀しくなると、この日のことを思い出す。
いまはもう、ない。
ユーリが本当に笑えていなかったことくらい、知っていたのに。