27
夏も終わりに差し掛かっている。窮屈な御者の制服を脱ぎ、薄いシャツ一枚で馬車を走らせながら、アルノーはそう感じた。夜風が肌を冷やす。
店に着けば、すぐに仕込みにかかる。熱と体力を使い、すぐに暑くなるだろう。
酔客に止められそうになりながら、表通りを行く。綺麗に整備された石畳の道は、それでも馬車の揺れを無くしてはくれない。森から乗って来た体がそろそろ痛みに耐えかねるが、店まではまだもう少し。
あの店。レンガを積み上げた美しい装飾壁と、分厚い一枚板の扉、優美なランプが配された外観は、アルノーの理想に近いものだった。これだけの店を構えることは、自力では到底無理だっただろう。いや、可能性はあったが、どれだけの時間が必要になることか。
幸運、なのかもしれない。周囲のやっかみがささやかな悪意となって見えるほど、それは幸運なことだった。そう思う。思っては、いる。
けれど、日が経つにつれ、アルノーの心には少しずつ怯えが忍び込んできた。果たしてこれは本当に幸運なのか。それとも――悪運に見込まれてしまっただけなのか。
もはや引き返すことはできない。それほどまでに深みにはまってしまった。もっと気軽な手伝いだと考えて始めたことが、少しずつ少しずつ取り込まれ、今ではもう、どっぷりと計画に沈み込んでいる。
息子を取り戻したい、という言葉を聞いた時は、この冷酷を絵に描いたような男にも家族の情があったのか、と驚いたものだ。『彼』がアルノーに目を付けたのは、ユーリアンと幼馴染として親しくしていることを知っていたということだ。そのことすら、驚く。
セシュラール侯爵。無情の司法省長官。セシュラール家は小さな領地を統括することはしているが、その働きのほとんどは、王宮内で司法職にあることで評価されてきた。先々代は、異界の法の規則を取り入れたことで、大きく後世を変えたと言われる。拷問と処刑で犯罪を封じ込めてきた国に、王が必要と認めれば公の場で申し開きを出来るようになった。
その実態がほとんど機能していない、とはいえ――功績であることには変わりがない。
侯爵を賜り、以後、王宮の近くに居を構えている。
アルノーの一家は、そこに庭師として住み込んでいた。母は、屋敷の台所で下働きをしていて、子供の気安さでよく会いに行ったものだ。そこで出会ったのが、幼いユーリアンだった。
同じ年頃の男子の常で、二人はすぐに仲良くなった。ユーリアンは家庭教師がついて日に何時間も閉じ込められていたし、アルノーも親の仕事を手伝っていた。だから遊べる時間というのはそうないのだが、その少ない時間を、父の手掛けた庭を走り回って遊んだ。
春の花、夏の花、秋にも冬にも花は咲く。その一つ一つを、決して踏まないよう、整えられた庭を駆け回る。父に内緒の秘密基地もあったが、今思えば、きっとばれていただろう。大木の枝垂れと生垣で囲まれ、下草の柔らかな小部屋のような空間で、二人はいろいろなことを語り合った。ユーリアンが持ち込んでくる菓子やちょっとした何かをつまみながら、そのころからすでに大魔術師の片鱗を見せていた彼の塔入りの話や、菓子に魅せられいつか店を持つのだといったようなことを。
道が分かたれたのは、十三になったアルノーが侯爵家を出た時だ。父母から独立し、街の外れに小さな居を構えて、近所の菓子屋に下働きとして入ったのだ。それでも、ユーリアンはたびたびその小さな部屋を訪れた。彼は相変わらず美味い菓子を携え、そしてえアルノーは、幼いころからつまみ食いし続けた屋敷の食事を安い食材で再現してはふるまった。塔に入れば自室にキッチンがあるから、というユーリアンに、いくつかの料理を教えたりした。
いつからだろう。お互いに話がかみ合わなくなったのは。
アルノーにとって、塔は夢の中の話のようだった。衣食住を与えられ、日がな部屋にこもっているだけで、莫大な給金が発生する。ただ魔力があるというだけで、そんな夢のような生活ができる。
自分にも多少の魔力はあったが、それはせいぜい、コンロに火をつけたり灯りをつけたりする程度の微弱なものだ。到底、入塔などできるものではない。
下働きで少しずつ技術を盗みながら、店を移り、腕を認められ、やがて王都随一と言われるクラン・クランで菓子作りを担当するようになっても、アルノーは町はずれの小さな部屋以上には住めなかった。開店資金は貯まらず、店では店主のアイディアを再現することしか出来ない。
自分とユーリアンは、何が違うのだろう。アルノーは考えた。それは、家族だ。生まれた家だけが二人の違いだ。ただそれだけだ。世の中のほとんどが、生まれたときにその運命が決まっている。
もちろん、それは仕方のないことだ。ユーリアンにはユーリアンの苦労があるだろうし、それをアルノーが肩代わりできないように、その恩恵だって受け取る資格はない。だが夢は見る。まるで塔の中のように、思うままの世界であったらいいのに、と。
ユーリアンの幸運は、セシュラール家に生まれたことそのものだ。だが、彼はそれを、表には出さないが厭うているようだった。贅沢にも、侯爵家長男であることに悩んでいるらしかった。
父子の関係がうまくいっていないことは、なんとなく想像がついた。たまに、遠目で見かける侯爵は、距離があっても竦み上がってしまうほど厳しい雰囲気をまとっていた。とてもじゃないが、アルノーのように父に肩車されて壁に激突するような事態にはならないだろう。
だからこそ、驚いた。セシュラール家から使者が来て、ユーリアンの友人である貴殿に頼みがある、などと聞いた時には、自分の存在が知られていたことにまず意外なものを感じたのだ。
おそるおそる、久しぶりに屋敷を訪れ、通用口から通されはしたものの、裏と呼ばれる使用人エリアではなく、侯爵専用の応接間に通されて二度驚いた。
そこで初めて、ユーリアンの母が病床に就いていることを聞かされた。
まだアルノーがこの屋敷にいた頃は、教育を侍女任せにする奥方が多い中、時に台所にユーリアンを自ら迎えに来るような気さくな姿をよく見た。それが、ここ数年、すっかり起き上がれないほどに悪くなってしまった。治療の効果ははかばかしくなく、しかし、最近異界の少女から治療法のヒントをもらった、と。
細かい経緯は、説明されたがよく覚えていない。とにかく、奥様の病気を治せるのは、ユーリアンだけなのだということは分かっている。そして、彼の持たない治癒魔術を引き出すために、彼の恋人の協力が必要だ、と。
見えない沼が見える。侯爵の背後に広がっていたはずのそれは、いまやアルノーの足元をひたひたと濡らしている。
風が吹き、体が震えた。あの先のことは思い出したくない。
店へと急ごうと馬に鞭を入れたその時、道の先、街灯の下に騎乗した男の姿が見えた。
ああ。
やはり失敗した。
夜が更けるにつれ、少しだけ肌寒さを感じるようになった。シルビアはそれでも、寒さを表に出さないよう、背を伸ばし椅子に座っている。
壁際では、こちらは気持ちを全く隠さないミラベルが、侍女に肩をさすられながらシルビアを睨んでいる。
正直なところ、一体彼女がシルビアの何をそんなに敵視しているのか、分からないところもある。確かに嫌味はぶつけたが、彼女は裕福な家に生まれた令嬢で、生粋の貴族だ。そしてユーリアンといつも一緒にいる。シルビアをねたんだり恨んだりするような要素があるとは思えなかった。
「あの……シルビア様、大変に失礼なこととは承知の上で、少しこの部屋を暖めてもらうことはできないでしょうか」
図々しい頼みだと分かっているのだろう、それでも、主のためと思うのか、ミラベルの侍女はシルビアに頭を下げた。
「……ええと、あなた、名前はなんとおっしゃるの?」
「は? あ、サランと申します」
「そうですか。申し訳ないけれどサランさん、部屋を暖めるには魔力が足りないの」
「嘘つき!」
唐突に、ミラベルが割り込んできた。険しい顔をしている。サランは慌てて彼女を諫めるようだったが、それを振り払うようにして、
「あなたの魔力はお姉さまに匹敵すると聞きましたわ。そんな嘘などつかずに、言いなさいよ、私に便宜を図るつもりはないと!
不愉快だわ。四の五の言わずに、部屋を暖めなさい!」
大声でさも糾弾するかのように言う声に、不快感が顔を出す。
シルビアは、ついこの間まで普通の女だった。あくせくと働き、楽しみもなく、日々をやるべきことだけに費やす嫁き遅れ。周囲からひどい扱いを受けることもあった。
だが、幸いと言っていいのか、周囲に貴族はいなかった。だから、こんな風に、頭ごなしに上の立場からものを言われる経験もなかった。イレニウスの元で働くようになってからようやく知った世界は、シルビアにまだ馴染んでいない。人に命じることと同じくらい、なんの関係性もない相手に命じられることに、感情がついていかなかった。
ミラベルにとっては、ずっとこうだったのだろう。自分より下と見定めた相手は、自分の言うことをきいて当然だと。その通りだ。それが王都における社会の在り方だ。
それでも彼女を好きになれない。
もちろん、彼女もシルビアを好きではないのだろう。理由は分からないにしろ、向こうが優しく出来ないのなら、こちらも素直に助けようとは思えなかった。
シルビアは、ミラベルだからユーリの制止を振り切ってまでここに来たわけではない。彼女がユーリにとって大切だから来た。根底にあるのは、ユーリへの気持ちだけ。
あの日、彼を連れ去ってしまったミラベルを、心のどこかで最初から嫌っていたのかもしれないとも思う。
彼女ほど、それをあからさまに表に出したりはしないけれど。
「……ミラベル様、私の魔力について、どこでお聞きに?」
「どっ、どうでもいいでしょう、そんなことは。それより早くしなさい、寒いわ!」
「悪いけどできない」
気持ちが制御できなくなり、下町言葉でぶっきらぼうに断ってしまった。案の定、ミラベルは目を吊り上げ、おそらく罵倒しようとしたのだろう、息を吸いこんだ。それを遮る。
「嘘じゃない。ほんとよ。そもそもユーリとの念話で結構魔力使っちゃったし、それに、サランさんは知ってるけど、ここに来る道々、少しずつ使ってきたし。
ちょっとは戻って来てるけど、これも使う予定があるの。だから悪いけど、サランさんとくっついてしのいでちょうだい」
言葉を遮られてさらに険しい顔をしていたミラベルは、やや警戒した顔をする。それを見て、シルビアは本気で不思議に思う。
この人は、どちら側なのだろう。
彼女はシルビアに悪意を持っている。きっとこの計画も、その悪意の発露だろう。けれど、そればかりが目的ではないと、さっきアルノーがばらしていった。彼は、ミラベルに協力するふりをして、本来の自分の目的である、ジゼルの陣の再現を願っている。
ミラベルはそれを目の前で見ていた。自分の味方ではなかったアルノーは、ミラベルを利用して、そしてさらに危険な目に合わせたまま去った。
どう思っているのだろう。
敵の敵は味方、という単純な図式ではない。彼女にとっては今もしかして、自分以外はすべて敵、なのかもしれない。
「……ユーリアン様と念話を交わしたとおっしゃったわね」
「うん」
「ではあなた、知っていたの? ユーリアン様の遣わした馬車ではないと分かっていて乗ったの?」
「うん」
「なぜ?」
言われた通りに、サランがミラベルに寄り添い、少し寒さが和らいだのだろう、頭を働かせてきたようだ。人形のような美しい顔は青白いままだが、体は落ち着いてきたようだ。
「サランさんが真っ青でぶるぶる震えていたから。ちょうど今のミラベル様みたいね」
「だっ、だとしたら、つまり私のために来たのではないの? だったらなぜ、そんなに私を馬鹿にした態度なの?」
魔力がある程度回復したのを感じて、シルビアは立ち上がって扉に近寄った。そして、アルノーの陣を再現して、拒否の呪を解いた。後ろの三人には、何が起こっているか分からないだろう。そしてすぐに、新たな呪封をかける。
回復した分の魔力をほとんど使ってしまった。疲れを感じたが、寝るわけにはいかない。
シルビアは、扉に寄りかかるようにして、ミラベルに向き合った。
「ミラベル様。私は、辺境伯のところでいろいろなことを学んだわ。淑女教育もその一つだったけれど、こちらはまだ、まあ身に着いたとはお世辞にも言えないわね。でも、伯の教育は私を変えました。
伯は、辺境を守る防衛の要なの。敵国との争いを常に想定している。その中で、やっかいな事態のひとつが、人質です。向こうに手札がある状態では、本来の戦い方は出来ない。当然、交渉をしつつ人質の奪還を図るけど、その際一番難しいのは、居場所の特定だとおっしゃっていたわ。
どこにいるかさえ分かれば、計画は幅を広げ、いろんな対処が可能になる。そのことを、伯から教えてもらいました」
シルビアは、分かっているのかいないのか、ぽかんとしているミラベルに微笑みかけた。
「来る途中で、目印を残しました。助けは来ます。私の仕事は、ユーリを含む味方の人たちにここの位置を知らせること。あの時、それが出来るのは私だけだった。仕事を果たした今、私はもう、彼らを信じることだけしかできない。あなたには、何もしてさしあげられませんわ」
扉にかけたのは、ユーリの陣だ。ここを開けられるのは、ユーリだけ。
だから待つ。
この扉が開くその時を。
ようやく繁忙期を脱しました。
以前程度には更新頻度をあげたいと思います。
とはいえ、残りはあと少しですね。




