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「あの……?」
シルビアは、窓を少し開けて窓枠に手をかけた。覗いた外の景色がどんどん草木を増やしていって、もう森の中といってもよかった。
「どちらへ?」
「恐れ入ります、そのまま、どうぞそのままで」
うつむき加減の迎えの女が、声を押し殺すように言う。シルビアは侍女と素早く目を見かわした。
「お前、ロード・セシュラールの使いではないのね? お嬢様をどこへ連れていくつもりなの。すぐに馬車を戻しなさい」
侍女が強めの口調で言うが、女は押し黙ったままだ。その間も、馬車は森へと分け入っていく。揺れが強く、倒れそうになるたびに、シルビアは窓枠につかまってそれをしのいだ。
まさか飛び降りるわけにもいくまい。侍女に目配せし、おとなしくしているよう伝えた。
やがて馬車は、一見の廃屋に着く。森の中にあるにしては大きな屋敷だが、無人の期間が長いのか、荒れ果てている。きしむ門扉を通り抜け、膝丈ほどにも生えた雑草を押しのけるように馬を進めた御者が、玄関の前で手綱を引いた。
雨風にさらされた壁は黒く筋を残し、そこにまばらにツタが這い登っている。
御者台を降りたのは、思ったよりも若そうな男だった。彼は、玄関扉の前に立つと、小声で呪を唱えながら右手に陣をたちあげた。魔力を持っているのだ。
どうやら、立ち入りを拒む術がかけられていたらしい。それを魔術で解いた男は、そのまま馬車に近寄り、扉を開けた。
「どうぞお嬢様方、中へ」
「断ります。今すぐ街へ戻るか、お前がここから消えなさい」
シルビアが即座に答えると、男は少し驚き、それから楽しそうに笑った。
「これは、噂以上に気が強い。では、中へ入らなければミラベル嬢を殺す、と言ったら?」
「ミラベル様、ですか」
「ああ。中でお待ちだよ。君が来てくれねば困るからね。さあ、彼女の命と引き換えに降りてくれ」
わざとらしくも恭しく、男はエスコートするように掌で廃屋を示した。
ミラベル嬢が中にいる、というのはたぶん本当だろう。中から、ユーリの目印の陣の気配がする。だがひどく弱くなっていて、呪をかけてから大分経っているのだと感じた。もうまもなく消えるだろう。
シルビアは首を傾げた。そして、
「断ります」
と言った。
さすがに男も今度は笑わず、目を見開く。
「こ、断るとどうなるか……」
「なぜ私が、私を貶めた方のために危険に身をさらさねばならないのです? なぜあなたは、それが当然だと思うの? 不思議ですわ、こんなに悪いことをしているのに、そんなに人の善意を信じていらっしゃるなんて。お幸せなのね」
薄く笑みを浮かべながら言えば、男は絶句し、息を吸うが、言葉は出ない。しばらくしてようやく、
「……では、君自身を悪意にさらすしかないな。中へ入らねば、君を傷つける。だから降りるんだ」
シルビアはにこりと笑った。
「最初からそうおっしゃればいいのよ?」
そうして、雑草が足をくすぐる土の上に降り立った。男に促され、玄関扉をくぐる。
中は、古ぼけてはいたが、外見ほどに荒れ果ててはいなかった。とはいえ、窓にはカーテンもなく、ろくな家具も置かれてはいない。
男は、シルビアの背中を小突くようにして、玄関ホールの右手に進路をとらせた。召使たちしか通らないような裏手の廊下から、洗濯場の手前にある階段の前に出た。地下への階段だ。さすがにまずいような気がしたが、背後の男がシルビア付きの侍女の腕を握ったのを見て、仕方なくそこを降りた。
じめじめした湿気を感じるが、やはり階段自体はきちんと掃除されている。
降り切ったところに、小さな扉がある。男が押しのけるようにしてシルビアをどかせ、再び、拒否の陣を解いた。呪封とは違い、ドア自体は開いているものらしい。魔力の使い方を見ても、さほどの量を持っているわけではないようだった。
中は広かった。シルビアの私室くらいはあるだろう。窓際に立っていた女が振り向く。青白い顔をしたミラベルだった。
「案を出したのも侍女、実行したのも侍女、お前を餌にするはずだったのに見向きもされなかった、さて、結局のところ何もしてないぞお前」
ミラベルは唇を噛んだが、そこに素早く、迎え役の女が割り込んだ。ミラベルの侍女だ。シルビアはそれを知っていた。故郷のあの狭い部屋で、ちらりとだが顔を合わせているからだ。一度見た顔は、決して忘れない。
「今の言葉、お忘れなきよう」
その侍女の言うことに、どういう意味かと戸惑う男の後ろで、シルビアはなるほどと思った。ミラベルに対してシルビアをさらうよう脅しがあったのだろうが、それを侍女が肩代わりした。ミラベルは何もしていないから、罪はすべて侍女にある、と後々申し開きが出来る、という訳だ。考えたものだとは思うが、男の証言によっては結局のところミラベルもただでは済まないだろう。浅はかと切り捨てることもできるが、侍女の様子を見ればそれも躊躇われる。
「まあいい、さて、お嬢様方。シルビア嬢以外は、壁際に、向こうを向いて並べ。余計な真似はするなよ」
全員に背中を向けさせて、男はシルビアと対峙した。
「君にやってもらいたいことがある。君、他人の陣を再現できるだろ? あれ、どうやっている?」
はっとした。そのことを知っている人間はセルジュしかいないが、セルジュが誰かに漏らすとは考えられない。どこかで見られたのだろうが、たいしたことではないと思っていたせいで、内容に驚いてしまった。その様子を見たのか、男は満足したように頷く。
「やっぱりね。出来るんだろ? だったらやってもらいたいことがある」
「……それをすれば、私たちはここから出られますの?」
「もちろんだよ」
胡散臭い笑顔を向けられた。嘘だ、とは思ったが、それを指摘したところでどうしようもない。今この場の主導権を握っているのは、男なのだ。
「なにをしてほしいのです?」
「陣の再現だよ」
「なんの?」
「なんの、というより、誰の、だな」
「ええでは、どなたの陣ですの?」
「ジゼルだよ」
シルビアは猛烈に頭を働かせた。
ジゼルは死んだ。おそらく、誰かの要請を断ったことで。要請の内容は、ユーリの治癒魔術の能力を引き出すことだ。それを必要としている人間がいた。
だが、彼女はそれを断った。しかし、断ったということは、依頼するべく動くだけの根拠があったということだ。ほかの誰でもない、ジゼルに。
ジゼルという人は、魔術に優れていたということがミラベルの言動から分かる。さらにユーリのぽつぽつと漏らした話によれば、研究塔にいて、予算に糸目をつけずにあらゆる研究に手を出していた、と。
禁忌、という縛り。ユーリ、という恋人の苦悩。それを天秤にかけたとき、そこに彼女の研究熱心な性格が結びついて、導き出される行く末は。
男は、分厚い書類の束を出してきた。そしてそれを、ミラベルの前に差し出す。
「人体改変の陣……。ジゼル様は、理論を完成させておられたのですね」
それ自体が罪だ。だが、彼女はこれを実行しようとはしなかった。自分の命と引き換えても、拒否したのだ。
ならばなぜ、研究を行ったのか。したかったから、というのが本当のところだろう。知らないものを知る、無いものを作り出す、その歓びは、シルビアが仕事に傾ける労力に結果が伴ってくることに感じる満足感ときっと似ている。
「君には、これを読み解いてさらに再現してもらう。一朝一夕にいくとは思ってないが、出来るだけ急ぐんだな。成功するまで、ここから出られないんだから」
成功したところで、出してもらえる保証はない。だが、ここでそれを指摘するほど馬鹿ではなかった。
「この汚い小さな部屋で、なんの資料も材料もなく、ただただ理論だけを読んで再現しろとおっしゃるの?
さすがに、見通しが甘くていらっしゃいませんか?」
「おや、元々こんな部屋に住んでいたんだろ。辺境伯に拾い上げられ、猫のようにかわいがられて、随分と思いあがったものだ」
さて、この男は一体誰だろう。シルビアの来し方を知っていて、ジゼルの陣の再現を要請する人間。いや、彼はそれを願う人間本人ではないだろう。
ゆっくりと男の全身を眺め渡す。御者の格好をしているが、大柄の体には少し窮屈そうだ。普段から着ているとは思われない。
「残念だが俺は、ここでのんびりと成功を待つわけにはいかない。仕事があるんでね。しばらく閉じ込めてしまうことになるが、許してくださいよ、お嬢さん。
君はまずそれを読み解き、必要なものがあれば次に俺が来た時に教えておくれ。準備してくるからさ」
ニヤニヤと笑う男のその手に、ふと目が留まる。爪の間に、何かが挟まっている。白い、粉のようなものだ。食べ物を作る仕事なのかもしれない。あるいは絵師か、何か。
そこまで考えて、ひらめいた。ユーリが言っていたではないか。料理は、友人に教えられた、と。
「あなた、ユーリの友達ね?」
男は瞠目した。少し怯んだようにも見えたが、すぐに開き直る。
「だったらなんだ? そうかもな。ユーリアンが新たな能力を身に着けることを、こんなにも応援しているんだ、きっと親しい友人なんだろうよ」
皮肉気に言う。その眼は暗い光を帯びだした。かつて自分も、こんな目をしただろうか、とシルビアは冷静にそれを見た。男の口の端が曲がり、醜悪な形相をしている。
「親しい友人が、なぜこんなことをしているか、知りたいか? 俺はなぁ」
「ああ、結構ですわ」
何やら語りだそうとしたところで、それを断ち切った。男は、怒りも露わに怒鳴り声をあげた。
「なんなんだお前、さっきから! ふざけてんじゃねぇぞ!」
「あら……何を怒っていらっしゃるの? まさか、私達に聞いて欲しかったのかしら」
「ふざけんな! 人を馬鹿にしやがって!」
「自分の気持ちを吐き出すのって、気分が良いものですわ、分かります。ええ、でもね、それを聞く方の身になってみたほうがよろしいわ。
人はね、どうでもいい人間の気持ちなど、聞きたくもなんともないのよ?
愚痴や恨みを聞けるのは、親しいから、好きだから、その人の気持ちを知りたいと願うから、に他なりません。
あなたもいつか、あなたの気持ちを知りたいと言ってくれる人が出来るとよろしいですわね」
徐々に怒りで顔を赤くしたものの、時間をかけて、男はその感情を堪えきった。目先の状況で暴力に訴えるような人間ではないようだった。ここでシルビアを殴ることが、計画を遅らせるとちゃんと理解している。
壁際で、シルビアの侍女がはらはらしているのが分かり、少しやりすぎたと後悔しかけたところだったので、助かった。
男は数回、深く息を吸い、吐き出してから、
「……明日の朝に、また、来る。てめぇらの晩飯は抜きだ。大人しくその資料を読んでろ。いいな」
低く言い捨て、男は出て行った。外から鍵がかかる音と、さらに拒絶の陣が敷かれているのが分かった。
やがて足音が遠ざかり、男は仕事とやらに言ったようだった。
シルビアは、
「晩御飯抜きなんて、子供のおしおきじゃないんだから」
「お嬢様、やりすぎです。いい加減にしてくださいませ」
侍女に叱られた。
「ティナ、あなたちょっと逃げなさい。その扉、開けてあげるから」
「お断りします。あ、今のお嬢様の真似です」
「似てないわよ!」
真顔が崩れない侍女とやりあっている傍らで、ミラベルの侍女もまた、かいがいしく椅子を引き寄せ主人を座らせたりしている。
「ほんとに逃げないの?」
「当たり前です。どうせ、助けはいつか来るんですから」
その言葉に、ミラベルの侍女が顔を上げる。
「本当ですか。……ああ、その、こんなことになってしまって本当に申し訳ありません……すべて私の責任です。いずれ償いは致します。
あの、助けが来るというのは、本当ですか?」
ミラベル自身は、決してシルビアと目を合わせようとはせず、押し黙っている。さっきの男に負けないくらいに腹立たしい気持ちにはなったが、かろうじて何かを言うことはやめておいた。
「……おかしな話ね。あなたが私を攫ったのに、助けてほしいの?」
「はい」
「外部の人間がここに踏み込んだ時点で、あなたたちの罪が明らかになるのよ」
「私の、罪です。覚悟の上です。
それよりも早くしないと……お嬢様はこの気温に耐えられません。お風邪を召される前に、出して差し上げたいのです」
言葉は丁寧だが、まるで子供にするように――ミラベルの肩をさすり、心配する侍女に、シルビアは何も言えなかった。




