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 言ってみれば、胸のつかえが取れる、というような事だったと思う。夫妻とセルジュの前で、自分の誰にも言わなかった気持ちをぶちまけたことで、何かが変わった。


 シルビアには友達がいなかった。初等教育を受けていた頃でさえ、学校が終わればすぐに不用品集めの仕事に行ったし、学校を卒業すれば、周囲のほとんどは中等科へ進み、朝から晩まで働くようになったシルビアとは、顔を合わせることなどなくなった。


 街の人々はシルビアに優しかった。もちろん、一部はそうではなかった。だからこそ、親の言う中傷を鵜吞みにしてシルビアを罵倒する子供がいるのだろう。だがほとんどは、母自身がこの界隈で育ったこともあり、何くれと助けてくれることのほうが多かった。

 けれど、だからこそ。彼らは決して友人ではありえない。シルビアがもしも相談をすれば、それは助けを乞うことになる。シルビアが悩みを打ち明ければ、それは解決を求めるも同然だ。事実、商店街の大人のほとんどが、困ればいつも声をかけてくれたものだ。


 恵まれていた、とは言いたくない。ありがたいとは思っている。ただ、助けが必要な人生そのものを、良いものだったと懐かしく思うにはまだ、その記憶は近すぎた。


 そんな風だったから、シルビアは、つらい気持ちをただ吐き出すことも、迷いを相談することも、したことがない。いつも黙って考えていた。

 母にはもっと話せない。話せばきっと彼女は、泣いただろう。そしてただ、ごめんねと謝るのだ。母はそういう人だ。謝ってほしいわけではなく、責めたいわけでもない。だからシルビアは口を閉じ、たいていのことを自分一人で解決してきた。



 たぶん、甘えたのだと思う。ローザンナの優しさが、世間一般で言うところの、まるで母のような愛に見えて。イレニウス伯の厳しさが、人生の指針を示す父たる人の導きに見えて。この人たちになら、自分の中のどろどろしたものを吐き出しても受け止めてもらえる気がした。

 いい年をして、子供のように試してみたのだ。


 そしてまた、彼らもそれを知っている。シルビアらしさ、というものが、冷静さや淡々としたところにある、と思っていたなら、到底受け入れられはしなかっただろう。本当はこんなに子供っぽく、貯めこんだ鬱屈を自力では消化できない未熟な人間だ。それらを、実の父を恨むことで言い訳にした。自分と同じところまで引きずり下ろしたい、そんな醜い気持ちすら、彼らは肯定した。


 誰かが認めてくれることの、なんと心強いことか。何一つ果たされたわけではないのに、それだけでシルビアの中の何かが変わった。人は変わることが出来る。知っているようで本当には知らなかった。自分自身で味わったその変化は、多分外には現れない。ただ、シルビアの中でしっかりと根付き、きっと枯れない。






「ううん。名乗り出るつもりはないわ」


 翌日再び訪ねてきたセルジュに言った。彼は、父アガディールの母と兄弟がいまだ健在であることを聞いてきてくれたようで、彼らに会いたいかと尋ねたのだ。シルビアの返事は、否だ。


「切り取られた古い紋章ひとつで、血筋だと認めてもらうつもりもないし、そうしたい訳でもないの。正直なところ、面倒だわ」

「お前らしいな」

「身内なんて、血がつながってるかどうかじゃないわよ。それに、なんだか面倒なことになりそうな予感がするの。だからセルジュも、内緒よ。私とイレニウス夫妻と、あなただけの秘密」


 唇に指を当てると、セルジュは苦笑した。


「ではやはり、この家に入るのか」

「私なんかが、と自己卑下するつもりはないけど、それでも分不相応な話だと思うわ。ただ、そういうことを全部置いておいて、あのお二人が私を養子にしたい、と思ってくれることは素直に嬉しい。二人が求めてくれるなら、それに応えようと思う」

「残念だが、正直なところそれが一番いいような気もしている」

「私の人生は結構辛かったけど、もしかして帳尻が合ってきているのかも」


 そう言ったとき、ノックがあって、家令が顔を出した。イレニウスと話が出来るよう、申し入れをしてあった返事だ。今なら時間が取れるという。シルビアはセルジュを置いて、家令について、執務室へ向かった。



 その途中で、尋ねてみた。


「あの、エデュマさん。初めて私がここに来た時、まるでこうなることを知っていたみたいでしたよね。どうしてですか?」

「私は知っていたのではありません、お嬢様。旦那様がお申しつけになったあなたの扱いが、すでにこのことを示していたのです。私はそれに従ったまで。

 つまりお嬢様は、最初から旦那様に見いだされていたのですよ」

「そんなまさか……だって、私がどんな人間か、知らない頃じゃないですか」

「さて、一介の使用人には我が主人の心中は計りかねます。ただ、旦那様は非常に、人を見る目があるのです。かくいう私も、他家で従僕として働いていたところを、いきなり家令として引き抜かれたのです。ですから……人を見る目が、ある、とあえて申しましょう」


 軽やかに笑う家令は、冗談とも本気ともとれないそんな言葉でシルビアをけむに巻いた。そこで丁度、執務室に着く。


「以後、私に敬称はおつけになりませんよう。示しがつきませんので」

「……努力します」


 恭しく礼をされ、シルビアは執務室へと促された。



「イレニウス様。初めから私を破格の扱いで、まるでこうなると思っていたみたいなのはどうしてですか?」


 家令にしたのと、同じ質問をする。イレニウスは、いきなりの無礼さに怒ることも驚くこともなく、微かに口の端を曲げた。笑ったのだ。


「私は、馬鹿はいらない。馬鹿とは、学びを知らぬもののことではない。均衡を知らぬものだ。喜びには悲しみが、幸福には不幸が、楽しみには苦しみが。対極があってこそ、一方が引き立つ。片方しか知らぬものは、その本当の意味にいつまでも気づかない。

 お前はバランスの良い人間だ。私はそこが気に入ったのだ」

「私は……あの頃の私は、幸福を知っていましたか?」

「ああ。知っていた。お前の母は、二歳のお前を連れてわが父の訪れをわざわざ見せたのだろう。お前は桑がどこに生えているかを知っていたし、瑞花邸の名前の由来を知っていた。学びの機会が少なかったお前のそれらの見聞は、母君の手になるものだ。

 以後……苦しい時期が来たのは確かだろう。だが、お前は幸福を知っているからこそ母君を恨んだ。両端の感情を取り込んで、お前はお前になったのだ」


 愛していたから嫌った。そう。確かに。シルビアはかつて、母を愛していた。死の間際にそれを思い出した。母の最期の笑みは、幼いシルビアがしていたものと、きっと同じ。


「イレニウス様。養子の話、ありがたくお受け致します。きっとお役に立ちますわ。お約束します」

「ふん。では手続きに入ろう」

「え、今からですか?」


 早速、とばかりに書類を出すイレニウスに少し驚く。心の準備は出来ているような出来ていないような、微妙なところだ。


「うむ。できうる限り早く、お前に迂闊に手を出せないようにしておかねばならない。

 言っただろう、シルビア。あの魔石。あれは危険だ。まだその存在を知られていないことは幸いだが、あの令嬢……ミラベルといったか、あれがさわりだけとはいえ関わっているからな、用心に越したことはない」

「そういえば、ユーリから全然連絡がないですね。この石……彼がくれたこれ、セルジュによれば、念話の目印みたいなものだろうと言うのですが」

「あやつ……ユーリアンなりにお前を守ろうというのだろうが。まったく、厄介なことに巻き込んでくれたものだ。ここまでは不可抗力だが、この先意図的にお前を危険にさらすことがあれば、容赦せんぞ。主に、ローザンナが」


 それはちょっと怖そうだ、とシルビアは震えた。











「おかぁさぁん、ねぇはやく!」

「せっかちねぇ、シルビアは。領主様が来るまで、まだまだあるのよ? それにしてもあなた、言葉が早いわねぇ……物覚えがいいのかしら……」

「ねーおかぁさん、りょうしゅさまってどんなひと?」

「怖ぁい人よ、粗相したら食べられちゃうわよ!」

「そそー!」


 海へと続く、ゆるやかに曲がる道。つくりの良くない、ガタガタの道。雪が降るまであともう少し。

 飛び跳ねるように歩いて、だからとても時間がかかる。結局途中で、白い馬車を見た。白くて金の装飾の、見たことのない綺麗な馬車だ。


「りょうしゅさまといっしょに、だれかいた!」

「息子さんね。軍人なの。領主様より、怖いわよきっと」

「んー、こわい! かお! でもいいひと!」

「え?」

「いいひと!」


 手をつないで帰る。隙間風を布切れで塞いだ、狭くてきしむ、だけど帰るべき我が家へ。

 母とつなぐ手。


「そうねぇ、良い人だといいわね。シルビアが大きくなるころには、あの息子さんが跡を継いでいるでしょうから。

 シルビアは大きくなったら、何になるの?」

「なる?」

「お嫁さんかな? なんでもいいわ、幸せなら」

「しぃのごはん! ぱんになる!」

「パン好きねぇ。いいわ、シルビアの好きなパンとスープにしましょ」

「すき! だいすき!」


 階段はまだ少し難しくて、母に抱き上げてもらう。いつもよりずっと高い目線に、いつも大騒ぎをする。階下で、食堂の店主がそれを聞いて笑っている。


「お母さんも好きよ。シルビア。大好き」


 触れ合わせた頬。まだなんの混じりけもなく愛していた頃の。母の。記憶。

 小さな街の、小さな部屋の、懸命に生きていた二人。




母は、シルビアの新しい家族を許すだろうか。もしもそうなら、娘を思う祈りの中で、幸福は確かに叶えられたのかもしれない。


 長い時間を経て、シルビアはようやく、母の死を安らかに悼む。全てを昇華して、自分を縛っていたものを解き放つのだ。


「おかあさん……」


 つぶやきと共にこぼれた涙は、最後の名残のようなもの。

 シルビア・イレニウスと正式に書かれた書類は、少しだけ涙の跡がついた。











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