20
なんとなく目を覚まして、耳を澄ます。外は静かで、きっと今日も雪が降っている。窓を透かして見ると、ぼんやり明るくなっていた。雪の夜は月光を反射して外は明るい。けれどどうやらこれは、空は白みかけているらしい明るさだ。
今日は休みだ。休みの日はいつまでも寝るのが常だけれど、最近は逆に早起きをするときもある。そうすると、その日の一日はとても長い。得した気がする。
シルビアはベッドを抜け出し、寒さに身を震わせながら毛布をひきずってリビングに出た。そこはすでに温かく、窓際に飽かず雪を眺めるユーリがいる。
「早起きね、ユーリ」
「おはよう。今日はお前も早起きの日か」
早起きなのか、あまり眠れないのか。シルビアはそれには触れず、ユーリの隣で窓を透かし見た。雪が降っている。しんしんと、という表現が似合うような、夜明けの街の光景だった。
「ここは寂しい街だな」
ふと漏れ出たように、珍しくネガティブなことを言う。彼は外を眺めたままで、その視線の先には、早くも活動を始める街の人々がいた。
「ええ、田舎だもの」
「そういうことじゃないよ。ここは確かに小さな街だけれど、活気があって、人々は明るい。だからこそ……寂しいね。
本当に寂しいところに住んでいたら、こんな風には感じない。人は寂しさを人ごみの中で感じるんだ。この部屋の下は賑やかな食堂で、楽しそうな喧騒がいつまでも聞こえる。床一枚を隔てて人がいるのに、ここには一人。お前は寂しかった。だから俺を招き入れた。
ありがとうシルビア。僕も寂しかった。旅とは別れのためにあるようなものだね。どこへ行っても、俺は誰かと別れてきた。それが寂しいことだと、最近知ったんだ」
首を傾げ、彼を見る。横顔は、感情の読めない目の色をしたまま動かない。
空気が乾燥していたのか、けほ、と咳が出た。その音が母のものとそっくりで、自分で驚く。母もよく、乾いた咳をしていた。
最後のほうでは、その咳がむしろ母が生きていることを知らせてくれて、どちらかと言えば安心さえした気がする。
「大丈夫か?」
「え? うん、ちょっと喉が渇いただけ。お茶いれてあげる」
ユーリが教えてくれた手順で、陣を使ってお湯を沸かす。雑貨屋で買った茶葉に勢いよく注ぐと、葉っぱが踊った。
「はい」
「どうも」
粗末なカップで並んで紅茶を飲む。しばらく二人とも黙って外を見ていた。
「新しい魔術を教えないとな。今度はそうだなぁ……洗濯物のしわをのばすやつ」
「魔術ってさぁ、もっと高尚なものだと思ってたよね、うん。意外に生活に即していて、そのなんだっけ、研究ってやつは役に立つね」
「うん……まあ、ほんとは違うことに使うんだけどね……茶こしだってあれは本来、飛来する弓矢をね……」
「え? なあに?」
ふう、と紅茶を冷ます。湯気があがって、その向こうでユーリが少し笑う。
「お前の母君はきっと、少し寂しくて、でもお前が帰ってきてくれることを知っているからすぐそれを忘れただろうね」
そうだろうか。考えてみる。
シルビアが物心ついたころから、母はすでに体が悪かった。医者に見せようとしなかったのは、お金がないこともあっただろうが、今のシルビアはもっと厳しい意見を持っている。きっと母は、知りたくなかったのだ。自分の病気が決定的な何かだと知りたくなかった。だからその判断を先送りにした。
父のことも、そう。母は父の名を知っていた。いつの間にか会いに来なくなったという父を探すことは出来たはずだ。子が生まれると伝えることは可能だったはずだ。でもそうしなかった。決定的に拒絶されるのが嫌だったから。
母というのは、そういう人だった。
「分からないわ。でも、ひとつ言えるのは、母は笑って死んだってこと。いよいよいけなくなって、お医者様を呼んで、手を握ってあげなさいって言われてそうした。
そしたら母は笑ったの。にこ、って。握り返してはくれなかったけれど、幸せそうに笑ってた。だからきっと悪くない人生……あっ!」
血の気が引いた。母のことばかり考えていたせいで、すっかり頭から抜け落ちていた。
ユーリの恋人が死んだというその日、彼女はひとりぼっちだったという。事故と聞いたが、その死は穏やかでもなく、静かに悼むこともできない死だったと言っていた。
「ごめん、ごめんなさい」
「え?」
「無神経だった。ごめんなさい」
紅茶を窓際に置いて、体ごと向き合って頭を下げた。
「ああ、ジゼルのことか。馬鹿だな、自分のいい思い出を、俺が持っていないからといって否定することなんかないだろ。俺には俺のいい思い出があるし、お前もそうだろ」
ぐいと両頬をはさんで持ち上げられ、顔を覗き込まれる。勢い、シルビアもユーリの目の奥を覗き込むことになった。笑う形をして、けれどどこか悲しみを湛えている。きっと自分も、同じ目をしている。
なんとなく、ふと、いつか彼が立ち直った時、どんな目をするのかを見てみたいと思った。どのくらいの時間がかかるだろう。
自分がそれを見ることは、きっと、叶わない。
目が覚めた。
泣いていた。まぶたが熱を持っている。いつから泣いていたのか、分からない。
「シルビア」
誰かが手を握っている。温かく乾いた感触を、シルビアは握り返さない。ぼんやりとした頭が、ただ声だけを拾う。これは――ローザンナだ。
「魔石を『開けた』あと、あなた深く眠ってしまったの。丸一日経ったわ。また夜になったのよ。寝なさい。朝まで。夜が明けて、日が昇るまで」
子守歌のようなローザンナの声を聴きながら、シルビアはまだ夢の中にいる気がしていた。ユーリと暮らしたあの部屋が、こんなにも遠くなったのに、夢の中ではまだそこにいる。
彼の言ったことは概ね当たっている。シルビアは寂しかったし、寂しさを共有するためではなく、自分が慰められるためにユーリを招き入れた。思いやりなんて、余裕がある人間がもつものだ。あの時のシルビアにはそれがなかった。
だからユーリは感謝なんてしなくていい。目的を失って日々を淡々と生きていたシルビアを生き返らせてくれたのは、彼だ。
あの頃に叶わないと思っていたことを、今、またさらに遠くに感じる。ジゼルの死の理由を知ったユーリは、何をもって慰められるというのだろう。
「朝になったら、何もかも上手くいくわ。大丈夫よ、シルビア。もう少し眠りなさい。目を閉じて……いい子ね」
低く優しい声に促され、シルビアは目を閉じた。
夢の中なら、あなたに会える。まだ二人がお互いを通して何かを見ていたあの頃。それが悲しいことだと、気づかないでいられたあの、幻みたいな冬の――。