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夜明けに眠った後、昼過ぎに目が覚めて、母のベッドにいることに気付く。施設に預けるようなお金はなかったから、最後はここで看取った。それ以来、シーツや毛布を洗ったっきり、この奥の部屋にはなかなか足が向かない。いつか片付けなければ、とは思っていたが、ユーリの出現で思いがけなく扉を開くことになった。
狭い奥の間からリビングに出ると、ユーリはすでに起きていた。金髪が窓から入る光に透けている。
「……まぶしっ!」
「え? ああごめん、カーテン開けた」
そう言うことではなかったのだが、まさかユーリの王子様っぷりが眩しい、とは口にだせずただ肯いた。十年物のくたくたのワンピースを寝間着代わりにし、ゆるくうねる栗色の髪に寝癖のついたままの自分がすぐ側の姿見に映っていたが、そっと目をそらす。
「ええと、バスルームもキッチンも、勝手に使っていいわ。奥の部屋は私の部屋にするから、入らないで。掃除もいらない。
それから、一週間分の食費を渡すわ。これでなんとかしてちょうだい」
もともと母親との二人暮らしだったが、同じ二人でも、食費は同じという訳にいかないだろう。この程度かな、という金額を渡す。看病にかかっていたお金も時間も、今はシルビアの自由だ。ユーリには貧乏だと言ったが、かつかつで余裕がない、という程ではない。ただまあ、彼の生活水準から言えば、どっちにしろ貧しいくくりに入るのだから、嘘は言っていない。
最悪、持ち逃げされても困らない程度の期間を区切って、一週間分だ。
「了解。好き嫌いは?」
「ないわよ、子どもじゃあるまいし」
「べ、別に好き嫌いと年齢は関係なくないか?!」
あるんだ、好き嫌い。思ったが口には出さない。出さないが分かったのだろう、話をそらしだした。
「仕事は?」
「もうすぐ出るわ。朝はいらない。日付が変わる頃には帰れると思うから、夕食は造りっぱなしで置いておいていい」
ユーリは何かを言いたげに一度黙り、それから、意を決したように、
「お前がそこそこ綺麗なのは認めるが、やはり、もっと健全な仕事についたほうが」
「は?」
「夜の仕事というのは、やはり倫理上問題があ……」
無言で室内履きの足をユーリの足にダン!と落とす。飛びあがって片足ではねている姿に、僅かに溜飲が下がるが、怒りは収まらない。
「痛いじゃないか」
「人の仕事をよからぬものだって妄想するほうが、よっぽどイタイわよ。あのね、私の仕事は、お役所なの。記録係なの!」
「嘘をつくならもっとマシな嘘をつけ。役所が明け方までやってるものか」
「学もない、母の看病で昼は働けない私を雇ってくれたのよ、特殊な仕事に決まってるでしょ!」
「特殊……やはりそういう……」
「違うっ!」
そこそこ綺麗とか、いつの間にお前呼ばわりとか、言いたいことは色々あったが、間もなく出勤の時間だ。シルビアはユーリの脛にもうひとつ蹴りをくれてから、急いでバスルームに向かった。
女に蹴られたのなんて初めてだ、とぶつぶつ言いながらも、ユーリはシャワータンクの水をお湯に換えてくれている。
「私、記憶力がとってもいいの。見たものも聞いたものも、覚えようと思えば細かいところまで一瞬で覚えられるんだよね」
「そりゃ凄いな」
「役所の会議を聞いててその記録を起こすとか、列に並ぶ市民の用事を一通り聞いて、効率順に割り振ったり、そういう仕事してるの。昨夜は、長い会議だったから、記述に時間がかかっちゃっただけ。分かった?」
髪を束ねながら聞けば、神妙な顔で肯かれる。
「母の看病をしていた頃から、夕方からの時間で雇ってくれてたの。でももうすぐ、朝からの時間帯に切り替えてもらうことになってるから。分かった?」
「分かった」
ユーリは穏やかに笑い、
「安心した」
「……まぶしっ!」
「え?」
バスルームにかけこみ、なんとなくちゃんと顔を洗ってみた。
仕事を終え、人通りの少ない道を家へと急ぐ。冷えた空気が耳のてっぺんを刺し、そろそろ雪が降るだろうな、と思う。石畳の街は、雪が降ると氷が張る。暖かい王都からきたユーリは、きっとろくに歩けやしないだろう。
「靴を買わなけりゃね」
まだいればだけど、と呟きながら、冷え切った足先をちょっとだけ魔力で温める。ただ、なんだか、彼はまだいる気がした。必要なのは僅かばかりの金ではなく、腰を据える場所なのだろうから。
閉店した飯屋の横を抜け、階段を上る。無意識に鍵を取り出していたが、それを差し込む前に扉が開いて驚いた。
「おかえり」
「た、ただいま。って、駄目よ、誰か分からないうちに開けちゃ!」
「分かってたよ。足音で」
なんだそれは、と思ったが、家の中から良い匂いがしてきて、とりあえず文句は後回しにした。コンロに鍋がかかっている。ハーブとスパイスの香りは、ごくごくたまに行く小奇麗な食堂を彷彿とさせた。
「お風呂どうぞ」
「あ、うん。寝てていいって言ったのに」
「明日何があるわけじゃなし、俺に早く寝なきゃいけない理由はないんだ。無職万歳」
馬鹿ね、と笑って、バスルームに入る。ユーリに温めてもらったお湯で全身を洗うと、さっぱりして食卓に着いた。誰かと向かい合って食事をするなんて、久しぶりのことだ。それが嬉しいのかどうかも、もうよく分からない。だが、美味しいものを美味しいと感じることはまだ、出来た。
濡れた髪を軽く拭った手拭を肩にかけたまま、かぼちゃのスープを飲む。滑らかにすりつぶされたこれもきっと、魔力でやったのだろう。昨日の残りの丸パンに、野菜とミンチ肉を焼いて挟んだものと、揚げた芋が出されて、ハーブの匂いの元はこれか、と味わう。
「魔術師って、料理も得意なのね」
「俺が、得意なんだ。友達に厨房で働いているのがいて、そいつに教わった。口に合うかな?」
「美味しい。でも、ねぇ、これで一週間分使っちゃったとか言わないよね?」
「言わないよ。少し離れた海辺の市場で、まとめて買ったんだ」
確かに、あそこの店はどこも安いが、量は多い。仕入れに使う客がほとんどだ。
「使いきれるの?」
「魔力で保存しているから」
「うーん、やっぱり、料理人のほうが向いてるわよ、ユーリ」
その瞬間、彼は少し、動きを止めた。それから、静かな声で、
「いいね」
と言う。
「何が?」
「誰かに名前を呼ばれるのは、いいね。もう一回呼んでくれ、シルビア」
「……ごちそうさま。明日も同じ時間に出るわ……ユーリ」
応えると、彼は不意に立ちあがり、皿を片づけるとシルビアの後ろに立った。
「何?」
「そのままじゃ風邪をひく」
そう言うと、顔の周りに温かい風が吹いた。魔力で水気を飛ばしながら熱で髪を乾かしているのだろう。ユーリの指が、乾きやすいように髪をかきわける。耳元から入り、頭のまるみに沿うように動く。
親しくもない人間に髪を触られるなんて嫌いなはずなのに、なぜか心地よくて、シルビアは黙ってされるがままだ。
「やっぱり魔術師って、便利ね」
「だろ?」
思わず呟いた言葉が、彼を完全に居候として認めたようで慌てたが、まあそれもいいか、と暖かい魔力の風に誘われるままシルビアは目を閉じた。