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「お前、えらい言われようだぜ」

「知っているわ。困っちゃったわね、私自身はいいとして、イレニウス様と奥様に変な噂が立つのは困るのよ」

「伯の愛人説が出ていることだしな」

「笑い事じゃないわよ! なんで笑ってるのよ!」


 おしどり夫婦と名高い夫妻に対して、とんだ濡れ衣だ。立場と、それから普段の二人の様子を見れば、そうした噂が自然発生的に起こるとは考え難い。


「女連中の機微にうといお前と俺では、ない頭を寄せ集めたところで良い考えなど出るはずもない。奥様に相談申し上げるべきだな」

「ええ……全く、悪意の出どころの予想はついているのだけどね」

「まあな。そういえば、一応確認してみたが、あの二人が婚約しているってのは、嘘だな。願望込みの、威嚇ってとこか」

「ふ、ふーん」

「ちょっと信じてたんだな、お前……」


 二人で、夕食前のひとときにローザンナに会いに行った。当然、家令を通して面会のお願いをしてあるが、断られたことはないのになぜわざわざ、と思うのが庶民の感覚なのだろう。そうした感覚の一つ一つが、いまいる社会で仕事を全うするためには必要なのかもしれない。


「シルビア、あなた愛人なのですって?」

「奥様……」


 顔をきらきらさせて、開口一番そう宣うローザンナに、シルビアはげんなりする。どうやら、この手のうわさが今まで一度も立たなかったため、初めてのことに浮かれているらしい。


「あら失礼ね、うちの人の愛人がそんなに嫌?」

「はぁ? 嫌ですよ、イレニウス様なんて父親みたいなもんじゃないですか」

「あらあら、おほほほほ。下町言葉になっていますよ、シルビア」

「恐れ多い噂ですわ、それはもう、全力で否定申し上げたいほどに」

「冗談はさておき、出所はあれね?」


 冗談じゃないのだけれど、と思いつつ頷く。

 あの日、本気でやり込めてしまったことを後悔した。こんな風に反撃してくるつもりなら、自分の不名誉な濡れ衣くらい黙ってかぶっておけばよかった。

 淡々とその時のことをローザンナに説明すると、なるほど、とばかりに納得している。


「つまり、第二回戦ってことね!」


 力強く言う。あきれるシルビアの横で、セルジュはさもありなん、という顔で笑った。


「な、だから言ったろ。この方は、生まれてからずっと女社会で生きてきたんだ、ない知恵を絞るよりずっといい」

「さてさて、どう攻めるべきかしら」

「楽しそうですわねぇ……」


 まずは現状を把握しなければならない、とローザンナは言う。そして、文机の上の招待状の束を選り分け、いくつか返事を書いた。

 一週間後にまた作戦会議よ、という夫人に、悠長ではないかと聞いてみたが、手駒がないうちに反撃をするのは馬鹿の証拠、と一蹴されてしまった。


 そうして約束通り一週間後、三人は再び夫人の私室に集まった。

 ほぼ毎日、あちこちに顔を出していた結果、いくつかのことが分かった。まず、噂話はほとんどが娘世代を中心に盛り上がっているということ、そしてそれが母親たちの耳に入っている例は、半分ほどだということ。ということは、まだ父親達の元には届いていないのではないか、というのがローザンナの意見だ。

 信憑性がない話を迂闊にすれば、大事になりかねない。ここのところシルビアが外出を控えていることもあり、確かめられない噂だけが巡り、真実はまだはっきりとしないままだ。


「不幸中の幸いですわね。仕事にまだ影響がないようで、助かりますわ。男性たちの耳に入っていないうちになんとかしないと」

「あらあら、シルビア、私はね、お知らせしようと思うのよ」

「は?」

「だってねぇ、必要な情報は男性たちにも教えて差し上げないと、不公平というものではなくて?」

「……ひぇ?」


 にこにこしている夫人の目の奥を見て、シルビアは思わず体を引いてしまった。無表情で笑うイレニウスも怖かったが、笑いながら目を怒らせている夫人はもっと怖い。

 そう、ローザンナは怒っていた。夫妻を心配するふりをしてシルビアを貶める輩に、そして親切な忠告に見せかけて彼女をさげすむやり方に、この一週間ずっと怒っている。


「三日後に、またお城での宴があります。今度はね、バルドアも私と出席します。開幕の儀は、儀式としての意味合いが大きいから、あの人が警備の指揮をとったけれどね、本格的にシーズンが始まれば、せいぜい助言をするくらいなの。

 セルジュは騎士隊に戻っているけれど、貴族としての側面もあって配備には融通がききます。当日はまた、シルビアに同伴してもらいますからね」


 隣のセルジュも、ひきつった声で返事をしている。シルビアには分からないが、いつの間にか夫人の何かが点灯したようだ。

 そんな様子が、ただ夫人自身を侮られたという理由ばかりではないのだと理解できて、シルビアの気持ちはこんな時なのに何か少し、ふわりと、温かくなった。








 仕立ててあった新しいドレスは、シルビアでさえ息をのむようなものだった。ベースカラーは肌の色にほど近い淡い色だが、くびれたウエストからたっぷりとドレープをとってラウンドで裁ってある裾は、幾重にも波うち、そこに輝く小さな宝玉がまるで刺繍のように細かにちりばめられている。

 ドレスの裾の動き方は、今まで見たことのないものだ。


「もしかしてこれ……」

「ええ、あなたの街の絹よ。総絹のドレスが作れるのは、イレニウス領の女だけ。教えたとおりに、きちんと背筋を伸ばしなさい、シルビア。うちの主力商品を、ちゃあんと宣伝するのよ?」


 するすると動く布地は、コルセットをしてなお、緩みを許さない。シルビアは、お茶目に笑う夫人の心遣いに感謝しながら、セルジュとともに再び社交の場に足を踏み入れた。





 自由に会話の出来る公式の場にイレニウスが出てきたのは、久しぶりのことだ。そのため、シルビア達はすぐに大勢の人に囲まれることになる。

 意識して見ていれば、それでも、口々に話しかけるのは無粋とされているらしく、シルビアには分からないある種の順位付けでもって、会話を交わす人間は決まっているようだった。

 まっさきに話しかけてきたのは、アビアニザ子爵だった。地位的には低いはずなのに、柔らかな物腰でありながらしっかり伯と目を合わせている。そういえば、ローザンナに話しかけてきたのも、彼はかなり序盤のほうだった。やり手なのだ。


「先日はお時間をとっていただき、感謝申し上げます。ご婦人方も、ご機嫌麗しゅう」

「ああ、あれから早速、当領地に荷馬車が入ったようだな。……シルビア、そうだったな」


 話しかけられ、そして今度はアビアニザも心得たようにシルビアに笑いかけた。

 にこりと笑ってそれを受ける。


「はい。まずは荷馬車4つ分の受け入れをいたしました。領価より5%の課税をしてあります。珍しさもあって全てがはけました。領内の葉物野菜は16%売り上げが落ちておりますが、徐々に回復しています。

 私もひとつ頂きましたが、触感が新しく、どうやら高級食堂で買い占めが起こりそうだと予見されます。これはあまり好ましくありませんので、なんらかの対策が必要かと」

「もともと今年は葉物野菜の収穫高が良かったのだ、売り上げが落ちたというよりは、領価が下がったのだろう。新種が入れば、さらに下がるかもしれんな」


 すかさず、アビアニザが口を出す。


「どうでしょう、我が領地でも、実はまだ周知段階なのです、量も採れたわけではない、ですから輸出額そのものを値上げさせていただくというのは。さすれば、そちらの野菜の売れ行きも戻るでしょう」

「それではますます、上のほうでの買い占めが起こるであろう?」

「私どもではそれでも構わないのです。どうせ、収穫量があがり、物珍しさが減れば、その傾向も消えてゆくでしょう。一度高級なイメージがついたものが、いずれ自分の口に入るようになれば、購買意欲もあがります」

「なるほど、つまり……長いおつきあいということですわね」


 シルビアが締めると、アビアニザは豪快に笑った。伯もにやりとし、二人は握手をして別れた。


 次に話しかけてきたのは、伯に負けないほど無表情な壮年の男だ。セルジュが横から、サンドリヨン伯爵だと教えてくれる。ちらり、と夫人の視線が飛んでくる。

 お決まりの挨拶を交わしたが、サンドリヨンの目はすぐにシルビアに向いた。


「不躾で申し訳もないのだが、お嬢さん、あなたの着ているそのドレスの生地……まさかすべて絹では?」


 ドレスは、会場に入った時からある程度の注目を集めていた。絹の存在自体はよく知られているが、その希少価値からいまだにかなり高価な部類に入る。総絹というのは滅多にあるものではない。その動き、光沢、衣擦れの音、すべてがこのきらめくシャンデリアの下では見栄えに繋がった。


「はい、サンドリヨン伯爵様。旦那様に仕立てていただきましたの。我が領地は国内で唯一、山向こうの民と提携し絹の生産を行っております。生まれた故郷の思い出に包まれているようで、旦那様と奥様のお心遣いに感謝しきりですわ」

「絹は仕立てが難しいと聞く。よければ、仕立てた店を教えてもらえないかね? 妻と娘が、君のドレスを羨ましがってね」


 シルビアは、あえて首を傾げた。言葉を出さないまま、困った顔をしてみせた。

 訝しそうなサンドリヨンの前に、さりげなくローザンナが入り込む。


「伯爵。奥様とお嬢様は、このドレスを喜びませんわ、きっと」


 ゆったりとほほ笑む夫人の前で、ますます眉を寄せる。イレニウスで見慣れているから良いが、そうでなければ震えの来そうな迫力だ。


「なぜですかな」

「ええ、だってお嬢様がおっしゃっていましたの。うちのシルビアについて、ええ、口にするのもの汚らわしいような商売をしているのでは、と」


 ぴくり、と伯爵の口ひげが動く。ローザンナは扇で口元を隠しながら、目を細めてあくまで穏やかな口調をつづけた。


「お嬢様は我が一家がお気に召さないようですわ。まあ他所の方には見えないところもありますものね、シルビアがうちの人をどれだけ助けてくれているか、その頭脳でどれだけ仕事の効率があがったか、ええ、目の見える方でなければねぇ、理解は出来ないと思いますわ。

 ですから、伯爵、ご家族のためにも、うちとのお付き合いは、ねぇ」


 はっきりと物を言わない貴族特有の仄めかしで、夫人はほほほと笑った。サンドリヨンの顔は、みるみるうちに赤くなり、口ひげばかりか目元もぴくぴくとひきつり始めている。

 それはそうだろう、遠回しとはいえ、世情に通じぬものの見えぬ一家とは付き合えない、という事実上の突き放しだからだ。


「なんだ、そんな風に言われていたのか」

「ええそうですのよ、あなた」

「すまないな、サンドリヨン伯爵。辺境警備と領地経営の両方で寝る間もない私には、シルビアが実に得難い人物なのだ。これが気に入らぬと言われても、手放すわけにはいかん」


 最早、伯爵の顔はどす黒く変色し、怒りの余りか鼻息も荒くなっている。もちろん、妻子に対する怒りだろう。彼には、イレニウスと敵対していいことなどひとつもないのだから。


「イレニウス様、とんでもないことでございます。この、この詫びはまた改めて。どうやら子の躾が悪かったようだ。

 シルビア殿、うちのが大変に失礼をした。その上でなんと図々しいお願いをしてしまったことか。あなたの能力は、漏れ聞くやり取りだけで十分に理解できる。どうぞこれからも辺境のため、ひいては国のために尽力していただきたい」


 謝る先を間違えない、見事な謝罪を残し、サンドリヨンはきびきびと去っていった。周囲から、ため息とも嘲笑ともつかない声が漏れ聞こえてくる。


「噂に興じるような娘をもって、お気の毒ですな」


 ローザンナは、そう呟いた男の一人に、やはり優雅な仕草で振り返り、


「あらぁ。お宅のお嬢様も、同意なさっていたようですわよ。それから……」


と、視線を流し、ただ黙ってぴたりぴたりと目を合わせるだけで、シルビアを悪し様に噂していた娘の父親を指し示していった。そのあとを追いかけるように、辺境伯も確認していく。

 周囲にいたそれらの数人は、青くなってはそそくさと離れて行ったり、謝罪を呟きながら汗を流したりと忙しそうだ。

 遠くで騒ぎが起こった。どこかの令嬢が、父親に引きずられるように会場を連れ出されるらしい。


「いやはや、なるほど。これは私も悪かったようだな。庶民の子を重用するということが、シルビアの才の前にあって意味を持つとは思わなかったのだ」

「あなたったら、シルビアをこんなに悲しませて。どうしてくれますの?」

「身分があればいいのだろう。では――そうしようではないか」

「ええ、ええ、私は前々からそう申し上げていたではありませんの」


 周囲の目を意識しない夫婦のやりとり、に見せかけた会話が交わされ、その意味をほとんどの貴族が悟ったのだろう、慌てたように動き始めた。多くは、娘と妻を連れ出し事情を確認するために去り、残ったものは興味津々でシルビアに話しかけてきた。

 が、それを遮ったのは、にやりと笑うセルジュだった。


「そろそろ、一曲お相手願えるかな、お嬢さん」


 シルビアの手を取り、目で夫妻に了解をとるのを確認してから、ホールに連れ出してくれる。


「笑え、シルビア。優雅にな。そのドレス、似合っているぞ」

「セルジュに褒められるなんて……また天変が起こっちゃうかも。というか、さっきの話って、どういう意味なの?」

「あとで話があるさ」


 あとは待つだけ。今日は来ていないらしいミラベルに噂がたどり着き返すまで、シルビアにできることはない。

 慎ましやかなステップは、夜半まで続いた。









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