13
イレニウス本邸には戻らず、そのまま王都へと向かう。理由の一つは、距離だ。一度南に下がって本邸に帰り、そこから王都へ進路をとるよりも、直接向かうほうが遥かに早い。そしてもう一つの理由は、セルジュだった。
セルジュは、王都へ行くことを拒否した。自分のしでかしたことは、仲間に顔を会わせられない程度には酷い失敗だったと思っているらしい。それはそうだろうな、とシルビアなどは思うのだが、武人たるイレニウスは、セルジュのプライドなど鼻で笑ってお終いだった。失敗を恥じる気持ちがあることをむしろ褒める始末だ。
一度本邸へ戻ってしまえばそのまま梃子でも動かなくなりそうで、面倒だからとまとめてそのまま王都へと向かうことにしたのだ。
彼の帰都に拘るのには、理由がある。処分を下した皇太子が、償いを十分に終えたと判断し、セルジュを騎士隊に戻すよう指示したのだ。
いくらイレニウスとはいえ、王太子の命には逆らえない。それに、そろそろ騎士隊への復帰をするべきだと元々考えていたらしかった。
王都までは、馬車で七日。男たちだけならばもっと早いのだろうが、着た切りの野宿などとてもできそうもない夫人を伴い、召使いの乗る馬車と荷物を乗せた専用の荷馬車、合わせて十二台にも連なっての旅は、頻繁に宿泊を必要とした。
シルビアは、そんな時間も嫌いではなかった。町から出たことがなかったから、日が経つにつれ変わってゆく車窓を楽しむ気持ちがある。それでも、いつかはたどり着く。緑が減り、街道が整えられた石畳になり、通り抜ける町が次第に大きくなって、とうとうお城が見えた。
「凄いわ。お城ってあんなに大きいのね。お城より高いのは、あの塔だけ?」
「城の横にある白い塔か? いや、あとひとつ、赤い塔がある。もう百年も前に建てられたらしい。赤い方は、郊外にあるが」
「ふうん。対になっているのに、なぜ近くにないのかしら」
「さあな。一説では、赤の塔は危険人物を入れるために造ったという話がある。だから塔内は様々に魔力封じの機能が施されているのだ、と。真実は分からんが、その機能がもったいないと言って、今では魔術の研究塔になっている」
町の様子をあれこれと質問するシルビアに、セルジュが根気よく付き合ってくれている。それはシルビアのためというよりは、不安を解消するためなのかもしれないが、ありがたいことには変わりがない。
仕事の打ち合わせをする以外は、イレニウス夫妻で一台、シルビアとセルジュで一台に分乗しているから、言葉づかいも態度も気楽なものだ。
セルジュはもう、鉄仮面も総装甲も脱いでいる。黒に近いような深い緑色のスリムな詰襟型騎士服に身を包み、小窓を開けて風を浴びている。彼の目の色もまた、騎士服と同じ色をしている。それは夏草の色に似ていた。
外を眺めていたその横顔が、急に真顔になって、けれどさりげなさを装って、こちらに向いた。
「俺の髪、どう思う?」
「は?」
「髪だ。黒いだろう」
当たり前のことを聞かれ、ぽかんとした。口が半開きになっていて、慌てて閉じた。夫人がいたら、笑顔で顎下に拳をくらうところだ。
「まあ、珍しいわよね」
「そうだな」
「遠くから見てすぐ見つかるから、便利よ」
「は?」
冬ならばきっともっと、背景に映えただろう。出会った時にはもう、雪は溶けはじめていたから、その光景は見られなかった。それでも、黒く美しい髪は、色素の薄い系統が多いこの国では良く目立つ。すぐにセルジュの居場所が分かって、大変に便利だ。
そのようなことを述べると、彼は急に、大声で笑い始めた。珍しいことだ。不機嫌とは言わないまでも、いつも無表情か怒っていることが多い。こんな風に笑うところは、初めて馬に乗せてもらったシルビアが、緊張で一言も口をきけないでいる様子を見た時以来だ。思い出すと、ちょっと腹が立つ。
「なによ。面白い?」
「ああ、面白いね。この髪が広告塔みたいなもんだって言われたのは、初めてだ。みんながそんな風に、どうでもいいことだと思ってくれればいいのに」
「どうでもよくはないわよ、私だってもっと綺麗な金髪だったらいいのにって思うし」
「俺が言っているのはそういうことではないが、ご婦人が髪の艶に悩む程度の問題だと、そう思うのも悪くない」
黒髪が、祖先に異界人をもつ故ということや、そのことを忌避する感覚を持つ人々が一定数いることを、シルビアは知らなかった。だからセルジュの言うことのほとんどが理解できなかったが、彼が鉄仮面をかたくなに外さなかった理由の一端はここにあるのだろうということは分かった。そして、それが勝手に解消されたことも。
上機嫌の訳は不明ながら、怒っているよりずっといい。シルビアは肩をすくめるだけで、すぐに車窓に注意を戻した。
すでに、王都の辺境伯別邸に近付きつつある。城が近く、賑やかな通りに面している。一等地なのだろう。街を歩く人々も、心なしか上品に見える。もちろん出歩いているのはほとんどが庶民だが、流行を適度に抑えるだけの余裕はあるようだった。
時折、騎士が鎧を着て立っていたり、貴族らしい女の二人連れが、護衛を従えて歩いていたりする。
「飽きないな」
「うん。人が一杯ね」
「着いたぞ。あれが王都での住まいだ」
「あの黒い門? へぇ、向こうの館は壁が白かったけど、こっちは萌黄色なのね」
「雪も降らないからな、防虫を兼ねた塗装をしている。樹齢の長い木をふんだんに使っていて、漆喰に負けない厚さがあるから、防衛と言う点でも実は優れている」
こちらもかなりの広さを誇る敷地と建物だが、全体的に可愛らしい印象だ。聞けばどうやら、ローザンナの実家から譲られたものらしい。中の意匠も、豪奢というよりは優美なものが多く、主人の許可をえたシルビアは夕食に呼ばれるまで家の中を見て回った。
「満足したか、シルビア」
女中に手伝ってもらって旅装を解き、簡単なドレスに着替えて食卓につくと、伯が面白そうに聞いてきた。
あなたが来てから口数が増えたわ、といつかローザンナが言っていたが、確かに、真顔で笑っていた頃に比べて表情が分かりやすくなった、と思う。
「はい。翠嵐邸の別名の通り、山のごとく不動の館ですわ。侵入も外からの攻撃も難しい、細部までよく考えられた造りですわね」
「嫌だわ、あなたったら、シルビアに何を教えているの? シルビア、この家は私の父が私のために、春の山のように華やかで若々しくあれ、という意味で翠嵐と名付けたのよ。砦じゃあるまいし、もう」
夫人はそう言うが、彼女の父親はこの国有数の豪商、それも武器を主に扱っていたとイレニウスから聞いている。娘に与えた家も、守りに重点をおいていたに違いない。それを悟らせないところが、親の愛なのだろうか?
「それよりシルビア、社交シーズンが始まる前に、お茶会に行くわよ」
そう言うと、夫妻とセルジュの間で、何人かの女性名がやりとりされた。話し合いがあり、最終的に数人にしぼられた名前を、シルビアは覚える。
「今名前の出た令嬢が、シルビアの手本だ。受け答えも仕草も、お前の年頃の女がとる態度としてふさわしい。洗練された口調と歩き方、噂話に対する会話の上手さ、男相手の媚び過ぎないがしかし愛らしい対応、全て盗んで来い」
「セルジュったら、盗むなんて人聞きの悪い。勉強させてもらうのよ?」
机上だけでは分からない、夫人の教育の実践編というところだろう。
宣言通り、翌日からあちこちの茶会に連れだされた。立場としては、夫人の随伴者となっている。身分はあえて明らかにはしないが、聞いたことのない家名はすぐに庶民だと知られることになる。それでも、それを凌駕してあまりある貴い態度を身につけんと、シルビアは記憶力を総動員した。覚えたことを家で繰り返し実践し、さも小さな頃からそう振舞っておりました、という風情で次の茶会に出席する。
ただ、最もシルビアを苦しめたのは、ダンスだった。覚えることとその通りに身体を動かすことは訳ないのだが、足の痛みだけはどんなに記憶力が良くてもなくならない。いつもぺたんこの布の靴を履いてた脚は、固い革の、しかも高いヒールを持つ靴にいつまで経っても慣れない。
赤いかかとに泣きべそをかいていると、相手役のセルジュが軽く言う。
「治癒魔術をかければいいじゃないか」
「あ、セルジュ使えるの? 一回やって見せて。覚えるから」
「はぁ?」
「早く」
「覚えただけで使えるもんか。魔術なめんな」
半信半疑の顔で、セルジュが右手を上向ける。呟く言葉に耳を寄せ、その陣を観察した。と、途中で陣が消えてしまった。
「お前、そんなに寄るな!」
「え? だって聞こえないよ、ぶつぶつ言うばっかりで」
「分かった、聞こえる声で唱えるから、離れろ!」
「ええー、意味分かんない、踊る時はもっと近いじゃないの」
「うるさい」
再び陣が現れ、やたらとはっきり詠唱がなされる。緑の術光がまとわりついてきて、右のかかとの痛みがとれた。
シルビアは、呪とともに、陣の形を少し試行錯誤しながら再現し、左のかかとを治療した。その様子を見て、セルジュが息をのむ。
「お前、見ただけで習得できるのか? いつからだ。どんな呪でも可能か。それは誰に習ったんだ」
矢継ぎ早に聞いてくる。不思議に思いつつ、魔術を見せてくれるお手本が近くにいたこと、真似をしたら出来たことと出来た陣の種類、きちんと学んだことはないからそれ以上は答えられないことを、考え考え話した。
「手本とは?」
「えっと……言えない」
「馬鹿を言うな、かなり複雑な術も使えるようじゃないか、相当名のあるヤツに決まっている、ちゃんと教えろ」
「名がある人だから言えない。私はあの街を出たことがなかったのよ。そんな場所に、名のある人が来るなんて、訳ありに決まってる。言っていいかどうかを判断するのは、私じゃないわ」
勢い込んでいたセルジュは言葉を詰まらせ、しばらく考えて、シルビアの言い分を認めたのか、
「イレニウス様に今の話をする。いいな?」
と、聞いた。伯に聞かれれば、自分は応えざるを得ない。だが、いずれ言わねばならないことだ。上からの命令だと自分を納得させられる理由さえあれば、なんとなく罪悪感も薄れる気がした。
この時はまだ、それが大きな意味を持つことには気付いていなかった。




