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ここがあなたの部屋、と連れてこられたのは、とても使用人部屋とは思えない一室だったが、シルビアにはそれをどうこう言う余裕はもうなかった。
風呂に連れ込まれ、悲鳴をあげて拒否したにも関わらず、ただただ楽しそうに笑う夫人の指示で、上から下まで磨きこまれる。自分が出た後の浴槽は、別の悲鳴が出るほど垢が浮いていて、あまりの恥ずかしさにシルビアは茶漉しの要領でその汚れを綺麗にした。
「まあ、魔力も使えるのね」
「おおおおおお奥様、これも教育ですか?!」
「そうよ。これからは毎日きちんと浴槽につかること、時間をかけて髪と顔の手入れをすること。手入れにきちんとお金と時間をかけるのは、相手に対する礼儀でもあるのよ。そしてそれははっきりと目に見えるもの。サボったらすぐ分かるわよ?」
髪や身体を洗う何か、髪や顔につける何か、をどっさり手渡され、ため息をこらえるのが大変だった。生きるのに必要のない手入れは、金持ちの道楽にしか思えない。生き方、暮らし方が母を中心に回っていたシルビアは、その本質を掴みかねた。
翌日、やって来たのは町の婦人服店の仕立て師と店主だった。つまり、
「んまっ、髪がまとも!」
「ガナンおじさん……ひどい」
「元が残念でしたもの、ちょっと何かすればすぐ効果がでるの。まだ若いし、なんとかなるでしょう」
「奥様……ちょっとひどい」
王都から仕立て屋を呼ぶくらい訳のない立場だろうが、普段着はこの町の経済に貢献しようという夫人の気持ちが見て取れる。それを分かっているのだろう、店主のガナンも仕立てる服の種類をしっかりと把握していた。
同時に、雑貨屋のボニのところにしっかり事情を話してくれるらしい。これで、方々に挨拶をせずとも、シルビアが姿を見せなくなった理由が町中に広まるだろう。
仕事着と、簡単な夕食会向けのドレス、それぞれを何着かまとめて注文する。上から下までぎゅうぎゅうにサイズを測定されて、腰が締め上げられる苦しみを味わったが、そんなのはまだ序の口だ。
その日から、イレニウスが明言した通り、シルビアの私生活は全てが教育にあてられた。朝起きてベッドで紅茶を摂らされることから始まり、話し方、歩き方、食事の仕方まで全てに夫人の指導が入る。伯とともに仕事をしているほうが、ずっと気が楽ときたものだ。
三か月も経てば、持ち前の記憶力をいかんなく発揮したシルビアは、すっかり見た目だけならレディと呼んで差し支えない姿になった。立ち居振る舞いや話し方はもちろん、読まされた歴史書や語学本は数十冊に及んだ。ちなみに、読むだけでは分からない部分の教育は、セルジュに受けた。見かけに寄らず、彼は多くの分野に通じている。
事業に関する考え方や、経済の仕組み、他国との関係と防衛について、はイレニウスが直々に教えを説いた。吸収するだけではなく、組み合わせて吐き出す知識を鍛えられるのは初めてで、最初はなかなか要領が掴めなかったものだ。
「そろそろ領地に帰らねばならん。絹の件、お前はどうみる」
「利益は出ていますが、安定しませんわね。理由は、餌です。現在の飼料は山から採取している形ですが、人件費と輸送費、危険手当を含めて費用がかかり過ぎる上、天候に左右されるせいで採取量が安定しません。例えば、数年前の天変で大きな落雷があった年、火災の影響でほとんどクワの葉がとれず、カイコが大量に死んでいますわ。
大きな農園を作り、クワの葉自体を生産するべきです。自然に生えるものを植える、という発想には反発もあるでしょうが、初期費用を含めても二年後には黒字に転じます。これが試算の資料です」
カイコを分けて入れてある飼育箱が、ずらりと並んだ小屋の中で、匂いも気にせず二人は資料を眺めた。このような小屋が、さらにいくつも並んでいる。中は魔石を使って温度と湿度が保たれ、きちんとした飼育体制が整っていた。
山向こうの民から教わったものだ。彼らは数十年も前にすでに、このやり方を知っていたらしい。だが、山の民でもある彼らにはたやすい餌の入手が、この寒村ではなかなか難しいのだ。
「いいだろう。この提案が受け入れられ、実際に実施計画が立った時点で、その資金提供をするものとする。その旨、書類にしておけ」
「はい、伯爵様」
季節はとうに春を越え、そろそろ夏の匂いがし始めている。土と海と、緑の始まりの季節だ。それはつまり、社交シーズンの始まりでもあった。
「心は決めたか」
シルビアは、このまま伯爵の下で働かないかと打診を受けていた。つまり、今でももうほとんど帰っていない住居を完全に引き払い、イレニウス本邸や王都での生活をする、ということだ。
いい話だとは思う。だが、生まれてからずっとこの町を出たことのないシルビアには、簡単には肯けない話だ。
「ありがたい話ですわ。でも」
「分かっている。お前が無理をして上品に振る舞い、無理をして淑やかに話していることも。だが、本来のお前であるがために、この町は狭すぎる。
俺の元に来い、シルビア。その才を、国のために生かすのだ」
「……イレニウス様」
「なんだ」
「プロポーズですの?」
「違うわ!」
ふふ、と笑う。本当にありがたいことだ。シルビアの、ただ記憶するという能力がこの男の下で生かされるというならば、それもいいかもしれない。自分には価値があるのだと勘違い出来る。
全くかえりみられなかった、あの失った恋は、まだシルビアを悲しくさせる。母と、ユーリとを失った町に染みついた思い出を捨てて、新しい世界が開けるかもしれない。
「お受け致しますわ、プロポーズ」
「違う!」
瑞花邸に戻ってその話をすると、ローザンナは大いに喜び、セルジュも心なしか嬉しそうだ。シルビアがいなくなれば、またローザンナの関心はまるごと彼に向くのだから、矛先が分散されるのはさぞ嬉しかろう。
長年暮らした家を引き払うため、久しぶりに自宅に戻った。部屋に入る前に、そのことを家主に伝えねばならない。
大家である階下の飯屋の主人は、出て行くと言えば大変に残念がったが、新しい道に進むことを喜んでもくれた。母と二人、幼いころから働いて、それでもひもじい思いをした日に、そっと食事を差し入れてくれたのもこの大家だった。部屋の片づけをして、準備が整ったらまた、と打ち合わせて、ようやく階段を上る。
かつん、という固い靴底の足音は、あの頃にはなかったものだ。今ならきっと、ユーリはそれがシルビアのものだと聞き分けられないだろう。
鍵を開けて部屋に入れば、コンロの上にいまだ料理が残っている。あの日、保存の魔術をかけてからずっとそのままだ。
「どんだけ持つの、これ。すごすぎだわ」
久しぶりに下町の口調で、独り言を呟く。そして、料理に手をかざして、保存の魔術を解いた。ぱちん、と音がして、ふわりと匂いが立つ。野菜のクリーム煮と、小麦の香り。一瞬であの時に引き戻される。
二人分のそれを、自分の分だけ皿に盛りつけ、コンロ下の窯からパンを取り出す。テーブルに並べて、食事の前の祈りをささげた。
木匙に掬った熱々の野菜を、ふうと吹いて冷ます。温かい。あの冬の日、シルビアを暖めるはずだった食事だ。固めのパンを浸して、口に入れる。
涙がこぼれた。
懐かしいこの味を、今だけは心にとどめる。もう二度とない、この食卓の記憶。
塩味の混じった食事を終えて、鍋の残りを捨てた。生活してきた環境は、食べ物を捨てることに大いに罪悪感を覚えさせたが、それを食べる人はもういないし、全てを捨てて行くという決意でもあった。これで、全て、おしまい。
パンも、と考えて窯を開けた時、奥の方に何かがあることに気付いた。火種の魔石とは違う、ふたつの魔石。その形と色から、忘れることをしないシルビアの脳が巻き戻り、あの日、ミラベルの前にあったものだと判断する。
なぜここに? 疑問はあったが、なんとなくそれは取っておくことにした。
その後七日ほどをかけて、母の編んでくれた肩かけや、母の母から受け継いだという古いブローチ、子どもの頃の服をパッチワークしたベッドカバーなんかを残して、全てを処分した。蚤の市に出せるものは出したし、テーブルとイスとベッドは残して行って次の住人に使ってもらうことにした。
ちなみに、蚤の市の売り上げは、大体全部、蹴り壊した風呂場の扉の修理に消えた。
シルビアが子どもの頃から付き合ってきた商店の人々に別れを告げ、餞別を押し付けられて、そうして初夏のある日、シルビアは生まれた町を旅立った。




