1
朝もやのけむる、寒い明け方。シルビアは冷えた指先を、紙袋を包むようにして温めた。中には、焼きたてのパンが入っている。開店にはまだ早い時間だけれど、もっと早く起きて仕込みをしているパン屋のおじさんが、特別に売ってくれた。この界隈で生まれ育ったシルビアにとっては、居並ぶ商店の人々は家族のようなものだ。
ようなもの、であって、本当の家族は一人もいない。二十七にもなって独り身の彼女を心配する声は多いが、しかし、ほんの半年前まで病気の母の面倒をみていたせいで婚期が遅れたことも知れ渡っており、無理にせかすことはなかった。
母が寝ている間に出来る仕事をあれこれしていると、結局、こんな早朝に帰ってくるような仕事しか残らなかった。人影の全くない道を急ぎ、自宅への道を曲がる。
家は、飯屋の二階にある。縦に細長い店の二階が、二軒続きの貸し家になっていて、シルビアは半年前までそこに母と二人、そして今は一人で住んでいる。ひっそりと静まり返っている飯屋の横を抜け、脇にはりつくようにある階段を上ろうとして――誰かがいることに気付く。
見知らぬ男だった。この街には珍しい、透けるような金髪とグリーンの瞳。旅装ではあるが、一目で質の良さが分かる服装をしていた。
男は明らかに、困っていた。困ったような顔をしていた。その顔が、立ち止ったシルビアの姿を見つけると、分かりやすい期待を込めて輝いた。
嫌な予感がしたシルビアは、大きく間を取って、
「どいて」
と、低く言い放った。面倒事はごめんだった。厄介事も困る。最初から威嚇を込めて男を睨んだ。
だが、全く堪えた風もなく、
「助かった。人っ子一人通らなくて困っていた」
「あ、そう。そこにいられると上に行けないの。どいて」
「全財産をスられた。一文無しで困っている」
「あ、そう。残念だけど、私には関係ない」
「王都から来たんだ。街の騎士にはスリを探すよう頼んだが、明らかにやる気がなかった。金がないとどこにも泊まれないし、帰れない」
「あんた耳聞こえないの? いくら説明されたって、助けるつもりは……」
男の目が、自分の持っている紙袋にくぎ付けだと気付いて、呆れて言葉をなくした。
気持ちは分からないでもない。焼きたてのパンの香りは、あまりに魅惑的だ。ひもじい思いがどんなに惨めかを知っているシルビアは、拒絶の気持ちが萎えかけた。それを見て取ったのか、たたみかけるように男は懇願してくる。
「もう二日ほど寝ていないし食べていないんだ。命を救うと思って頼む、俺を助けてくれ」
たった二日食べなくたって死にやしない、と思ったが、あまりに哀れな様子に負けてしまった。梃子でもどく気がない、とばかりに階段に陣取っている男に、仕事帰りの疲れた頭で反論するのが面倒だったのもある。
「……女一人の部屋に上がりこもうだなんて、本気?」
「ああ、問題ない。俺には恋人がいる。……いや、いた。彼女を愛しているから、そんな心配は無用だ」
過去形に言いなおした顔が生真面目で、少し、笑えた。
「振られたの?」
「いや。死んだ」
表情一つ変えずに言う、その様子が、決定的だった。
人生のほとんどをかけて看病していた母が死に、シルビアの生活もぽっかりと穴があいている。泣いたり喚いたりする気力すらなく、ただぼんやりと毎日を過ごしている。それと同じ匂いがした。泣けない男は、彼女の死さえ一言以上は触れられず、黙って立っている。
その様子が、まるで途方に暮れているようで。立派な服を着た大の男が、親にはぐれた子どものように心細げに立っている。
シルビアの心に、似た者同士の憐れみが生まれた。パンの一つを与えるくらい、してやってもいい気がした。
「とにかくどきなよ。立って、どいて、そして着いてきて」
ため息とともにそう言うと、男は嬉しそうに立ちあがった。一段上にいるとはいえ、上背がある背筋の伸びた立ち姿は、その辺の男たちとは一線を画する美しさがあって、シルビアは思わず一歩引いてしまった。
それをどうとらえたのか、男はシルビアがどいたその場所に降り立ち、それから、そこを譲るように脇にどけた。その一連の仕草さえ、優雅で、見とれるほどだ。情けなさそうな表情ばかり浮かべていた顔も、よくよく見れば、相当の美男子といえる。
なんでも持っていそうなこの男でも、どうにもならないことはあるのだな、と、神の平等を信じる気にもなった。
部屋に入ると、冷え切った空気が外と全く変わらないせいで、息が白い。石造りの家は、暖気を溜めてくれたりはしないのだ。
シルビアは、さむさむと呟きながら、隅っこにある小さな暖房装置に魔力を流し込んだ。ぽ、と赤く火が灯ったところに、魔石を放り込む。勢いよく燃え始めたことを確認してから、持っていた荷物をテーブルに置いた。
「その辺に座って」
簡素というよりは、何もない、と言った方がいいシルビアの部屋を、男は物珍しげに見まわしている。木の粗末なテーブルに、椅子は二つ。男が腰掛けると、ぎしりと軋んだ。
粗悪な半端材で作ったせいか、今までシルビアか母しか座ったことのない椅子は、突然の重みに悲鳴をあげている。大丈夫かいな、と横目でそれを見ながら、窓の外に吊るしてあった籠から、ハムとチーズと取り出して、フライパンに放り込む。
魔力を流して、表面を軽く温めると、手早くナイフで二つ割りにした丸パンにまとめて挟み、一つを男に手渡した。温かいお茶を入れたかったが、疲れた身体でこれ以上魔力を使うのは面倒で、冷たいミルクを再び籠から取ってくる。
「魔力が使えるんだな」
「え? ああ、ほんの少しだけね。それでも、魔石の節約になるから助かるわ。でももう疲れたから、お茶はなしよ」
男はなぜか嬉しそうに笑い、手に持ったパンをかじりながら立ちあがり、勝手にポットに水を入れ始めた。そしてそのポットを持ったまま、パンを一度置き、空いた右手を上向ける。ほんの短い呪を唱え――それだけで右手に陣が立ちあがる。その魔力は一瞬でポットの水を湯に変えた。
それを呆然と見てたシルビアに、カップと茶葉を、と申し訳なさそうに告げる男は、とてもそうは見えなかったが、
「あなた、魔術師なの?」
「分かるか?」
「そんな強い魔力を使って平気なんだもの、魔術師に決まってる。魔術師はみんな王都で管理されていると思っていたけど」
「ああ。王都にいたんだ。でも……まあ、逃げてきた」
「はぁ?!」
「恋人が死んだというのに、働く気にはなれないだろ。それなのにあれこれ言いつけられて、嫌になって逃げた」
無意識にお茶を用意すると、男はカップにそのまま茶葉を放り込み、湯を注いでから、再び呪を唱えた。見えない覆いを作って蒸らし、さらに香りの出た茶葉を魔術で取り除く。たかがお茶にこれだけ魔力を使ってなお、平気な顔をしている男は、とんでもなく大きな魔力を持っているはずだ。
シルビアはめまいがした。
「お、追われているんじゃ?」
「さあな。もう三カ月ほど、あちこち転々としながらここまで来たんだ。もしかして探しているかもしれないが、見つかりゃしねぇよ」
「ね、ねぇ、そんな状態で、これからどうするつもりなの?」
つまり、王都へ帰るにも旅を続けるのにも、金が要る。追われている身分で、公的な手続きを踏んで借りる気はないのだろう。あとは友人に借りる手があるだろうが、男は見つかりたくないのだから、少しでも痕跡が残るようなことはするまい。
それに、この国は人民の管理がしっかりしている。身元のはっきり提示できない人間は仕事にもありつけない。
「思いついたんだが」
「待って、思わず聞いちゃったけど、答えは聞きたくない。それ食べたら出てってちょうだい」
「俺の余りある魔力は、君を快適に生活させてあげられる。それに俺は、こう見えて料理も掃除も得意だ」
「嫌。お断り」
「まだ何も言ってないだろ」
どんどん口調が砕けてくる男は、思いついたように膝を叩き、
「そう、言ってなかった。俺の名前はユーリ。ユーリアン・セシュラールだ。君は?」
答えれば受け入れたことになる、と思いながらも、シルビアは一口飲んだ温かいお茶があまりに美味しくて、絶対に断るという気持ちがぐらついていた。安い茶葉なのに、淹れ方でこんなにも変わるのだろうか。
寒々しい室内は、男が――ユーリがそっと追加した魔力で赤々と燃えだした暖房により、快適に温まっている。魔石とて安くない。消耗品だけあって、節約せざるを得ないのに、タダでこんなに温かく生活できるなんて。
いや、タダではなかった。
「あのね、見て分かると思うけど、裕福な生活はしていないの。有体に言えば、貧乏なのよ。悪いけど、あなたにそんな生活が出来るとは思えない。
おうちにお帰りなさい。きっと、みんな待ってるわ」
ユーリは、手ごたえを感じたのか、にっこりと笑った。それが武器になると知っている顔だ。生憎とシルビアには効かないが、しかし。
「家などない。全部捨ててきたんだ。あの場所には、思い出が多すぎる。だから――俺をここに置いてほしい」
その言葉の方は、心に届いてしまった。ため息をつく。うーんと唸りながら髪の毛をかきまわす。その様子を、ユーリはただ穏やかに笑って見ていた。
立ちあがって、使った皿とカップを流しに運び、
「洗っといて。私は亡くなった母のベッドを使うから、あなたは私のベッドで。っていってもそこにあるその台だけど。
もう寝るわ。仕事で疲れてるの」
「ありがとう、ええと、名前は?」
「シルビア」
寒さの厳しいある日、こうして、二人は奇妙な共同生活を始めた。