『血みどろ荘殺人事件』
拙い文面で大変恐縮です。
1
――――それは小さな恋だった。
いや、恋などこの世に生を授かった瞬間から今まで経験したことがなかったのだからこの感情が果たして世間一般的に知られている恋なのかは甚だ疑問である。そもそも恋とは何なのかさえ私は理解していないのだ。好意を持たれたことがなかった私はその感情がすっぽりと欠如していた。しかしながらこの狭い窓から毎夜見えたあの少女だけは私の荒れ果てた心に絶え間無い光を宿してくれた天使であったと言っても過言ではなかった。雷を受けたような衝撃とは何とも愚かな比喩表現だと馬鹿にしていたがよもや自分が体験することになろうとは露にも思わなかった。この胸を締めつけられるような掻きむしられるような言い表せられない感情は恋、と言えるのだろうか。なんということだ。私はこの歳になって人生初の恋をしたのである。
かの有名な小説家の言葉を借りるならまさに恥の多い生涯を送ってきた私にとっていまだかつてないほどの大事件だった。始めの頃はこの感情に整理がつかず日がな部屋中を彷徨いたり見もしない癖にテレビをつけてみたりと無作為に時間を過ごしていた。
日が沈み夜が来る。するとどうだろう、自分の体だというのに心臓が激しく高鳴り呼吸が乱れたちまち制御が利かなくなるのだ。頃合いを見て窓を少しだけ開きそっと顔を覗かせる。彼女だ。今夜も愛しい彼女が通った。
彼女を見るたびにぽかぽかとした暖かい気持ちになれるのは何故なのだろうか。何とも不思議な気持ちで一杯になった。
それが暫く経つとだんだん夜が待ち遠しくなり我慢ができなくなった。さすがに魔法使いではない私は当然ながら朝を夜にすることなど到底出来る筈がない。痺れを切らした私はならばと携帯で彼女を写真に納めることにした。下手くそながらも私は毎夜夢中でシャッターを切った。携帯の画像を現像して自宅に送り届ける通販サービスがあるのを知り私はすぐさま飛びついた。何とも便利である。
そのおかげで部屋の壁という壁が彼女の写真で埋め尽くされるようになった。彼女の天使のような表情がただ一心に私だけに向けられている錯覚に陥りこのどろどろとした甘い毒にすっかり酔いしれた。
また暫く経つとだんだん見るだけでは満足出来なくなってきた。写真の中の彼女はいつも同じアングルで何ともつまらない。同じ位置から撮っているのだから当然だ。ならば次はどうしよう。どうすればこの行き場のない気持ちを抑えることが出来るのだろうか。私は思案に思案を重ねそして一つの素晴らしい答えを導きだしたのである。緊張と興奮が入り交じり身体が震える。残された手段はこれしかなかった。
さあ、あと少しで夜が来る。私は愛しい彼女が通るのを待ち焦がれた。
2
先生はご機嫌だった。
春の野原のような暖かい昼下りの土曜日。自宅の書斎にて彼はその場で踊り出してしまいそうな程に、そりゃあもうご機嫌だった。理由は簡単、簡潔、単純明快。先程までうんうん悩みに悩んで執筆していた長編小説がついに書き上がったのだ。つまるところ脱稿したのである。
私は机の上に鎮座していたノートパソコンを手に取り彼のお気に入りである朱色のソファーへと深々と座る。担当編集者に送信する前に誤字、脱字、添削作業という大義名分を口実に第一の読者となるのだ。これも私が先生の助手と言う立場であるが故の特権である。
背後で私の作業終了の合図を今か今かと待ち望んでいるぼさぼさ髪の人物はあっちへうろうろこっちへうろうろととかく落ち着きがない。
「おい九重早くしろ。鈍すぎんだよお前は」
しまいには暴言を吐く始末だ。
――――余談ではあるが彼の言う九重とは私のことだ。九重千紘、それが私の名前である。
訳あって推理作家の鬼頭宗一郎の元で助手としてお世話になっている。まぁ助手といってもそんな仰々しいものではなく面倒臭がり屋な彼の代わりに資料を集めたり家事手伝いをしたりとつまりはただの使いっぱしりなのである。
「もう、長編なんですからそんなに早く終わりませんよ。頼みますから大人しくしていて下さい」
じとり目で彼を見る。一体誰の為に行っている作業なのか分かったものじゃない。しかし彼は私の小言なぞどこ吹く風と言わんばかりに聞き流した。
「良く聞け九重。今日の俺はかつて無いほどに機嫌が良い。それが終わったらアルファの特製フルーツタルトを食いに行くぞ」
引きこもりの先生が率先して外出を望むなんて珍しい。それほどまでに機嫌が良いのだろう。
それにアルファと言えば多少値段は張るものの確かな品質と季節毎に使用する特選素材のタルトが老若男女に問わず絶大な支持を得ている、全国区にチェーン店を展開しているタルト専門店である。しかも数あるメニューの中で一番人気の特製フルーツタルトとあっては黙ってはいられない。
「それは勿論、先生の奢りですよね?」
私は最重要事項を口にした。
「チッ相変わらず抜け目ねぇな…まぁいい。何てったってこれから印税がガッポリ入るからな。なんならホールで食わしてやってもいいぜ」
いや、さすがにホールは御免被るが俄然やる気が出た。出不精の彼を外の世界へと誘うアルファのタルトの偉大さに感心しつつ私は画面上に広がる彼が産み出した悍ましくも美しい物語の海へ自ら飛び込んだ。
*
先生の義理の姉で警視庁捜査一課の桐生櫻子警部から連絡を受けた時、私と先生は玄関にてまさに出かける直前だった。
たまに相談役と称して捜査に協力(先生曰く無理矢理)を依頼してくるので私にとってもすっかり顔馴染みとなっていた。敏腕警部であるその彼女から電話があったということは何かしらの事件が起きたとみてまず間違いない。携帯の向こう側から艶やかな美しい声が聞こえた。
「あら九重くん久しぶりね。愚弟はいるかしら?」
私は隣にいる愚弟扱いされた先生に「お義姉さんからです」と短く伝え携帯を握らせた。苦虫を噛み潰したような顔で躊躇していたが渋々といった様子で電話に応じた。
「…なんのようだ。これから俺たちは大切な用事があんだよ邪魔すんな。それと、直接俺にじゃなく九重に電話するのも気に食わねぇ」
「此方も大切な用事があるのよ。それにあんたにかけたってどうせ無視したでしょ」
先生はぐっと言葉が詰まった。私は話が気になって仕方がなかったので聞き耳を立てるべく背伸びをした。(先生は180cmオーバーの長身なので年齢よりも若干低い身長の私は羨ましくてたまらない)
それに気付いた先生は舌打ちをした後にスピーカーのボタンを押した。桐生警部の声が私にも聞こえるようになった。
「実は池袋で起きた事件が何だか妙なのよ。だから暇人であるあんたの意見を聞きたいと思って連絡した次第よ」
電話向こうの桐生警部が重々しく話した。ことは急を要するようだ。
「なんで池袋の事件に警視庁のお前が関わってんだ」
「所轄から出動要請があったのよ。手に負えない案件らしくてね。人気者はつらいわ」
彼女の肩を竦める仕草が目に浮かんだ。
「妙、とはどういうことでしょうか?」
「それは来てみれば分かるわ」
疑問に思ったことを口にすればうふふふと笑い声で返されてしまった。彼女の中では既に協力は決定済みのようだ。それにしても妙な事件とは何なのか。好奇心に駆られた私はちらりと先生を見上げるが玄関に取り付けられたランプの光に反射した黒縁眼鏡のせいでうまく表情が読み取れない。
先生はどう答えるのか観察しているとたった一言「嫌だ」と言い、相手の反応を待たず通話終了のボタンを即座に押した。
呆気に取られ情けなく口をポカンと開けている私の手中に携帯が返ってくる。通話口から聞こえてきたのは一定のリズムが刻まれた空しい機械音だけだった。
世界広しと言えど警視庁の依頼をタルト食いたいから嫌だと言う理由で一蹴する人物など先生しかいないだろう。そんなにタルトが食べたいか。いや、私も食べたいから先生が断ったとき少しだけほっとしたのは事実ではあるが、優先順位のレベルが違い過ぎるのではないだろうか。
しかし先生は何事もなかったかのようにスッキリとした表情で「さあ行くぞ」と玄関のドアノブを軽快に回した。
「こんにちわ」
扉を開けると先程話していたはずの桐生警部がにこにこと笑顔を浮かべ立っていた。切れ長な猫目に色香があるワンレングスカット、すらりとした流麗な体躯が黒のトレンチコートとよく合っている。警視庁のデスクか事件現場からかけていたと思っていたがよもや自宅の目の前からだったとは。先生もこれには想像もしていなかったようで扉を開けたまま綺麗に固まっていた。
「あら嬉しい、出かける準備は万端のようね。さあ行きましょうか」
桐生警部が親指をクッと曲げ自宅の門の前に停車していたパトカーを指す。運転席には苦笑いを浮かべた若い警官がハンドルを握っていた。
いまだ理解に苦しんでいた私たちを余所に彼女は更ににこりとした笑顔を向けた。
「さあ、行きましょうか」
有無を言わさぬ見えない圧力にひくりと口の端が引き攣る。
彼女から電話があった瞬間から既に私たちの退路は絶たれていたのだ。
3
神保町から池袋までは車で都道8号線経由で大体20分弱といったところか。
パトカーでは後部座席に私を真ん中にして左側に桐生警部、右側に先生が座りお互いに黙りを決め込んでいた。先生に至っては不機嫌が頂点に達しているようでぶすっとした表情を一切隠さず足をガタガタと盛大に揺すり不満を訴えていた。それとは対照的に桐生警部は全く動じず鼻唄を歌い出しそうな面持ちで優雅に足を組み手帳に視線を落としていた。
言い忘れていたがこの義姉弟、先程のやり取りを聞いていれば容易に想像はつくだろうが頗る仲が悪い。お互い口を開けばマシンガンの如く罵詈雑言の撃ち合いを繰り広げるのだから周りの人間はたまったものではない。
車内にピリピリとした空気が立ち込めハッキリ言って息苦しいことこの上ないがこれでもまだマシな方なのだ。
――――めんどくさいなこの義姉弟。私は悟った。
そうこうしているとパトカーは千登橋下を左折し都道305号線へと入っていた。ここまで来れば池袋駅はもう目の前である。
人間が決して絶えることのない街、池袋。その駅を通り過ぎ更に30分ほど進んだ先に目的地であろう2階建ての木造アパートが見えてきた。しかし屋根から壁まで全ての外観が真っ赤に塗られているそのアパートは明らかに周りから浮いており異様な存在感を放っていた。
「趣味が悪いでしょう?本当は紅荘というちゃんとした名前がつけられているのだけどあの血のように真っ赤な見た目が原因で近所に住む人たちからは『血みどろ荘』と呼ばれているそうよ」
現に殺人事件が起こっているだけに何とも縁起が悪い異名がつけられたものだ。
私は血みどろ荘、もとい紅荘に視線を向けた。アパート2階の中央の部屋にはブルーシートと黄色のテープが巻かれ警官や鑑識らしき人物が忙しなく出入りしていた。どうやらあの部屋が事件現場らしい。
パトカーを降り私たちは所々塗装が剥がれ落ちた階段を上り問題の部屋へと向かった。
*
遺体は既に搬出されていたようで1Rの和室の床には人間の形に形成された紐が置かれていた。
私は悍ましいものを見なくて済んだと一安心したが床にはまだ夥しい量の血痕が染み付いていた。何度かこういった現場に訪れたことはあるもののいっこうに慣れはしない。(いや慣れたくなどないが)
――――いや、それよりも。
「なん、ですかこれ…」
あまりの異常な光景にうまく言葉が出ずふらりと意識が遠退いた。
壁という壁に私と同じ年頃であろう少女の写真が隙間無くびっしりと埋め尽くされていたのだ。制服を着用しているので女子高校生だと思われる。手振れしていて少し見づらいものもあるが、腰まで伸ばした黒髪のロングヘアーにくりくりとした目が魅力的な美少女だった。
思春期の少年少女がアイドルのポスターを貼るような可愛らしいそれとは違った、狂気染みた行為に寒気を覚え身震いを起こす。
呆然と見やっていると桐生警部が他の捜査員と一言二言言葉を交わしながら私の傍へとやって来た。
「イカれてるでしょう?血腥い現場に慣れた私たちでさえも頭を痛める光景だわ」
眉間に皺を寄せながら苦々しく呟いた。
「桐生警部が言っていた妙なことってこれだったんですね」
確かに言葉で説明するよりもこの状況は見た方が断然早い。百聞は一見にしかずだ。しかし返ってきた言葉は予想とは違ったものだった。
「いえ、そうじゃないのよ。確かにこの埋め尽くされた写真もなんだけど、論点はそこではないの」
いつも簡潔明瞭に伝える彼女が珍しくハッキリとしない物言いにはてと首を傾げる。
この写真以外に何がおかしいというのか。辺りを見回すもそれと思しきものに見当がつかなかった。
「朝比奈美春か」
私の頭上から心地のいい低音の声が聞こえた。
見上げると先生はいつの間にか棒付き飴を口に咥え写真の少女をじっと見つめていた。先生は何か考え事があると飴を舐める癖があるのだ。(当人は糖分補給作業と言っているが)
それにしても、朝比奈美春?それはこの写真の少女の名前なのだろうか。なら何故先生は名前を知っていたのか。外に出たがらない彼が女子高生と知り合いな訳が無い。
「先生この女の子と知り合いなんですか?」
「はあ?なに言ってんだお前」
怪訝に思った私は答えを求めて尋ねたが逆に不思議がられてしまった。何か変なことを言ってしまっただろうか?
「多分この少女は今、日本で一番の有名人よ。不本意だけどね。連日テレビに映っているから九重くんも知ってる筈だわ」
桐生警部に言われ、それでもまだピンと来ず頭を抱える私に先生が額に手を当てながら盛大に溜め息を吐いた。
「…ニュースでもやっていただろう。この朝比奈美春は、今週の月曜日に何者かに殺された被害者だ」
私は漸くこの少女を思い出した。
4
桜が散り始めた4月12日、月曜日の午後23時半時過ぎ。1人の少女の命もまた儚く散った。
私立フェリシアーナ女学園高等学校に通う2年生の朝比奈美春さん(16歳)がこのアパートの先にある公園で遺体となって発見された。死因は後頭部を強打されたことによる脳挫傷。凶器は遺体の傍に落ちていた石と断定。指紋は拭き取られていた。死亡推定時刻は夜の午後10時15分から午後11時の間。進学塾から帰宅する途中を襲われたものと思われる。夜の人通りが少ない道だったことから目撃者はなし。捜査は難航、暗礁に乗り上げた。
「フェリ女って確か超お嬢様学校ですよね。しかもかなりレベルが高い進学校の」
「へぇそうなのか」
「はい。それに可愛い子が多いことでも有名なので男子からの人気が高いんですよ。この前もクラスの男子が「フェリ女の女の子と合コンしてぇ!」って騒いでましたし」
「おいおい、学生の本分は学業だろうが。何のために学校に通わせているんだよ。これで成績が落ちて担任に呼び出されても俺は絶対に行かねぇからな」
「先生ちゃんと聞いてました?僕じゃなくてクラスの男子が言ってたんですよ。それに僕なら合コンなんて不特定多数の不毛な集まりに時間を割くぐらいなら溜めていた小説を消化する為に時間を費やしますね」
「いや、それは男としてどうかと思うわ」
「もうどっちなんですか先生は」
「いやいや人生に達観しすぎだろお前。寂しい学生生活を送って廃れたおっさんになっても知らねーぞ」
「先生みたいにですか?」
「おいこら俺のどこが廃れたおっさんだ」
「あぁ先生は性格が子供の残念なおっさんでしたね」
「こんなイケメン掴まえてよくおっさんなんて言えたもんだな。お前の目は節穴かクソガキ」
「自分で自分をイケメンって言っちゃう辺りが残念なんですよ」
「人畜無害な面して人一倍腹黒いお前には言われたくないね」
「ちょっと誰が腹黒いですって?人一倍偏屈な先生にだけは言われたくありません」
「偏屈じゃない素直なだけだ」
「2人とも」
突然大きな音を立てて手帳を閉じた桐生警部に何事かと目を丸くする。
「話に戻ってもいいかしら?」
温度のない冷淡な目が私たちを貫いた。
何も言えずにいると無言を肯定と受け取ったのかそのまま彼女は話しを続けた。
「で、根気よく聞き込みを続けるとどうやら彼女はストーカー被害にあっている可能性があると分かったのよ」
「ストーカー、ですか?」
私は再度周りを見渡した。
「それがここの住人の仕業だと?」
「えぇ。この壁の写真を見れば明白でしょう?彼女のご両親や友人によると朝比奈さんは時折何かに怯えるように周りを気にしたり誰かの視線を感じるとも言っていたそうよ」
確かにこれだけ見張られていれば怯えるのも無理はない。得体の知れない恐怖に慄きそして短い生涯を閉じた朝比奈さんの心中を察し私は胸が痛んだ。
「おい、遺体発見時の概要と仏の素性をまだ俺らは教えてもらってねぇがいつ話してくれるんだ?」
先生は部屋を彷徨きながら此方に顔を向けずに詰問した。手には既にこの前お徳用で購入したラテックス製の手袋をはめていた。いつの間に。それに続き私も斜め掛け鞄から同じ手袋を取り出した。
「そうだったわね。じゃあ改めて遺体発見の経緯を説明しましょう」
桐生警部は頷き手帳を捲りながらペンを唇に当てた。
「亡くなったのはこの202号室の住人である風見廉太郎、24歳無職。今朝8時過ぎに宅配物を届けに来た運送屋がチャイムを鳴らしたけどが応答がなく、困り果てた運送屋のもとにゴミ出しに出ていたアパートの管理人が尋ねてきた。事情を説明し再度チャイムを鳴らし声をかけたがやはり応答がない。ドアノブを回しても鍵が掛かっていて開かないのでもしかしたら部屋の中で倒れているのではと危惧した管理人が自室にある合鍵を使い部屋に入りそして遺体を発見した、という具合よ。
被害者の両親は18歳の時に既に死別しており以後、生命保険を切り崩しながらひっそりと生活していた。その保険金が結構なものでね、働かなくてもいいほどの額が通帳に記載されていたわ。幾ら命を懸けようが安月給の私たちにも分けてもらいたいもんだわ。――――あら失礼不謹慎だったわね。
死亡推定時刻は夜中の午前1時から3時頃。被害者は部屋の中央で腹部に自分の手で包丁を突き立てた状態で横向きにこと切れていたわ。傍にはご丁寧に遺書が打たれた携帯が置いてあったの」
これよ、と言ってビニール袋に包まれた被害者の携帯を取り出した。そこには《私が朝比奈美春さんを殺しました。死んでお詫び致します。》と打たれていた。
「……え、風見さんが朝比奈さんを殺した犯人だったんですか?」
いきなりの事件解決である。しかしそれだと私たち(主に先生)が呼ばれた必要性は何だったのか?一体どういう事だろう。
「凶器の包丁は被害者のものだったのか?」
「えぇ。台所のシンク下にある戸棚から包丁が無くなっていたし被害者本人の指紋しか採取できなかったわ」
「ドアには鍵が掛かっていた。なら部屋の鍵は何処にあったんだ?」
「被害者が着ていたパーカーのポケットの中に入っていたわ。それと後で聞かれるだろうから先に言っておくけど窓も同様よ」
途端に先生は目をカッと見開く。
「おいおい、そりゃまるで俺が書く密室ってやつじゃないか」
ますます自殺の線が濃厚となるが桐生警部は何故か浮かない表情だった。
「だからこそ妙なのよ。状況証拠から当初警察も風見は罪の意識に耐えかねての自殺と結論付けていたんだけどそれにしては幾つかの疑わしき点が浮上してきたの。とりあえずこれを見てちょうだい」
桐生警部は先程と異なったビニール袋を提示する。中には一枚の領収証が入っていた。
「…通販の領収証ですか?」
「そう。被害者は引きこもりというものらしくて日用品などは全て通販で、食事はデリバリーで取り寄せていたのよ」
確かに卓袱台の上には空の缶ビールがコンビニの袋の中に何缶も入っており、近くにあったゴミ袋にはピザやファーストフード等の袋がぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。風見さんはかなり不摂生な生活を送っていたらしい。
「この領収証によると購入したのは洗濯用洗剤、トイレットペーパー、インスタントコーヒーの3点。品物は16日の金曜日の午後8時から9時までに宅配されるように時間指定されていたわ。これから自殺する人間がそんな行動をとるかしら?」
桐生警部が眉をひそめる。
「他には?」
急かすように足で床を叩きながら先生は詰め寄った。
「えぇ勿論あるわ。推理作家のあんたなら知っているでしょうけど普通自殺というのはその瞬間激しい恐怖に襲われる。それによって人間の体は無意識に躊躇してしまうため傷口の周りには浅い傷跡が幾つも出来るものよ。つまりは躊躇い傷ね。だけど被害者の体にはその躊躇い傷が全く無かった」
「1ヶ所もか?」
「1ヶ所も、よ。包丁で腹部に一突きした傷以外綺麗なもんよ」
「今朝の宅配も時間指定だったのか?」
「時間指定だった。8時から12時の間に届ける予定だったと運送屋が証言しているわ。ちなみにその運送屋は被害者とは何も接点がなく今日が初仕事だったそうよ。よって容疑者リストから外したわ」
初仕事で遺体を発見するとは、運が良かったというべきか無かったというべきか…。顔も知らない運送屋に私は同情の意を表した。
先生は思索に耽りながら新しい棒つき飴をポケットから取り出し口の中に放り込んだ。
「遺体発見時、この部屋に入ったのは管理人と運送屋の2人だけか?」
「いえ、管理人と運送屋は遺体に驚きすぐに部屋を飛び出したけどそのあと悲鳴を聞いて駆けつけた住人たちも次いで中に入ったそうよ」
先生は「なるほどな」と小さく呟き首にかかったよれよれのネクタイを玩具のように振り回しながらその場で一周する。
「この写真はどうやって撮られたんだ?部屋にはパソコンもプリンターもデジカメも無いが引きこもりの風見はどうやって現像をしたんだ?」
壁に貼られた写真を親指で指す先生に私はしたり顔で「昔と違って今はお店にわざわざ出向いて頼まなくても携帯で撮った画像を送信して自宅に届けてもらえる通販サービスがあるんですよ?」と得意満面に応えた。
先生は「ふーん」と無味乾燥な返答をし、「現代の技術には目を見張るものがあるな」と感心したように声を上げた。いやいや先生、あなた何処の時代の人ですか…。
「確かに自殺にしては不自然な点が多いな。遺体の状況と生前の行動がちぐはぐだ」
「でしょう?それらを考慮し警察も風見は自殺ではなく自殺に見せかけた他殺、という線で捜査を進めることにしたわ」
「つまり俺らの出番って訳か」
先生はぱちんと指を鳴らし意地が悪い笑みを浮かべる。
「そうすると犯人は風見廉太郎を刺し殺し、朝比奈美春殺害の罪を着せようとした、つまり今回の事件の犯人と月曜日に起きた事件の犯人は同一人物の可能性が非常に高いってわけだ。おい良かったな解決すれば一気に2つの事件に片がつくぜ」
何処か楽しんでいるように聞こえるその口調に桐生警部の機嫌がたちまち悪くなる。私は慌てて先生の脇腹に思いっきり平手打ちをかまして彼を諌めた。「痛いな畜生」と悪態をついてきたが彼の自業自得なので放置しておく。
「でも犯人はどうやって朝比奈さんをストーカーしていた風見さんに辿り着けたんだろう?」
誰に聞くわけでもなく疑問がぽろりと溢れ落ちた。その独り言に近い私の言葉に桐生警部が丁寧に応えてくれた。
「それは私も考えていたわ。もしかしたら犯人が風見を見つけたのではなく、風見が犯人を見つけたのかもしれない。あんなにも執拗にストーカーを働いていた彼は運悪く朝比奈さんを殺害した犯人を目撃した目撃者だった可能性が高いわ。彼が何かしらの方法を用いて接触を図ったのか、それとも目撃者に気づいた犯人が先回りして殺したのか…。今回の事件は罪を着せるだけでなく犯行を目撃された犯人による口封じのための殺人だと私は考えているわ」
頭の中の様々な疑問と憶測を整理しているのか彼女はゆっくりとした口調で話す。
「まぁとりあえず関係者である他の住人たちの話を聞きにいきましょうか。住人は亡くなった風見廉太郎を除いて全部で5人。皆、独身者だそうよ」
玄関へと歩き出した警部の後を追う私の背後で先生が窓から顔を出し鸚鵡返しのように「目撃者…」と静かに繰り返していた。
カチリ。
無機質な音が部屋に響く。壁に掛けられた時計が3時を告げた音だった。
5
関係者との聴取はパトカーの中で行われることとなった。本当は空き部屋でもあればそこで行われるのだが生憎と部屋は全室埋まっているので仕方なく我等の捜査本部はこの狭い車中と決まったのだ。運転席に桐生警部、後部座席に私と先生が乗り込む。私は手帳を取り出し聴取の内容を記録するべく準備を始めた。タイミング良くノック音が聞こえ第一発見者である管理人の浅羽弓子が顔を出した。
歳は40代半ばぐらいで体格の良いふくよかな女性がいかにもめんどくさいといった表情で助手席にどっかと座った。
管理人と言うからてっきりもっと年老いた老人が現れると想像していた私は思わず凝視してしまった。それに気づいた彼女はじろりと私を睨んだので慌てて視線を落とした。
「まずは軽く後部座席にいる2人の説明をさせてください。捜査協力者で推理作家の鬼頭宗一郎氏と助手の九重千紘くん、たまに相談役として同行してもらっています。ですから彼等の質問にも極力お答えしていただけるようお願いします」
にこりと人当たりの良い顔で桐生警部は実に簡素な説明をしてくれた。ここで「私の義理の弟で」と紹介しない辺りが彼女らしいと言えば彼女らしい。本当に先生との接点を知られたくないのだろうなと感じる。
「風見さんって自殺じゃないんですか?私が見たときあの人自分で包丁を刺してましたけど」
かなり不服そうに浅羽さんは唇を尖らせる。
「風見さんの死に幾つかの疑問点が浮上したので念のため皆さんの意見を参考にさせていただきたいんですよ」
桐生警部の言葉にびくりと反応する。
「え、自殺じゃないんですか?なら私たちの中に風見さんを殺した犯人がいるかもしれないってこと?私たち疑われてるのかしら?」
「そうと決まったわけではありません。事件解決のためありとあらゆる情報を収集しておきたいんです。是非ご協力を」
浅羽さんは「はぁ…」と納得したようなしないような二つ返事で了承した。
「私の部屋は101号室なんですけど朝の8時頃にゴミを出そうと外に出たら運送屋の人が風見さんの部屋の前でうろうろしてたんで何かあったのか尋ねたんですよ。そうしたらチャイムを鳴らしても全然返事がないっていうじゃないですか。まぁ別に放っておいてもいいかと思ったんですけどほら私、管理人でしょ?何かあって後々文句とか言われるのも嫌なんで仕方なく私も声を掛けたんですよ。でもなんの応答もないからもしかして部屋の中で倒れてるんじゃないかと思って合鍵でドアを開けたんです。そうしたら風見さんが血まみれで倒れてるじゃないですか!もう私びっくりしちゃって…!」
大袈裟に肩を上下に揺らし当時の様子を説明する。その後は急いで部屋を出て自分の携帯から救急車と警察を呼んだと彼女は証言した。
「夜中の1時から3時頃は何処で何をしてましたか?」
「アリバイって奴ね。すごいわまるで刑事ドラマみたいね。あ、えーと1時から3時ですよね?その時間帯は深夜ですしそりゃあ誰だって寝てましたよ」
つまりアリバイは証明できないということだ。
「あ、そういえば…」
浅羽さんが何か思い出したようでハッとしたように口元を手で覆った。
「何か気になることでもあるんですか?」
私は先を促すように首を傾げた。
「えぇそうなの。実はね夜中の2時くらいだったかしら?ちょっとした騒ぎがあったのよ」
「ちょっとした騒ぎ?」
先生は興味をそそられたのか浅羽さんの話しに食い入るように身を乗りだす。
「部屋で寝ていたら突然大音量の音楽が流れたのよ!何事かと驚いて飛び起きちゃったわ!」
鼻息を荒くし興奮気味に話す。
「その音楽は何処から聞こえたんだ?」
「何処も何も風見さんの部屋からよ!確か部屋に無駄に立派なオーディオプレーヤーがあったからそれが原因ね。もう五月蝿くて五月蝿くて我慢できなかったから部屋を出て文句を言いに行ったんです。そうしたら他の人たちも既に集まってたので音楽を止めるように言ったわ」
「その後は?」
「やっと分かってくれたのかスッとボリュームが下がったわ。もう夜も遅いし文句を言うのは明日にしましょうってことで解散したのよ。あ、でも眠気が通りすぎちゃったって言う美綴ちゃんを部屋に呼んで風見さんの愚痴を話し合ったわ。3時過ぎにお互いに眠くなったから彼女を送って私も部屋に戻ったのよ」
「その時何か変わったことはなかったか?」
「なかったわ。あの騒ぎが嘘のように静かだったわよ」
先生は腕を組み「ふむ…」と返答した。
「他の住人はどの立ち位置にいたか覚えているか?」
「ざっくり程度だったら覚えているけど…」
この騒音騒ぎに妙に拘る先生は隣の私に肘打ちしながら「ボケッとしてないで記録しとけよ」と念を押した。
「確か私が来たときには剛力さんが既にドアを叩いてて、私はその後ろから部屋の中に向かって注意をしたのよ。美綴ちゃんがドアから顔を出して事の成り行きを見守ってて雨宮ちゃんは困ったようにおろおろしてたわ。あの子すごく大人しい子だからどうして良いか分からなかったのね。そうしたら宮前くんが雨宮ちゃんの隣に駆け寄ってきて安心させるように話しかけてたわ。実はねここだけの話、宮前くんは雨宮ちゃんにぞっこんなのよ。彼女に困ったことがあるとたとえ仕事中でもすっ飛んできたわ」
ノってきたのか浅羽さんは聞いてもいない住人たちの情報を挟みながら得意気に話す。
先生は新しい棒つき飴を取り出しくるくる回しながら黙りこんだ。
「風見さんが何かトラブルを抱えていたようなことをきいていませんでしたか?」
桐生警部が静かになった先生の代わりに質問をする。
「どんなって言われても…さっきも言いましたけど風見さんは本当に部屋から出ないんで話したことも片手で余る程度だし。出るとしたらゴミ出しとお金を下ろしにいくときかしら?まぁ強いて言えば陰気な人だとは思ってましたね。目が合うと逸らすし挨拶しても無視されるし何この人気持ち悪いって感じかしら。しかもあの殺された女子高生をストーカーしてたって言うじゃないですか、なんか風見さんなら人殺しもやりかねない気がしちゃってね」
特に悪びれた様子もなく彼女はしれっと言った。
「今週の月曜日、夜の午後10時15分から午後11時の間は何処で何してましたか?」
それは朝比奈美春さんが殺された時刻だ。
「それって風見さんの事件と関係あるんですか?」
「はい」
不審げになるも少し間をおいて「自慢じゃないけど私、あまり記憶力に自信がないのよね。だから多分その時間帯なら部屋でお風呂に入ってるか寝てるかだと思うわ」
「そうですか…」
そこで会話が途切れたので浅羽さんの聴取が終了した。
「ありがとうございました。また何か思い出したことがあれば仰ってください」
浅羽さんが降り次は203号室の雨宮碧の番だ。歳は20代前半、肩までのセミロングにシンプルなストライプ柄のYシャツと白いロングスカートを着た大人しめな女性だ。カフェで働いているだけあって清潔そうな服装に好印象を持つ。
「よろしくお願いします」とお辞儀をした際の耳に髪をかける色っぽい仕草に少しどきりとした。
「私の部屋は風見さんの隣の203号室です。風見さんは外出をあまりなされないようでしたしそもそも目があっても逸らされてしまいましたので誰かに怨みをかわれていたかと訊かれても良く知らないんです」
先程の浅羽さんとほぼ同様の内容だった。
「夜中に騒音騒ぎがあったのは知ってるよな」
「あ、はい。寝ていたらすごい大きな音が流れてきたので驚いて部屋を出たんです。2時くらいでしたかね?確かブラック・シャウトってバンドの金切り声って曲だったと思います」
清楚な見た目に反し意外とデスメタルに詳しいことに私は驚いてしまった。
「その時他の連中はどうしてた」
「えと、私が部屋から出ると剛力さんがドアを叩いてて、その後ろで管理人さんが音を止めるように訴えかけてました。私も何かした方がいいのかと狼狽えていたら宮前さんが心配して声を掛けて下さったんです。そうしたら廊下の向こう側で美綴ちゃんがドアから顔を出していたのが見えたんでこっちに来ないように言いました」
「は?なんで?」
不可解な面持ちで先生は尋ねた。
「私と美綴ちゃんは友達なので知ってるんですがあの子、暑がりで寝るときはいつも下着姿で寝るんです。だからそのまま外に出たら皆に見られちゃうかもしれないって思って…」
「ふぅん」
つまらなそうに先生は投げやりに返した。結局彼女もアリバイは「寝ていました」という事で証明されなかった。
次の関係者は102号室の剛力真五郎という40代半ばの建設作業員だ。名は体を表す、と言うがその名の通り日に焼けた肌は黒く筋骨隆々とした体つきが勇ましい印象を与えた。開口一番に彼は「あんな奴死んで清々したわ」ととんでもない発言をした。ここまで風見さんに敵意を向ける剛力さんに私は興味を持った。
「何故そのようなことを仰るのですか?」
桐生警部が聞き返す。
それに対してハッと剛力さんは自嘲気味に笑いを溢した。
「だってそうでしょ?いい歳こいた男が職にもつかねぇ挨拶も出来ねぇうえに女子高生をストーカーしてやがったんだぜ?そんなクズ野郎が同じアパートで暮らしてたなんて腸煮えくり返るってもんですわ。俺にも女子高生の娘が、あぁ別れた女房のところにいるんですがね。そりゃもう目に入れても痛くないほどに可愛いんでさぁ。思春期によくある反抗期ってやつで口を開けば「ウザい」だの「汗臭い」だの一丁前に悪態をついてきますがそれがいい!今時の女は強くなきゃいけねぇ!我が娘ながらいい女に育ってくれたもんだ!」
「別れた女房に感謝だな!」と豪快に笑いながら娘さんの写真を見せびらかし始め、さすがの桐生警部も苦笑いを浮かべたじたじといった様子だった。先生はその光景を見てニヤニヤと笑いながら「ざまぁねぇな」と隣の私に耳打ちする。「いや、助けましょうよ」と返すも舌を出して拒否を示した。何歳児だこの人。しかしこのままだと彼の娘自慢で聴取が終わってしまいそうだったので私は双方の事件当日のアリバイについて尋ねた。そこでやっと我に返った剛力さんが桐生警部を解放する。
「そうだな…今月は多忙で予定がきっつきつだからな。朝の8時から夜の6時までが勤務時間でそのあとはコンビニでメシと酒を買って家路につく、ってのが常だな。朝が早いから11時過ぎには寝ちまうしよ」
「それを証明出来る方は?」
乱れた襟を直しながら桐生警部は確認をする。
「一人暮らしだからな。そいつぁ無理だぜ警部さん」
ばつが悪そうにガリガリと頭を掻く。
「夜中に起きた騒音騒ぎについて聞かせてくれ」
「騒音騒ぎ?あぁ、風見の野郎が大音量で耳障りな音を流したやつか。で、何が聞きたいんだい作家先生よ」
ドンと胸元を叩きながらニッと歯を見せて笑った。
「風見の部屋の前まで来た時あんたが一番乗りだったのか?」
「おう俺が一番だった。その後に管理人が来て次に雨宮ちゃんが部屋から出てきて美綴ちゃんも同じようなタイミングでドアから顔を出したな。最後に宮前の兄ちゃんがポケットに両手を突っ込んだままでけぇ欠伸をかいて階段を上がってきた。俺らには目もくれず一直線に雨宮ちゃんの近くに行ったぜ。好きならさっさと告白でも何でもすりゃいいのに気の小せぇ奴だぜ全く」
剛力さんは情けないとばかりにぼやいた。
「騒ぎがあったのは夜中の2時頃で合っているか?」
「いや、知らない。でけぇ音が聞こえてすぐに外に出たからな、時計なんか見てねぇよ。だから他の連中が2時って言ってんなら2時なんじゃねぇか?」
「そうか…」
その後は特に有力な情報を得られないまま201号室の美綴小夜との聴取が始まる。
20代前半で緩くパーマがかったショートカットが溌剌とした印象を与える。デニムのタイトスカートからのぞく健康的な足についつい視線がいってしまい目のやり場に困ってしまった。そんな此方の心情など知ってか知らずか彼女は足を組み「やっとあたしの番かぁ長いよもう」と猫なで声で話し始めた。
「今朝あたしが大学行こうしたら突然悲鳴がきこえてきたの。部屋を出たら管理人さんと運送屋さんが風見さんの部屋から飛び出したからどうしたの?って尋ねたんだ。そしたら風見さんが死んでるっていうからあたし急いで部屋に入ったの。あたしね何を隠そう医大生なの!すごいでしょ!」
にこにこと屈託のない笑顔で笑うがすぐに悲しそうに目を伏せた。
「だから何か救命処置ができないか急いで風見さんの元に急いだんだけど、駄目だった。脈も計ったし瞳孔も確認したけどもう亡くなったあとだったの。そりゃ風見さんは女の子にストーカーしてた変態さんだったけど医者の卵としてどうしてもほっとけなかったんだ」
幼い喋り方とは裏腹に生命の貴さに対するとても強い意思を感じさせた。
アリバイについては月曜の夜はバイトから帰ってきて疲れたからすぐに床についたと他の住人同様に確固たる証明ができなかった。
「昨夜の騒音騒ぎの時あんたは住人たちの傍には行かなかったんだよな」
「あ、うん…だってあたしその時、その…」
「下着姿だった?」
顔を赤らめながらもごもごと言い淀んでいる彼女が茹で蛸のように更に赤く染まる。
とうとう美綴さんは両手で顔を覆い隠し「勘弁してよもうー!」と足をバタバタと動かし出してしまった。桐生警部は先生をキッと睨み付け何とか美綴さんを落ち着かせ聴取を続けた。
最後は、103号室の宮前隼人だ。歳は20代後半、目が大きくハーフっぽい顔立ちで所謂イケメンの部類に入るのではないだろうか。職業がアパレルショップの店員である彼はアシンメトリーの髪型にグレーのカーディガン、白Tシャツとジーンズというシンプルな服装をお洒落に着こなしていた。
「いつもは池袋駅近くのショップで9時に店を閉めたあと22時くらいまで帳簿の整理や明日の準備をしてから家に帰ります。それから風呂に入ってすぐ寝るのでアリバイといっても…」
彼も他の住人と同じようにアリバイが証明できなかった。
「風見さんって目を合わせるとすぐ逸らすくせに女子高生にはストーカーしてたんですよね。同じ男として信じられません。男は何故力が強いのか、それは女性を守るためです。それなのに怖がらせたり嫌がらせしたりするのは本末転倒です。俺、自分でいうのもなんですが厳格な父に育てられたからか正義感が強いっていうか曲がったことが大嫌いなんですよね」
背筋をピンと伸ばし真っ直ぐな眼差しではきはきと桐生警部の質問に答える。
「それに…言っていいのか分かりませんが風見さん、雨宮さんや美綴さんのことじっと見てたんですよね。あの2人って友達だから良く立ち話しをしてるんですがその時に風見さんがドアの隙間からじっと2人を見てたんです。ねっとりとした目付きで気持ち悪かったですね」
それは初耳だ。当の雨宮さんや美綴さんからもそんな話は出なかった。
「話して分かったと思いますが雨宮さんはおっとりとしてるし美綴さんは子供っぽくて天然だから多分風見さんからの視線なんて気が付かなかったと思いますよ。全く、若い女性なら誰でもいいんですかね?こんなこと言ったら人格を疑われることを承知の上で発言しますがあのような人が亡くなって良かったのかもしれません。このまま放っておいたらあの女子高生みたいに雨宮さんや美綴さんもストーカーされてたんじゃないかと思うとゾッとしますよ」
剛力さんと同じ考えらしくかなり辛辣な意見を述べた。
「そうだよな、惚れている雨宮碧が他の男に舐め回すように見られてるなんて嫌だもんな」
「は、はあ!?」
今まで冷静に受け答えをしていた宮前さんが素っ頓狂な声を上げた。あまりにも分かりやすい反応に私は声を押し殺してふふっと笑ってしまった。
「た、確かに俺は雨宮さんが、好き、ですよ?だから何だっていうんですか?それで俺が風見さんを殺したっていう証拠になるんですか?」
彼は不愉快そうに話す。
「いんや、あんたは雨宮碧に恋慕している。ならその彼女に不埒な視線を送る相手をそのまま黙って見過ごすかなーと思っただけだ。おいおい何をそんなに興奮してるんだよ、推理作家のただの妄想だろ?気にすんな」
あっけらかんと話す先生に信じられないという表情で唇をわなわなと震わせる。
あ、まずい。そう思った私はこの不穏な空気を打破すべく急いで話しに割り込んだ。
「すみません宮前さん。この人本当に口が悪くて他の作家さんや出版社の方々からも「黒い悪魔」とか「鬼の皮を被った鬼」とか「自動暴言発言機」とか言われてるんです。どうか許してあげてください」と早口で謝罪した。
「え、なにそれ知らない」と先生がきょとんとした顔で私を見つめるが相手にせず知らん降りをした。
毒気を抜かれたのか宮前さんは「いや、それはお気の毒様…」と同情した目で先生を見る。
身内からの思わぬ攻撃を受けた先生は私の頭を力任せに叩きごほんとわざとらしく咳払いをした。騒音騒ぎの件についても新しい情報は掴めなかった。
「オーディオプレーヤーといえば、風見さんの遺体を発見したときに気づいたんですけど電源が入ったままだったんですよね」
「なに?」
先生は眉をピクリと動かし顔を上げた。
「それは本当か?」
「えぇ勿論。俺は嘘が嫌いですから」
はっきりと主張した。
宮前さんはその後の桐生警部の質問にも卒なく答え全ての住人の聴取が終了した。私たちは今までの情報をもとに速やかに捜査会議を開始する。
「さて、意見を聞かせてもらおうかしら名探偵とワトソン君」
皮肉を込めて桐生警部はにやりと笑いながら尋ねた。
先生は頭の中にある考えを必死にまとめているのか私の手帳を奪い取りぶつぶつと何かを独り言つ。邪魔をするとお叱りを受けるので仕方なく私が彼の代わりに桐生警部に応えた。
「でも先程の皆さんの話しで死亡推定時刻が2時から3時に縮みましたね」
あの騒音騒ぎは風見さんが2時まで生きていた証拠だ。だとするとその時間帯に一緒にいた浅羽さんと美綴さんの2人は犯人ではない。
そうすると雨宮さん、宮前さん、剛力さんの3人のうち誰かが風見さんと朝比奈さんを殺した犯人の可能性が高い。
「曲を流したのが本人とは限らないわよ。もしかしたら部屋の中にいた犯人が誤って流してしまったのかもしれないわ」
桐生警部の発言に先生が即座に否定する。
「だとしたら鳴った時点ですぐにボリュームを落とすか電源を消すだろうが。なら曲を流したのは犯人ではない」
「じゃあやっぱり風見さんが?」
「そうだとも言ってない」
完全に押し問答だ。私は先生が何を言いたいのかさっぱり分からなかった。それだけじゃない。あの密室だ。ドアにも窓にも鍵が掛かっていて尚且つ風見さんのパーカーのポケットに部屋の鍵が入っていたのだ。犯人はどうやって部屋に入り部屋から出たのか。
それに犯人はアパートの住人に関係ない全くの赤の他人による犯行という線も否めないままだ。しかしそんなこと考え出したらきりがない。
打つ手なくだらりとシートに浅く座っていた私の隣で先生が勢いよくパトカーから降りる。
「ど、どうしたんですか先生?」
「気になることがある、もう一度風見の部屋に行くぞ」
急ぎ足で歩き始める彼の後を急いで追う。何か閃いたのだろうか?淡い期待を抱きながら再び202号室のドアを叩いた。
*
鑑識が回収したのか貼られていた写真は跡形もなく本来の土壁が顔を出していた。こうして見ると平々なごく普通の部屋だ。あの写真の異常さが改めて窺える。
先生は真っ直ぐと件のオーディオプレーヤーの前まで行き立ち止まった。
警官たちによって既に電源は切られていたが先生は構わずボリュームを調整するノズルを右に回したり左に回したりガチャガチャと弄くり回す。その後満足したのか今度は窓へと歩みだした。
「やっぱりな睨んだ通りだ。おい九重来てみろよ」
先生は早くしろと言わんばかりに勢いよく手招きをするので私は慌てて彼の元へ駆け寄った。
「こんなおんぼろアパートだからな、木で出来た窓枠が変形して硝子との間にごく僅かな隙間が出来てるぜ」
だからさっきから妙に肌寒いのか、と理解する。すきま風が吹き込み私たちの髪を悪戯に擽った。
そこへ息を荒くし額に汗をかいた桐生警部が滑り込んできた。
「どうした税金泥棒。何か進展でもあったのかよ」
「鑑識からの結果が来たわ」
桐生警部は動揺しているのか先生の冷罵など意に介さず少し早口で話した。
「壁に貼られた写真があったでしょう?おかしなことに持ち主である風見の指紋が全ての写真から検出されなかったのよ」
「え、1枚もですか?」
「えぇ。全て綺麗に指紋が拭き取られていたそうよ。全く訳がわからないわ」
それはおかしい。自分の部屋に貼るのだから今更指紋も何もないだろうにどうして風見さんは自分の指紋を拭き取ったのか。桐生警部の言葉を借りる訳じゃないが、訳が分からなかった。
「ふ、ふふふふふ」
急に肩を震わせ笑い始める先生に私はぎょっとした。
「ふはっなんだよお前のその狼狽えた声。おい聞いたかよ九重?あー爽快だ、実に爽快だ」
くるくると回り始めた先生は実に上機嫌だ。
「よし行くぞお前ら」
突如回転を止めすたすたと玄関へと向かった先生に私たちは面食らった。
「行くって何処にですか?」
私の疑問に推理作家は顔だけを此方に向け悪戯っ子のような目付きで笑った。
「そりゃ勿論、犯人のところへさワトソン君」
6
時刻は午後17時過ぎ。黄金色の夕日がまるで矢のように降り注ぎ家並みを煌々と照らし出す。
私たちがパトカーへと戻ると関係者である住人たちが取り囲むように近寄ってきた。
「もう良いでしょう?そろそろ私たちを解放してくれませんか警部さん」
浅羽さんが抗議口調で訴える。
「そうだぜ、朝から同じことを何度も聞かれてちゃ気が狂っちまうよ」
剛力さんも同調するように語気を強めて話す。
確かに長時間の疲労と緊張のせいか面々の顔色は悪く青白い。
「まだ私たちの中に犯人がいると思っているんですか?」
雨宮さんが恐る恐る先生に尋ねる。傍にいた美綴さんも不安気だ。
「思ってるんじゃない。確実にいるんだよ、風見廉太郎と朝比奈美春を殺した犯人が」
先生の言葉にざわりと周りの空気がさざめいた。
「う、嘘でしょう?この中に殺人犯がいるって言うんですか?」
信じられない様子で苦笑する宮前さんに先生の冷酷な一撃が振り下ろされた。
「いる。たった一人だけが犯行を行うことが出来たんだ」
先生は困惑する住人たちを悠然と見据えた。
暫しの沈黙の後、ポケットから棒つき飴を口に入れ再び推理作家は語り始める。
「そもそもの発端は月曜日に起きた朝比奈美春の事件だ。この事件を切っ掛けに一人の男は無惨にも殺されるはめになった」
先生は気怠げにパトカーに寄りかかる。
「さて、風見の死亡推定時刻は夜中の1時から3時。そうだったよな?だが風見はその1時間前の1時から2時の間の時点で既に殺されていたんだ」
それにすぐ浅羽さんが呆れるように反論する。
「それはおかしいわよ。忘れた訳じゃないでしょ?風見さんは夜中の2時頃に騒音騒ぎを起こしているのよ。死んでる人間がどうやってオーディオプレーヤーのノズルを回すことができたのよ?」
「あぁ、あんなの簡単だ。推理小説で昔から愛された魔法の道具、テグスとセロハンテープがありゃあのトリックは作り出せる」
「ト、トリックって…」
涼しい顔で先生は続ける。
「まずオーディオプレーヤーのノズルにボリュームが上がるように下から右に巻き付けたテグスとボリュームが下がるように上から左に巻き付けたテグスの2種類をそれぞれセロハンテープで貼りつける。2本のテグスを窓から出して予め開けておいた自分の部屋の中へと投げ入れ窓を閉めて鍵をかけた。この部屋の窓枠と窓硝子には多少の隙間があったから楽だったぜ。いやぁおんぼろアパートに大感謝だな。その後犯人は自分の部屋へと戻りボリュームが上がる方のテグスを引っ張る。そうすりゃあの大音量の曲が流れ出すって仕掛けだ。あとは住人たちが集まってきて彼はまだ生きていると思わせたところで今度はボリュームが下がる方のテグスを引っ張ったんだ」
「でもそんな動きしている人なんて誰もいなかったわよ?」
「本当にそうか?その時の状況をもう一度よく思い出してみろよ」
住人たちはお互いに顔を見合わせるが答えが出なかったようで再度先生へと視線を戻した。
「確かにこのトリックはテグスを引く動作を見られたら一貫の終わりだ。だが犯人にその心配は杞憂に過ぎなかったのさ。何故なら『暑がりで寝るときは下着姿だから扉の前から動けなかった』と証言してくれる便利なお友達が犯人にはいたからだ」
この場にいる視線が一挙に美綴さんへと集まった。
「あとはこのトリックを使った後、管理人を利用して死亡推定時刻内まで一緒にいれば確実なアリバイを手に入れることが出来る」
「そんなのあなたの勝手な空想です!」
親友を貶めようとする推理作家に雨宮さんが牙を剥いた。
「密室は?あの密室はどうやったんですか?確か鍵は風見さんのパーカーのポケットに入っていたんでしょ?まさか郵便受けから長い棒を使ったなんて言いませんよね?」
宮前さんの馬鹿にしたような言い方に先生は頭を振った。
「そんなめんどくせぇ手段なんか使わねぇよ。答えが分かれば何の変哲もない、シンプル且つ単純な心理トリックだ」
「心理トリックだぁ?」
理解できないとでも言うように剛力さんが唸る。
「準備は実にイージーだ。あんたは風見の部屋から鍵を持ち出し、ドアに鍵をかけてそのまま自分の部屋へと戻った。ただそれだけだ」
「それじゃあ説明になってません。美綴さんが鍵を持ち出したんならいつ、どうやって風見さんのポケットに鍵を入れられたんですか?」
「焦んなよ、まだ話しの途中だぜ」
すかさず私は口を開いたがペットの犬に待てをするように彼は私に言いかせた。
「そして今朝、悲鳴を聞いてあんたは誰よりも早く風見の元へと駆け出した。救命処置をする為に、な」
「あっ!」私と桐生警部は周りを気にせず大声を上げた。
「救命処置をする為でも、医者の卵としてほっとけなかった訳でもない。第一発見者として現場に一番乗りして鍵をポケットに滑り込ませる事こそが目的だったんだ。仮にトリックで残ってしまったセロハンテープがあったとしても即座に回収できるからな。ほらよこれでお前らがご所望していた密室の出来上がりだぜ。まぁ誤算だったのは自分よりも先に遺体が発見されてしまったこと、これは何とかなったが風見が時間指定で宅配を頼んでいたことと躊躇い傷の有無までは意識がいかなかったようだな。医大生にしちゃ凡ミスだったな。つまりあのオーディオプレーヤーも鍵もあんたにしか出来なかったんだ」
先生がどうよ?と自信満々で私を見たのでうんうんと興奮しながら私はヘッドバンギングが如く首を縦に振った。
「言い掛かりにも程がある…」
ここにきて初めて美綴さんは声を発した。地の底から響くような低い声だった。
「確かにそのトリックならあたしだったら出来たかもね。あくまでも「かも」だよ?でもだからって私が風見さんを殺したことにはならないでしょ?それに…仮に私が風見さんを殺した犯人だとしてどうして女子高生の女の子まで殺さなきゃいけなかったの?理由がないじゃん」
「理由はある」
先生は言い切った。
「あんたが朝比奈美春のストーカーだったからだ」
途方もない展開に私たちは青天の霹靂のような衝撃を受けた。
その中で美綴さんだけが大袈裟に肩をびくりと震わせる。明らかな動揺だった。
「ちょ、ちょっと待って。風見が朝比奈さんのストーカーじゃなければ部屋にあったあの大量の写真は一体何なのよ?」
慌てた口調で桐生警部は先生を止めた。
「別にふって沸いたわけじゃない。あの写真は美綴が撮った私物だったんだ。だから写真のどれからも指紋が検出されなかった。これで説明がつくだろう」
先生の攻撃は更に続いた。
「朝比奈美春を殺した日からあんたは気が張っていた筈だ。あの現場の状況からいって恐らく衝動的に殺してしまったんだろう。だから『もしかして何か証拠を残してしまったかもしれない、もしかしたら警察がすぐそこまで来てるかもしれない、いや誰かに見られたかもしれない』疑心暗鬼の日々だ。だからこそあんたは今まで気がつかなかった風見の視線に気づいてしまった。何かするわけでも何を言うわけでもなく気が付くといつも風見はあんたを見ていた。さぞかし恐ろしく不安で押し潰されそうだったろう?まるで監視されているような日々にあんたは苦痛以外の何物でもなかった。そしてある時ふと思ったんだ『風見さんはもしかして私が朝比奈美春を殺すところを目撃したのではないか?私を見ているのは脅すタイミングを見計らっているのではないか?』とな。だから一刻も早く風見を口封じの為に殺さなきゃいけなくなった。《見ていた側》が《見られる側》になったなんてとんだ笑い話しだぜ」
美綴さんは何も言えず口を金魚のようにぱくぱくと動かしていた。
「しかし実際はそうじゃなかった。風見があんたを見つめていたのはもっと違った理由からだったんだ」
「え?」
「おい宮前。あんたなら分かんじゃねぇか?風見が美綴をずっと見つめていた理由が」
まさか自分が名指しされるとは思ってなかったようでご指名を受けた宮前さんは泡を食って先生をまじまじと見つめ返した。隣にいる雨宮さんに肩を叩かれ我に返った彼は必死に思考を巡らす。
「…風見さんは美綴さんが好き、だった?」
蚊の鳴くような声で無意識に口にした。先生はその解答に満足したようで指をぱちんと鳴らす。
「仮に脅そうとしていたとしても月曜から今日まで6日もあったんだ、ゆする機会なんて腐るほどあっただろう?それなのに何故しなかったのか。風見はあんたが朝比奈美春を殺したところなんて見ちゃいなかったんだ」
「う、嘘!だって…!」
美綴さんはハッとしたあと急いで口を両手で隠しそのまま言葉を失ってしまった。
「嘘じゃねぇよ。風見の部屋からは犯行現場である公園が見えなかった。道なりに植えてあった桜の木があったからだ。あんたはとんでもない勘違いをしていたんだよ」
だから風見さんの部屋にいたときに窓の外を眺めていたのかと私は一人納得した。
「風見はあんたに恋慕していた。しかし無職で引きこもりの自分があんたみたいな将来有望の女子医大生に告白なんて出来るわけがない。好きだからこそ迷惑をかけたくなかった。そう思った風見はせめて見つめるだけにとどめようとしていたんだろう。
そして土曜の夜中1時前、住人たちが寝静まった頃合いを見てあんたは風見の部屋を訪れる。幾ら夜中とはいえチャイムを鳴らすのは得策ではないから前もって「相談があるんだけど人に知られたくないから夜中にお邪魔してもいいかな?」とでも言っておいたんだろう。その時の風見はまさに天にも昇る気分だったろうな。なんせ好いた女から話しかけてもらえたんだから。それがまさかその好いた女に殺された挙げ句利用されるなんて夢にも思わなかったろう。つくづく風見には同情するぜ」
似もしない美綴さんの物真似を織り混ぜながら先生は捲し立てる。しかし先生のいうことが正しいなら風見さんはなんて悲しい最後を迎えてしまったのだろう。両親に先立たれずっと一人で生きていた中で好きになった女性に殺されるなんて、悲劇にも程がある。
「風見を自殺に見せかけて殺害したあとはスピード勝負だ。自室から大量の写真を持ち込み壁中に貼りまくらなきゃならねぇからな。ちんたらしてると住人に気づかれるかもしれないし通りすがりの人間に見られるかもしれない。慎重且つ素早く静かに、あんたは風見を見事なストーカーに仕立てあげたんだ」
唇を噛み締め睨みつける美綴さんに対して先生は至極真面目な表情のまま指を指した。
「いいか良く聞けよ。あんたは何の罪もない幼気な少女だけじゃなく密かに淡い恋心を抱いていた男さえもてめーの身勝手なエゴと下らない誇大妄想で殺したんだ」
「だから!言い掛かりだって言ってるじゃん!あ、あたしはその朝比奈って女子高生も風見さんも殺してないもん!そこまでいうなら証拠を見せてよ!」
「証拠?証拠ならあるぜ」
先生が美綴さんの言葉にかぶせるように言った。
「自殺に見せかけるためにあんたは風見の部屋で返り血がついた手袋や衣服を処分しなかった。なら何処でしたのか?簡単だ、自分の部屋でしたんだろ?燃やすのが一番手っ取り早いがそれには燃やす場所も限られるし仮に燃やせたとしてもたまたま目撃したやつに通報されてしまう可能性もある。だがラッキーなことに今日はゴミの日だ。処分するにはもってこいだろ?血の臭いを考慮して生ゴミとでも一緒にトリックで使用したテグスとセロハンテープもまとめて包んで棄てればあとはゴミ処理場で勝手に隠滅してくれるんだからな」
「はあ!?だったら証拠なんてないじゃん!人を殺人犯扱いしやがってこの嘘つき野郎!」
可愛らしい言葉遣いをしていたあの彼女とは思えぬ憤怒の表情で汚らしい暴言を浴びせる。住人たちも彼女の豹変ぶりに戸惑いを隠せないでいた。
「俺が言いたいのは部屋で手袋や衣服を棄てる際に部屋の何処かに風見の血液が付着しなかったか、ということだ」
暴言がピタリと止む。
「断言できるか?あの量からして顔にも飛び散ったろうからシャワーなり洗面台で洗い落としたなりしたんだろ。だったら鑑識に調べてもらえばルミノール反応が出る筈だ。そうしたら言い逃れは出来ねぇよ」
追い詰められた美綴さんはしかし得意気な顔でふんと鼻を鳴らした。
「そんなのであたしが取り乱すとでも思った?カマかけたって無駄なんだからね」
勝ち誇ったように高らかに声を上げた。勝利を確信している彼女のそれを先生が脆くも打ち砕く。
「安心しろ、証拠ならまだある。壁に貼られたあの大量の写真だよ」
「…それが何?」
険しい顔で美綴さんが聞き返す。
「今の科学捜査ってのはすげーんだぜ?写真に写った物体の角度や光の加減から分析し、位置情報を緻密に計算して何処から撮られたものなのか分かっちまうんだ」
美綴さんは息を呑み愕然と立ち尽くした。
「いま家宅捜査の令状を取ってもらっている。部屋を調べればわかる筈だ。あの写真があんたの部屋から撮られたもんだってな」
先生が一際大きく飴をがりっと噛み砕く。
それを合図にするように美綴さんががっくりと膝から崩れ落ちた。
「ちがうの…あたしはただあの子に会って愛してると伝えたかっただけで…あたしは…」
壊れたからくり人形さながらに何度も同じ台詞を繰り返していた。
美しき白衣の天使は残虐な死の天使へと成り下がったのだ。
やがて辺りに夕闇が訪れる。それがまるで私には愛に狂った彼女の心そのもののように思えてならなかった。
《血みどろ荘殺人事件 完》