最後の言葉
「久しぶり、優雨」
鮮やかな青色だったはずの空が、オレンジ色の光を帯びた闇に染まる。
人々や建物などがそれぞれ持つ彩を覆い隠すように、その薄闇は街の全てを蝕んでいく。
けれど街を行き交う人々は、自分たちを呑み込む薄闇など気にも止めず、雑踏を作り上げている。私はその雑踏を掻き分け、宛も無くふらふらと歩いていた。
学校帰りなのだが、何故だか真っ直ぐに家に帰る気にはなれなかったのだ。
そんな中、誰かが私に声を掛けて来た。
薄闇に溶けるような、優しく、どこか懐かしい声色。私はこの声を知っている。
振り返ると、セーラー服を着た少女がいた。
腰まで伸びた髪と、ぱっちりとした瞳は、深い闇のような黒。街に広がる薄闇をも呑み込むような、濃い黒だった。
そんな冷たい色とは対照的に、彼女が浮かべる微かな笑みは、美しい花のように柔らかい。
私はしばしその少女の姿を眺め、少女が誰であるかを確認し、驚きの感情を隠して口を開いた。
「久しぶりだね…紗羅」
数年ぶりに口にした、懐かしい友の名前。
少女は、私のかつての親友だった。
かつての親友は、数年ぶりに私に名前を呼ばれたのが嬉しかったのか、太陽のように明るい満面の笑みを浮かべる。
「久しぶりー!会いたかったよ!ねえ、ちょっと時間ある?お話したい!」
声を掛けてきた時の儚げな雰囲気は何処へやら。彼女は、親に一緒に遊ぼうと強請る無邪気な子供のように、私の手を握り締めた。
……丁度、まだ家に帰りたくないと思っていたのだ。それに、数年も会っていない友と奇跡的に再会したのだ。少しくらい話したって良いだろう。
私は彼女の手を握り返し、こくりと頷いた。
握られた手は、ひやりと冷たかった。
それは心地良いものではなく、私を突き放すかの様な、胸に刺さる冷たさであった。
私の手を引き目の前を歩くその背中は、今すぐにでも消えてしまいそう。そんな感覚に襲われ、きゅ、と握った手に力を込めると、彼女は一瞬だけ視線をこちらに向け、直ぐに逸らした。
「着いた」
彼女は明るい声を上げ、私の方に振り返り、ニッと笑って見せた。と同時に、繋いでいた手がするりと解かれる。
辿り着いた場所は、街を二つに分けるように流れる川だった。
透き通った水は夕日の光を反射し、セピア色の輝きを帯びている。
ざあざあと静かに辺りに響くせせらぎは、降り注ぐ雨の音を思わせ、儚さを醸し出していた。
ここは、彼女がこの街に住んでいた頃に、2人で学校帰りによく寄っていた場所だ。
「……懐かしいね。ここで、放課後、紗羅といつも話をしていたよね」
「そうだね。楽しかったなあ」
「……」
会話はそれで終わり、静寂が訪れる。
雨音のようなせせらぎと、遠くに聞こえる人々の声が、耳に痛い。
何故だろう。話したい事は沢山あるというのに、言葉が出てこない。
何か話してくれないだろうかと、僅かな期待を込めて隣に立つ彼女を見やる。
彼女は、川の水面をじっと見つめ、何かを考えているような表情を浮かべていた。
「……紗羅?」
どうしたの、と声を掛けると、彼女は慌てたように笑顔を見せ、口を開いた。
「あのね、私ね、あっちで好きな人が出来たんだよ!」
それはあからさまに何かを隠す態度であり、少しだけ引っかかった。
が、彼女が話したくない事なら、それで良い。
「へえ、いいね。どんな人なの?」
「ええと…優しくて、明るくて、でも少し不器用で…とにかく素敵な人なの!」
頬を苺のような紅に染めてはにかむ彼女は、とても初々しく、可憐であった。
羨ましい。こんな輝きが、私にもあれば。
「優雨は?好きな人とかできてないの?」
「できてない」
「本当?優雨は可愛いからすぐ彼氏できそうだよね」
「お世辞言ったって何も出ないよ?」
「お世辞じゃないですぅー!」
あはは、と。2人で声を上げて笑う。
懐かしい。あの頃に戻ったようだ。
古い写真を思わせるセピア色の薄闇が、そんな気分を鮮やかに彩る。
それからは、久し振りに会ったせいからか緊張していたものの、それもすっかり解れ、様々なことをお互いに語り合った。
そうして話している内に、セピア色の薄闇は、更に濃い黒の闇に呑み込まれ始めていた。いつの間にか、遠くに聞こえた声たちも聞こえなくなっていた。
空はオレンジと紺色が混ざり合い、美しく、それでいて奇妙な色を創り上げていた。
「もう、こんな時間だね。
……私、帰らなきゃ」
彼女はそう言って、ゆっくりと立ち上がった。
先程までの楽しげな姿は消え、闇に溶けるような哀しげな雰囲気を纏う。
ーーああ、もう、お別れか。
「優雨、今日はありがとね!楽しかった!」
「…うん。私も、楽しかったよ」
「じゃあ、私……帰るね?」
ふにゃり。そんな音が合うような、弱々しい笑みを彼女は浮かべた。
何かを覆い隠すような、無理をして作られた偽りの笑み。
そんな笑みを残し、彼女は背を向けて去ろうとする。
と、そこで歩みを止めた。
けれど、振り返ることはしない。敢えて目を合わせないようにしているのか、俯き、こちらを見ずに、口を開く。
「最後に、ひとつだけ」
向けられた背中は、何かに耐えるかのように、僅かに震えていた。
「あの日、会いに来れなくて、ごめんね」
その言葉が耳に届いた瞬間、私の心臓に痛みが走る。受け入れたくない現実。目を、耳を塞いで、必死に拒絶した現実。それが、鋭いナイフとなって私に突き刺さる。
「……っ」
「ごめんね、優雨」
そうだ。
数年前のあの日、彼女はーー沙羅は。
事故で、亡くなったのだ。
私と沙羅が、小学6年生だった頃。
沙羅は、親の仕事の都合で遠くに引っ越すことになった。
そして、この街を発つ日に、彼女は約束してくれた。
「中学生になったら、会いにくるよ」
しかし、その約束が果たされることは無かった。
中学1年の夏休みのある日。
彼女は私に会いに行こうとしていたらしい。
が、その途中に、事故が起きた。
彼女は電車に撥ねられたのだ。即死、だったようだ。
詳しくは知らない。否、知りたく無かったのだ。受け入れたくなかったのだ。彼女が亡くなったという現実など。
夢で有って欲しいと。質の悪い冗談で有って欲しいと。
けれどその願いは、心の叫びは、決して叶うことは無く。
残酷な世界の中に消えて行ったのだった。
どれだけ泣こうが、どれだけ喚こうが、その事実が覆ることは無かった。
けれど私は、ひたすらにそれを拒絶し続け、受け入れようとしなかった。
彼女が死んだと告げられた時の記憶を無かったことにしようとした。
彼女はまた、明るい笑顔を見せて会いに来てくれると信じた。
そうやって、私は少しずつ、心を閉ざして行ったのだ。
そうでもしないと、心が、崩れてしまいそうだったから。
しかし、自ら作り上げた硬く暗い心の壁が、今、目の前にいる彼女の言葉によって壊された。
到底飲み込めそうにないものを、無理矢理口に詰め込まされたような苦しさが、私を襲う。
彼女は死んだ。死んだのだ。
ならば何故、彼女は目の前に居るのか。
そこに居る彼女は幽霊なのか、はたまた私が幻覚を見ているだけなのか。
私には分からない。
分からない。分からないけれど。
ひとつだけ、確かなことがある。
今、お別れしたら、もう二度と会えないだろう。
ーー今、伝えなければ、もう二度と、伝えられないであろう。
拒絶し続けた現実を飲み込まされ、息苦しさに崩れ落ちそうになる身体に、鞭打つように精一杯の力を籠める。
震える喉。上手く伝えられるだろうか。
「……沙羅、私…」
彼女に聞こえるのかどうかすら危うい程の、小さくか細い、蚊の鳴くような声。
けれどこれが、今の私では限界だった。
「私、沙羅と親友になれて、幸せだった」
幸せだったよ。
もう一度、精一杯叫ぶような声で彼女に言う。苦しい。苦しくて堪らない。
これは、彼女に対する感謝の言葉で在るとともに、別れの言葉でもあるのだ。
ーー涙で霞み、不鮮明な視界の中、彼女がふわりと笑った気がした。
「……私も幸せだったよ、優雨」
「……沙羅…っ!」
その言葉が紡がれると同時に、目の前に確かに感じた彼女の気配が消えた。
慌てて顔を上げると、そこにはーー
まるで、最初から誰もいなかったかのように、セピア色に染まった景色だけが、私の瞳に映っていた。




