小さな約束
ーーあの日も、夕陽が綺麗だった。
空を支配していた青が、ゆっくりと赤みを帯びた輝きの中に融けていく。
逃げようのない夜の闇への、最後の足掻き。消えかけの太陽が、空の青が、必死に光を放っていた。それはまるで、鳴き声も持たず、たった一週間の命しか持たぬ蛍の、唯一、存在を示せる光のように。
ただひたすらに美しく、哀しかった。
蛍、なんて、季節外れにも程があるけれど。
「…つめたい」
声とともに漏れる、白い息。頬に触れた、白い雪。白、白、白。空は光と闇が混ざり合って苦しんでいるのに、この白には濁りが無い。何にも染まらずに、ふわりと消える。
「雪みたいに、綺麗に消えることができればいいのに…」
ひやり。はらはらと舞い落ちる雪が、頬に触れては融けて行く。
ーーこうやって、何も言わず、何も知らず、消えることができていたなら。
無理な話だ。叶うはずもない。
立ち止まり見上げていた空からそっと、視線を外す。何かから、逃げるみたいに。
地面に伸びる影が、少し前よりも深い黒に染まっていた。
冬の寒さに凍りついたのか、重く動かない足を無理やり動かす。
ーーおおきくなったら、けっこんしようね。
ふと、幼い日の自分の声が、 脳裏を過る。
その先に用意された未来など知りもしない、無邪気で、どこまでも透き通った声と、笑顔。
ーーおう。やくそく、だぜ?
その隣に寄り添うのは、大好きだった少年。
彼の背中の向こうに、太陽が見えた。己を呑み込もうとする闇をも跳ね返す、橙の光。蛍なんて儚い比喩は似合わないような、強い、黄昏の太陽。
動かした足が、更に凍りつく。地面の影を見つめた目を、咄嗟に閉じた。
ーーいやだ。
ーー思い出したくない。
閉じた瞼の闇の中、拒絶した私に追い討ちをかけるが如く、幼い日の記憶が映し出される。オレンジの輝きに包まれた情景。大好きだった彼と交わした小さな約束。約束の証として、絡められた、私と彼のちいさな小指。あの日、私は笑っていた。彼と笑い合った。オレンジ色の輝きに、祝福されているような気がして。
彼が私の隣から離れる日が来るなど、あの日の私は考えもしなかった。
けれど、約束が果たされることはなかった。
「大人になったら結婚しよう」なんて、幼い約束。あの日の夕闇の中に消えた、小さな小さな、私の願い。
彼は恋をしてしまった。私じゃない、女の子に。私よりもずっと素敵な、女の子に。
私の隣から、いなくなってしまった。
「大嫌い…」
呟く。私は、彼が嫌いだ。そう呟くことで、胸の痛みを、幸せだった過去の記憶を、自分の中から振り払おうとした。またひとつ、またひとつと、雪の雫が頬を伝う。それに誘われるように、それとは違う温かい雫が一筋溢れた。
はらり。目を開くと、雪と見紛う雫が地面に落ちた。
影が消えていた。辺り一面が、薄い黒に染まっていた。その中に融けたのだ、雪のように。私の、影が。私の、ここに立っている証が。
空からも、太陽の足掻きも意味を成さず、闇に消え、赤い光が失くなった。
その代わり、黒みがかった深い群青が、どこまでも空を埋め尽くしていた。
星が見える。闇に穴を開けたような。これもまた、太陽の足掻きだろうか。
「大嫌いよ…」
もう一度、夕焼けを呑み込んだ群青を、睨みつけて呟いた。




