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「誰そ彼」問へば「からす」と答ふ

作者: 久坂 薫

 日が沈み、夜の帳の影がちらつく黄昏時。普段ならばここを訪れたお客たちの下駄が、カロンコロンと軽快な音を奏でているのだが、今日ばかりはカツコツと早足で歩く音がまばらに聞こえるのみ。周囲の静けさも手伝って、なんだか物寂しさを覚えなくもないけれど、この雨ではそれも仕方がないことだ。

 置屋の二階の一室から、なんともなしに外を眺めていたすずめは、まだもうしばらくはやみそうにない雨雲を眺めてため息を吐いた。一階から、姉さん芸妓たちがせわしなく準備に駆け回る音が聞こえる。

 そろそろ自分も準備をしなければ。すずめはそう思ったが、この雨の中お客のいる茶屋まで歩いて行かなければならないと思うと、準備のために動くことすら億劫だった。もっとも、準備をしなれば置屋の主人に、すずめはこっぴどく叱られるはめになるのだが。

「すずめはん、はよ着替えな遅れてまうで」

 部屋の前を通った芸妓にそう言われ、すずめはひとつ頷くと悠然と立ち上がった。そして、華やかな仕事用の着物に袖を通す。

 夕闇に包まれた京のとある花街では、これからが一日の始まりだった。


 すずめたち芸妓や舞妓―芸妓の見習いが舞妓だ―の一日は、日が登り始める彼は誰時にようやく終わる。その日も、すずめは朝焼けを眩しく思いながら、姉さん芸妓たちの後をついて置屋への帰り道を歩いていた。

その道中だった、すずめが彼と出会ったのは。

彼は、建物の陰にひっそり佇んでいた。濡れ羽色の髪に、黒真珠をはめ込んだような瞳。影と同化しそうな色の着流しに、同色の足袋。

 簡単に見逃してしまいそうな風貌で、彼は何をするわけでもなくただ立っていた。

「嫌やわぁ、最近流浪人が増えて来とらへん?」

「怖いなぁ、おとなしゅうしてくれはるといいんやけど」

 目敏い芸妓の誰かが彼に気付いて愚痴を零す。すずめにもそれは聞こえたけれど、右から左へ抜けて行ってしまったので、具体的に何を言ったのかは分からなかった。

彼の伏せられていた瞳が、ふと、すずめの焦げ茶色の瞳と重なり合う。

「なにしたはるん?」

 すずめが彼に声を掛けたのは、最早必然だった。

 もちろん、すずめの突飛ともいえる行動に、他の芸妓や舞妓たちは大いに驚き戸惑った。しかし、すずめは心配する彼女たちをほぼ無理やり置屋に帰らせ、それからもう一度彼に話しかけた。

 すずめの頭の中には、もう彼のことしかない。

「ねえ、聞こえてはる? うち、聞いとるんやけど」

「―――――なにも」

「へ?」

「だから……、何もしていない」

 多くを語らないさまは彼の印象によくあっていて、そっけなく返されたことすら、すずめには嬉しかった。

「ふぅん。……京言葉やないし、あんたはん、京の人やあらしまへんな」

「ああ。もっと北から来た」

 話をしているうちに、唐突にすずめは、彼はまるで烏のようだと思い至った。それは彼の風貌から来たものでもあり、また、彼の鋭利な雰囲気が、いつも目を鋭く光らせている烏と似ていると思ったからでもあった。

 すずめは思ったことを話さずにはいられない質なので、正直に彼にそう告げた。それを聞いた彼は、口角を僅かに上げる。しかし、それだけで彼はなにも言わなかったので、彼が何を感じたのか、すずめには見当もつかなかった。ただ、その後に彼が呟いた言葉には驚かされた。

「お前は雀のようだな。小さくて、お喋りだ」

「わ、わたしっ、すずめなの! 名前、すずめっていうのよ!」

 思わず、ようやく慣れてきたと思っていた京言葉が抜けてしまうくらいに。

 厳密に言えば、すずめという名前は彼女の本名ではなかった。しかし、両親にもらった名前はもう覚えていなかったし、捨て子も多くいる花街の芸妓や舞妓たちの間では、置屋の主人にもらった名前で呼び会うのが暗黙の了解だった。

そのため、すずめはすずめと名乗った。

「お前こそ、京の人間じゃないんだな」

 彼はたっぷりと間を開けて、それだけを言った。すずめは微苦笑しながら、彼の言葉に返す。

「私はもっと南から来たの。……本当はね、舞妓たちは出身を聞かれたら京だって答えないといけないのよ」

 すずめは肩をすくめて笑ってみせるが、彼は何も応えない。

「ねぇ、貴方は何て言うの?」

そのため仕方がなしに話を続けたすずめに、今度は三十秒ほど間を開けて、彼はからすだ、とだけ返してきた。それが本名なのか、あるいは先程のすずめの発言からきた偽名なのか。やはり、すずめには見当もつかなかった。だから、すずめはよく似合っている、とだけ告げた。

 それが、すずめと烏の出会いだった。


それからすずめは、毎日稽古や仕事の合間を縫ってはからすに会いに行った。からすはいつも、出会った建物の陰に出会ったときの格好でいた。

 土地を渡り歩く流浪人だという彼は博識で、職業柄情報通だと思っていたすずめの上を簡単にいった。もっとも、すずめは小耳に挟んだことをそのまま覚えるだけで、そこから推測をしていくからすと差があることは当然なのだか。

 そんなすずめとからすの会話は、ほぼ一方的にすずめが話し続けることが大半であったが、すずめはそんな時間が嫌いではなかった。むしろ、慣れない京言葉で話さなければならない普段よりは、よっぽど気楽で心地がよかった。

だからすずめは、流浪人で食うに困っていそうなからすに、度々握り飯を持っていくようになった。それは、すずめなりのお礼の気持ちだった。

 これが本物の雀と烏だったら、なんだか昔話にでもなりそうだな。握り飯をもらったからすはそう言った。すずめは、ただ笑って頷き返した。


「最近ね、なんだかお客に攘夷志士だとか、佐幕派だとかいう人たちが増えてきたの」

「………………」

「お客が増えることは良いことなんだろうけど、少し物騒でね。なにも起こらなければいいんだけど」

 すずめは舞妓で、その前は貧しい農家の娘だったため、普通の女子が男の人と交わす話などまるで知らない。そのため、来る日も来る日もやってくるお客たちから聞いたことが、話の種だった。

 芸妓や舞妓たちのお客の中には、政府のお偉いさんだったり、尊皇攘夷の志とやらを抱く組織の要人だったりする人が多くいる。そして彼らは、たかが芸妓や舞妓に警戒したりはしない。ぺらぺらと偉そうに理想を語ってみせるのだ。それはすずめには理解しがたいものであることが大半で、今まではさして興味もなかった。けれど、どうやらからすはこの手の話に興味があるらしく、他の話よりも熱心に耳を傾けてきた。だからすずめも、この手の話を集めるようになった。

 正直、からすのことを怪しいと思ったことがないというと、それは嘘になる。流浪人ということも、からすという名も、どこまでが本当かはわからない。あの日一緒にいた芸妓や舞妓には、早くからすとは手を切った方がいいと幾度も言われてきた。

 しかし、すずめはからすがどこの誰でも構わなかった。からすが嘘をついていたとしても、それでもよかった。

すずめにとって大切だったのは、からすの正体よりも、からすと過ごす時間だった。からすがもしすずめのことを利用しているのだとしても、すずめにとっては幸せだったのだ。


 そんなある日、すずめは姉さん芸妓の一人から、とある噂を聞くこととなる。

「すずめはん、あんたまだあの男とおうてはるん?」

 嘘をつくこともできたが、その芸妓があまりにも心配そうな表情をしていたため、すずめは大人しく頷いた。

「……あんまりうちらが口出すことやないと思とったんやけど、ちょっと嫌な話を聞いてな」

「嫌な、話?」 

職業柄さまざまな話を聞く芸妓が、わざわざ嫌な話を聞いたと持ちかけてくるような話。すずめは思わず眉間に皺を寄せた。

「なんや、あの尊皇派の『鴉』が京にいはるらしいんよ」

「尊皇派の、『鴉』?」

 言い慣れた、彼と同じ『からす』の名。けれど、すずめは芸妓の言う『鴉』は知らない。

「いつも真っ黒な格好をしとるから『鴉』と呼ばれてはるらしくて、本名は誰も知らへん。ただ、尊皇派の連中とつるんで敵対しとる佐幕派の要人の暗殺をしとるらしいんよ」

「…………それがなんや」

 すずめは嫌な予感がしてならなかった。

 別に、その尊皇派の『鴉』が自分の知っている『からす』と、同一人物だと決まったわけではない。目の前にいる芸妓だって、親切心で教えてくれただけで、そこまで疑っているわけではないだろう。わかっている、それはすずめにもわかっているのだ。ただ、何かが変わる、そんな気がした。

「いや、あの男も黒づくめの格好してはっただろ。まさかとは思うんやけど、一応な。すすめはんは、まだ子供やし」

「っ!」

「あっ! 待ちよし、すずめはん!」

 後ろから自分を呼び止める声が聞こえた。けれど、すずめは走り出した足を止めることはできなかった。

 からすに会いたい。からすに会って、いつもみたいに頷いてほしい。からすはそんなことしないよねって聞いて、当たり前だろって苦笑してほしい。からすが『鴉』なわけない。からすは少し素っ気ないけれど、本当は優しい人だと私は知っている。

 すずめは置屋を飛び出して、いつのまにか通い慣れた道を走った。着物が着崩れて、下駄の鼻緒が切れる。それでも、すずめは走り続けた。一度歩みを止めてしまうと、もう二度と烏に会えない気がしたから。だから、下駄が脱げたことに気が付いても、すずめは立ち止まらなかった。

「からすっ‼」

 いつもの建物の陰にいつもの格好で、からすは佇んでいた。すずめの尋常ではない形相に、珍しく目を丸くしている。

「からす、からすっ!」

「すずめ? ……落ち着け」

「っ…………」

 すずめは生まれてこの方、ここまで全力疾走をする機会など一度としてなかった。そのため、息が乱れて、喉が灼けつくように痛む。筋肉などさしてついていない足が、がくがくと震えて限界を訴えた。

 けれどすずめは、息を整える間もなく問いかける。

「からすっ、は、『鴉』じゃ、ないよねっ?」

「は?」

「っ……からすは、あの、尊皇派の『鴉』……な、の?」

 風船が萎むように、今まで昂っていた気持ちが沈んでいく。

 肯定されたらどうしよう。否定されたらどうしよう。

 すずめは今更ながら不安を覚えた。後先考えずに行動したことに、後悔がよぎる。

「――――すずめは、俺が違うと言ったら信じるのか?」

「え?」

「俺が嘘をつくかもしれないのに、信じられるのか?」

 虚をつかれて、すずめは少しの間口ごもった。何をしたら良いのか、何をしたいのか迷っていたすずめには、直ぐには答えがでなかったからだ。

 沈黙が二人の間に落ちる。からすは微動だにせず、すずめを見つめた。すずめはその目を見つめ返しながら、考えた末に、ゆっくりと口を開く。

「信じるよ。からすがあの『鴉』とは無関係だって言うのなら、もう疑ったりなんかしない。それに、もしからすがあの『鴉』だって言っても、何も変わらないよ」

 何者であろうと、からすはからすだもの。私の知っているからすが、私にとってのからすだから。

 再び、二人は沈黙に包まれた。けれど、今度はさっきの緊張感の籠ったものではなくて、もっと、温かい沈黙。

「…………なら、俺が答える必要ない」

 そしてそれを破ったのは、からすの突き放すような一言だった。

「え?」

「だから、結局すずめは俺が何者であろうと変わらないんだろ。なら、答える必要はない」

「それは……そう、だけど」

 すずめには、からすの言葉は遠回しの肯定に思えた。はじめの、『鴉』なのかという問いへの、肯定。だって、違うならこんなややこしいことなんかせずに、早く否定しまえば良いはずなのだ。なのに、彼は否定をしない。答えることを厭うように、問いに問いを返してくる。

「私、その……からすのこと、なんにも知らない、し」

「俺もすずめのことを何も知らない」

「………………」

 普段の無口が嘘のように、からすは間髪を容れずに言い返してくる。すずめは言葉につまった。

「俺がその『鴉』だと思うと怖いか? 人を殺しているかもしれないと思うと怖いか? だから、『鴉』ではない証拠がほしいのか?」

 急に、からすは人が変わったように、怒濤の勢いで捲し立ててきた。すずめは戸惑い、咄嗟に答えることができない。       

そんなすずめをよそに、からすは言葉を続ける。

「それとも、俺を――――御役所にでも付き出すつもりなのか?」

「ちがっ、違う! 私、そんな……、そんなつもりじゃなくてっ」

 すずめは弾かれたように叫んだ。

 確かにすずめは、『鴉』を、人を殺す『鴉』を恐ろしいと思った。からすの優しさを信じつつも、疑い、違ってほしいと願い、何か確信が欲しかった。それは否定できない。けれど、けれど……。

すずめはただ、知りたかっただけなのだ。

いつも自らは何も語ろうとしないからすが、何を考え、何を思い、何のために生きているのか。

 今回の話がきっかけになって行動しただけで、本当はずっと、すずめはからすのことを知りたかったのだ。

「…………私、からすがあの『鴉』なんじゃないかって疑ってた。でも、きっと肯定されても否定されても信じきれなかったと思う。本当に、とか、どうして、とか、絶対思ったよ。……ごめんね、信じるって言ったのに」

 目頭がじんわりと熱を持ち、膜を張ったかのようにからすの黒が滲む。思いを紡ぐ唇が微かに震えて、言葉が揺れた。

 すずめの様子に、からすは静けさを取り戻した。

「でもね、私、私は…………からすと、もっと色んなことを話したいの。それに、からすにも、話してほしい。からすのことをね、もっと知りたいの」

「…………」

「からすが何者でもいいって言ったのは、嘘なんかじゃないのっ。……本当よ、本当なの」

 からすはきっと、あの『鴉』だ。尊皇派で、敵対している佐幕派の要人を暗殺している、『鴉』だ。

 すずめは、そう思った。そしてそれは、おそらく間違ってはいないとも。

 息を殺して返答を待つすずめに、からすは何も話そうとはしない。二人はそうして、本日三度目の沈黙に包まれた。

 一度目は緊迫感漂う、張りつめた沈黙。二度目は柔らかい、どこか優しさを感じさせられる沈黙。三度目は悲しい、互いの思いをぶつけ合ってできた傷が、ひりひりと痛む沈黙。

 そしてそれを破ったのは、やはり、からすだった。

「…………悪かった」

 その言葉に、俯いていたすずめは勢いよく顔をあげる。

「すずめの気持ちを疑って、悪かった」

 罰が悪そうにしつつも、決してからすはすずめから目を逸らさない。合わさった瞳から、からすの真摯な気持ちが伝わってくる。

「いいの、いいのっ。分かってくれたなら、いいの。……私も、不躾なことを聞いてごめんね」

「いや、すずめが聞くのは当然だったんだ。ただ――――」

 真っ直ぐにすずめの焦げ茶色の瞳を射抜いていた、からすの目が逸らされた。からすは迷うように数度口を開閉したあと、ゆっくりと首を横に振る。

「俺は、からすだ。すずめが何をどこまで知っているのかは知らないが、俺はただの、からすなんだ」

 そう告げて、からすは困ったように目を細めて笑った。からすが何を思っているのか、やはりすずめには、今でも見当がつかなかった。


 あれからまた時は過ぎ、すずめとからすが出会ってからもう数ヵ月が経つ。あの日を境に二人の仲は壊れるかと思われたが、すずめは相も変わらずこまめにからすに会いに行き、からすも相変わらずあの建物の陰に佇んでいた。

 変わったことといえば、ほんの少しだけからすが自ら話すようになったことぐらいだ。

「からす、私ね、明日は会いに来られないの」

「……何かあるのか?」

「うん、お座敷に呼ばれたんだ。だから明日は忙しくて……」

「そうか。…………その、がんば、れ」

 毎日のように会って、色んな話を交わして。二人は少しずつ距離を縮めた。明るくおしゃべりなすずめと、物静かで不器用なからすは、案外相性がよかった。

「ありがとう。今まで他の芸妓たちとお座敷に上がったことはあったんだけどね、明日は私一人だけなの。だからちょっと不安だったんだ」

「一人? …………そんなことがあるのか? 芸妓や舞妓は、遊女と違って複数人で座敷に上がるものだと思っていたんだが」

「うーん、基本的にはないんだけど……。今回は指定してきた先方がお得意様らしくて、断りきれなかったらしいの」

 すずめの言葉に疑問を顕にしたからすは、返答を聞いて眉をひそめた。引っ掛かることでもあるのか、何か言いたそうだ。しかし、すずめが問うても何も言わない。

 すずめは表情を曇らせたからすを気にしつつも、からすの意思を尊重をして、再度問うことはしなかった。

「すずめ、――――――気を付けろよ」

 からすの夜空色の瞳が、すずめを射抜く。真剣味を帯びたそれはどこか空恐ろしく、すずめはわざとからかい混じりに笑ってみせた。

「うん、気を付けるね。からすが心配してくれて、私、嬉しいよ」

「なっ…………。ああ、すずめは頼りないからな」

 珍しく照れたようにはにかむからすを嬉しく思いつつ、すずめは明日のお座敷に不安を募らせる。

 どうか、明日が過ぎてもからすと会えますように。

 すずめには祈ることしかできなかった。


 太陽が影を潜め、月が淡く京の町を照らす時分。すずめは鮮やかな紅色の着物に身を包み、一人お座敷に上がった。

「ようこそおこしやす。うちは、今日お声をかけてもろうたすずめどす」

 三つ指をついて、極力ゆっくり、丁寧に頭を下げる。

緊張で内蔵が口から零れそうだ。すずめはその思いを誤魔化すように、ぎこちない京言葉で、ぎこちなく笑った。

「よう来た、よう来た。我々は君を待っていたんだ」

「はあ。お待たせしてもうて、えろうすんまへん」

「いや、いいんだ。ようやくあいつの情報を掴めると思えば、これぐらいの待ち時間なんかは気にならないとも」

 言い様のない違和感。自分が何かとんでもない勘違いをされていそうな。何かとんでもないことに巻き込まていそうな。

 すずめは自分の本能が鳴らす警鐘の音を、確かに聞いた。

「さあ、すずめといったな。お前はあの『鴉』のことを知っているのだろう。あいつのことを全て吐け。さすれば、それ相応の報酬を進ぜよう」

「え? …………あの、うちにはようわかりまへんわ。誰か、他の人と勘違いしてはらへん?」

 冷や汗が頬を伝う。困惑と混乱で、すずめの頭は真っ白になりそうだ。

「隠しだてしても無駄だっ! お前が『鴉』と会っていたことは分かっているのだっ‼」

「早く吐かねばお前の命は保証しないぞ!」

「っ…………」

 お座敷は刃物の持ち込みを禁止されているにも関わらず、客の一人が勢いよく刀を突き付けてきた。お得意様だから検査の手が甘くなっていたのか。なんにせよ、すずめの境地には違いなかった。

「ほんまにっ、ほんまにうちは知らへんの! あんたはんらの言う『鴉』ってなんやのっ⁉」

 こわい、つらい、いたい。

 周りを大の男たちに囲まれて、怖い。訳の分からない状況で、辛い。刀を突き付けられた首が、痛い。

「お前っ、殺されたいのかっ! さっさと吐け‼」

「待て。ここで殺したら、ようやく掴んだ『鴉』の手掛かりを失うことになる。……吐かないなら、吐いたほうがましだと思わせるまでだ」

『鴉』って誰。『鴉』って何。どうして私に聞くの。私と会っていたって、それって、あの、からすのことなの。

 無表情なからすが。激高したからすが。罰が悪そうにしたからすが。がんばれと言ってはにかんだからすが。すずめの頭の中に浮かんでは消えていく。

 あまり頭が良いとはいえないすずめにも、自分が今晒されている状況くらいわかった。自分が『鴉』の情報を握っていると思われていること。そのために自分一人がお座敷に呼ばれたこと。『鴉』はおそらくからすであること。そして自分が、身の危険に直面していること。

「お願いやけ、うちの話聞いておくれやすっ」

「…………」

 すずめの懇願に、男たちが目配せをして耳を貸す。それを目視して、すずめはゆっくりと言葉を吐き出した。

「うちは、ほんまにあんたはんらの言う『鴉』なんて知らしまへん。そやさかい、聞かれても困りおす」

 固く握りしめすぎて、真っ白になっている手が震える。声が震えないように細心の注意と勇気を振り絞ったのに、それでも声は小刻みに揺れた。

 精一杯の張った虚勢はどことなく情けなく、すずめの顔が徐々に青ざめていく。それはきっと、このまま終わるわけがないと分かっているからだ。

「……わかった。君のいう事を信じて質問を変えよう。最近君が頻繁に会いに行っている男、彼について教えてくれ」

「………………」

「どんな些細な事でもいいんだ。名前でも、年齢でも、好きな食べ物でも。本当に何でもいい」

 温和そうな男にそう言われて、すずめは考えた。このまま黙り通すべきか。それとも、自分が知っていることを洗いざらい吐くべきか。

 本気で自分の身のことを考えるのならば、すずめは全て話すべきだ。そもそも、すずめが身を危険に晒してまで、からすの秘密を守る義理はないのだから。けれどそれは、確実にからすからの信用を失う選択で。もっとも、今現在からすがすずめを信用しているかと言えば微妙な線なのだが。どちらにせよ、話せばもう二度と、昨日のようにからすと穏やかに話す日は訪れないだろう。だからといって、黙っていれば失うのは自らの命だ。

 すずめはたった昨日のことなのに、からすと話したあの時間が物凄く遠いもののように感じた。

「彼は――――――、彼は……っ」

 ようやく口を開いたすずめを、男たちは一言たりとも聞き逃すまいと注視する。待ちきれないと言わんばかりに、誰かが唾を飲み込む音が聞こえた。

「          」

 すたっ―――――――……。

 そしてすずめが息を吸い込んだ、そのとき、突然の侵入者はやって来た。

「なっ! だ、誰だ、貴様‼」

 物音ひとつ立てずに進入してきた侵入者に、男たちは動揺と警戒を露わにする。けれど、侵入者は気に留める様子もなく、悠然と辺りを見渡した。

 濡れ羽色の髪に、黒真珠をはめ込んだような瞳。影と同化しそうな色の着流しに、同色の足袋。顔こそつけられたお面の所為で見えないものの、すずめにはわかった。

 彼は、からすだ。

 そしてそれはまた、男たちも同様だったらしい。

「貴様、『鴉』だなっ‼ 我々の仲間を殺しておいて、よくもおめおめと出てこられたなっ」

「………………」

「今日こそ、ここで成敗してやるっ!」

 殺気の応酬。男たちと侵入者の睨めつけ合い。

 すずめには、このまま切った張ったの大立ち回りが始めるのかと思われた。しかし、その緊張は案外直ぐに断ち切られることとなった。

「久しぶりだしな……。お前らの命、この『鴉』が喰らい尽くしてやるよっ」

 にやりと弧を描く『鴉』の唇。お面で見えるはずがないのに、すずめにははっきりと感じられた。

「ぐっ、ああぁぁ」

「げほっ、あぁ……う、ぐ」

「ぎゃ、ぎゃあああああああ」

 乱闘ではなく、一方的な暴力、もとい殺人だった。侵入者の小刀が、容赦なく男たちの命を狩る。

喰らい尽くすといった『鴉』の言葉を証明するかのように、それは圧倒的な、捕食者と被食者の姿だった。


 目の前の光景に呆然としていたすずめが意識を取り戻したのは、それから幾分か時が過ぎ去った後であった。

「からすっ……」

 すでに『鴉』は立ち去ってしまったのかと、すずめは慌てて周囲を見回す。すると、『鴉』は静かに物陰から現れた。

 黒で身を包んだ彼は、やはり、簡単に見逃してしまいそうだった。

「…………やっぱり、からすは『鴉』だったんだね」

 何をすればいいのか、なんて言えばいいのか。分からなかったすずめだけれど、『鴉』のからすらしさを見て、自然と言葉が溢れていた。

「ああ……。俺が『鴉』だ」

 からすは隠し立てする様子もなく、いつも通り静かに頷いた。それが嬉しい反面、悲しい。まるで、すずめの役目はもう終わってしまったみたいだ。最後の最後の、種明かし。

「どうして『鴉』をやっているのって……、聞いても、いい?」

「――――おれが烏で、これが仕事だからだ」

 『鴉』は尊王派の隠密で、なにか志とか理想とかがあっての仕事なのだろう。そしてその志や理想は、きっと素晴らしいもなんだろう。

 すずめにもそれは察せられた。けれどすずめには、志とか理想とかいうたかが夢の為に、人を殺すことは理解できない。

「私には…………、わからないよ。からすが何を思っているのかっ、全然わからないよ!」

 すずめの慟哭を、からすはただ黙って聞いていた。

「助けてくれたこと、感謝してる。……でも、でもね。からすはこうなること、全部わかっていたの? だから、昨日あんなことを言ったの?」

 いたい。さっきの比じゃないくらい、胸が痛い。

 少し近づけたと思っていたのに。少しからすを理解できたと思っていたのに。全てはすずめの独りよがりだったのだろうか。

 すずめはからすが何思っているのか、見当もつかない。そのことが悲しかった。

「何故泣く」

「だって私、からすのこと、知りたいって言ったのにっ。やっぱり、全然わからないんだものっ!」

 からすが困ったように目を細めて笑う。いつか見たその表情に涙腺を刺激されたすずめは、それからしばらくの間一人しゃっくりをあげていた。


「ねえ、からす……」

 目を赤く腫らし、鼻を啜っていたすずめは、そっと囁くようにからすに声を掛けた。からすが視線で、なんだと問う。

「私、『鴉』の正体知っちゃったの」

「………………」

「ねえ」

 ゆっくりと上げられた顔にある、すずめの焦げ茶色の瞳が、真っ直ぐにからすの瞳を見つめた。嘘は許さない、そう言外に告げている。

「私も、殺すの?」

 からすは静かに頷いた。それは何よりの答えだった。

「そっか……」

 すずめは薄く笑みを顔に浮かべる。しかしその笑みは、到底今から殺される人間が浮かべるようなものではなかった。

 からすは思う。俺もすずめの事がさっぱりわからない、と。

「……すずめは、雀だから。だから……」

 からすの言葉にすずめはきょとりと目を瞬かせて、それからもう一度、笑った。

「そうね、私は雀だもの。だから、置屋の主人にすずめって名付けられたのよ」

 雀という言葉に込められている意味、お喋りな人。それはすずめにぴったりとあてはまる。

 つまるところ、すずめはお喋りだから殺す、とからすは言っているのである。

 それに、すずめは知り過ぎた。『鴉』の顔も、声も、人となりも。

「私を殺したらどこへ行くの?」

 すずめは穏やかに尋ねた。

「……さあ。次の仕事が入るまで、土地を渡り歩くよ」

「ふふ、烏だものね」

 そう。烏にも、雀と同じように、込められている意味がある。烏には、土地を渡り歩く人、という意味。雀も烏も、どちらも鳥の習性からつけられた意味。

 すずめは楽しそうに笑う。

「ねえ、――へ行って。私、そこで生まれたの。もう覚えてないけれど、きっと良いところよ」

「…………ああ。すずめの故郷なら、いいところだろうな」

 からすが声が、微かに震えているように聞こえた。けれど、それはすずめの思いが見せる幻聴なのかもしれない。

「すずめは……。すずめは俺を、恨まないのか」

 微笑むすずめに、今度はからすが問いかける。すずめは困ったように眉尻を下げたが、やはり、再度笑ってみせる。

「恨むよ」

 からすの顔が、傷ついたように歪められた。それに気づいていながらも、すずめは言葉を止めない。

「恨んで、化けて出てくるの。それでね、からすに付きまとうんだ。からすは色んなところに行くから、きっと楽しいわ」

「……………………そうか」

「ええ、そうなの」

 どうして自分は『鴉』で、どうして出会ったのがすずめだったのだろう。どうして自分は、何の罪もないすずめを殺そうとしているのだろう。

からすは思う。

「悪い、な。すずめは何もしていないのに。俺がすずめをり」 

 眉根を寄せて俯くからすの謝罪を、すずめは言葉尻強く遮った。

「いいの。私、幸せだったもの。それにね、ちゃんと覚悟してたのよ。他の芸妓たちにも警告されてたし。だって、初めて会った時から、からすって明らかに怪しいかったもの。全身真っ黒で、隠れるように立ってさ」

 すずめのからかい交じりの軽口に、からすは苦い笑みを浮かべた。

「そうか……」

「これからは、もっと普通の格好をしたら」

 これから、すずめのその言葉に、からすの顔に影が落ちる。けれどそれを吹っ切るように、すずめは今までで一番の、とびきりの笑みを浮かべた。

「からす、さよなら」

 そして、すずめは京の町から姿を消した。からすも、すずめの後を追うようにいなくなった。

 残されたのは、『鴉』に食い尽くされた無残な人の肉塊だけ。


 京のとある花街では、今日も変わらず、お客の下駄がからんころんと軽快な音を奏でていた。

                      

終わり


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