天使の獲物
*R15表現含みます。
『……に気をつけろ、リン。あいつら……は……』
***
「ん……?」
ゆっくりと目を開けたリンの目に、年期の入った木の天井が入って来た。
(ここ……?)
辺りに視線を向ける。白い壁、古い木のテーブルに椅子――テーブルの上に、木の十字架。
「あら、気がついたのね?」
足元の方を見ると、紺色の修道服に身を包んだ女性が、こちらに歩いて来るところだった。
リンが身体を起こすと、後頭部に鈍い痛みが走った。思わず左手を首元に当てる。
「いた……」
「まだ無理しちゃだめよ? あなた事故に巻き込まれたのだから」
事故? リンは顔をしかめながら、枕元に立つ女性を見上げた。
にこにこ笑う、親切そうな女性。頭巾の下から見える茶色の髪に茶色の瞳。
(どうみても、シスター……よね……)
はっとリンは自分の腰に左手を当てた。服の下に馴染みの感触。
(よかった……あった……)
ほっと息をついたリンに、女性は優しく微笑みかけた。
「私は、シスター・アン、ここ聖ルイス教会のシスターよ。あなたのお名前は?」
聖ルイス教会!? リンは目を見張った。このリボルヴァ・シティ一の歴史ある教会だ。
「……リンといいます」
「リン。可愛い名前だわ」
シスター・アンが続けて言った言葉に、リンの思考が止まった。
「事故に巻き込まれたあなたを、神父様が保護して下さったのよ」
「……神父様?」
「ええ。この聖ルイス教会の。ちょうど夜周りをしていた時に、倒れているあなたを見つけたって……」
訝しげに眉を顰めたリンの耳に――深みのある声が聞こえてきた。
「おや。目が覚めたようですね」
思わず俯き加減になる、上掛けをぎゅっと握る。身体が……強張る。
「まあ、神父様。葬儀の方は終わられましたの?」
「ええ、滞りなく。あとは任せてきました」
こつこつとベッドに近づく足音。気配を感じたけれど……リンは俯いたままだった。
「リン、こちらがミカエル神父様。あなたを助けて下さった方よ?」
その声に、しぶしぶ顔を上げたリンは……目の前に立つ、背の高い男性を見た。
――陽の光に煌めくプラチナブロンド。夏の空にように青い瞳。彫刻のように端整な顔立ち。慈悲深く微笑むその姿は――正に『天使』だった。
何も言わず睨みつけるリンに、ふっと天使が笑った。
「ほら、リン。お礼を言わなければなりませんよ? あなたの命の恩人なのですから」
「……どうも」
ぶすっとした声でリンが呟く。まあ、と呆れた声を出すシスター。くくくっと笑う艶のある声。
「まあ、ストリート・チルドレンとして生活していたのですから……なかなか他人を信用できないのでしょう」
(他人じゃなくて、アンタが信用できないんでしょうがっ!!)
そう口にする代わりに、拳がふるふると震えた。ミカエル神父の目が、面白そうに煌めいた。
「神父様。リンにもプログラムを適用なさいますの?」
「ええ、そのつもりですよ。最近マフィアの抗争も激しくなってきましたからね。リンの年頃の少女が路上生活というのは、危険でしょう」
プログラム? リンの視線に、シスター・アンが説明してくれた。
「ストリート・チルドレンを保護し、教育を受けさせて、社会更生をはかる施策の一つですよ。我が聖ルイス教会は、そのプログラムを実践する場として市から承認されているの。過去にも何人ものストリート・チルドレンの子どもたちが、手に職をつけて、ここから巣立って行ったわ」
あ、そう言えば、ジェイがそんな事言ってたっけ。小さい子なんかは、受けた方がいいって。
「その話は、後でリンにしましょう。……シスター・アン、お花を墓標に捧げていただけますか」
ふふ、とシスター・アンが笑った。
「リンとお話があるのですね? わかりました……あんまり、リンを虐めちゃだめですよ?」
「人聞きの悪い……二、三確認したい事があるだけです」
「では、そう言う事にしておきましょう。では、また後でね? リン」
待って、とリンが言う前にシスター・アンは部屋から出て行った。……残ったのは、リンと……
「……何か、私に聞きたい事があるのではないですか? リン」
穏やかな優しい声。昨夜の事が、まるで何もなかったかのように。
リンは、きっと青い瞳を睨みつけた。
「あなた……あの人を殺したわ」
「そうですね」
ミカエル神父はあっさりと認めた。
「それが私の仕事なので。……職務に忠実なだけですよ? 私は」
「――っ!!」
思わずリンはベッドから立ち上がり、ミカエル神父の胸倉を掴んでいた。
「あなた、人の命を何だと思ってるのよっ!! あんな簡単に……っ!!」
ミカエル神父は楽しそうに、リンを見下ろしていた。
「ええ、ですから、最期まで責任を持ちましたよ? 神の膝元に迷わず行けるよう、祈りも捧げましたし」
リンの瞳が大きくなった。
「ま……さか、さっき葬儀だって言ってた……のは」
ふふふっと天使が笑う。
「教会の無名墓地に埋葬しました……今頃、シスター・アンがお花を供えている頃でしょう」
「――っ!!」
思わず平手打ちをしようとしたリンの右手首を――ミカエル神父が掴んでいた。
「……やはり、おもしろい……」
背筋に悪寒が走る。さっきまでの口調とは違う。声から……優しさが消えた。
「!?」
大きな手がリンの身体に回される。力強く抱き締められて、息が詰まった。
(く、くる……し……)
もがくように上を見たリンの唇を、天使が塞ぐ。
「んんん……っ!!」
身動きできない。触れた唇から感じるのは……殺気にも似た、激情。下唇を噛まれて、思わず開けたリンの口に、生々しい感触が入り込んで来た。
(な……に……っ!!)
じたばたしても、全く効果がない。リンは暫く、天使のなすがまま、になっていた。
やっと、唇が解放された時には……リンの頭は真っ白、になっていた。
「ふふ……そういう顔も可愛いですね……」
頬を撫ぜる大きな手の感触。
「……ちょっ……と!! 何するのよ、このエロ神父っ!!」
リンが真っ赤になりながら叫ぶと、ミカエル神父の眉が上がった。
「単なるマーキングですよ。あなたが私の獲物だという」
「は!?」
マーキング!? なにそれ。犬や猫じゃあるまいしっ!! 大体……
「獲物ってなによ、獲物って!!」
ははは……とミカエル神父が心底おかしそうに笑った。
「これでもまだ、私に楯突くとは。本当に、おもしろい……」
――どくん。心臓が嫌な音をたてた。ミカエル神父の周りの空気が……一気に温度を下げた。
青い瞳が……冷酷に煌めく。リンは……その瞳に射抜かれたように、何も言えなくなった。
リンの細い肩に、ミカエル神父の大きな手が乗せられる。
「……お前は、俺の獲物だ。いつか……俺が、お前を殺す。だからそれまで……」
「……お前に何人たりとも手を触れさせない。俺がお前を守る」
(な……っ……)
リンの身体に、ミカエル神父の言葉が鎖のように纏わりついてきた。重い。身体が動かなくなるほど……言葉が、重い。
リンは呆然と、天使の顔を見上げていた。顔から血の気が引いた。
天使の顔に……悪魔の微笑み、が浮かんでいた。
ふっと、雰囲気が変わる。ミカエル神父はリンから身体を離し、扉の方へ踵を返した。
「では、プログラムについては、シスター・アンから説明を受けて下さいね」
足元がふらついた。また声が……元に戻ってる。
扉の所で――ミカエル神父が振り返り、まだ顔色の悪いリンを見た。ふっと笑ったその顔は……天使そのものだった。
「……リン。あなたを逃がしはしませんよ?」
扉が締まるその音に……リンはずるずると床に座り込んだ。