職業的恋愛事情
職業的恋愛事情
とある会社員たちの場合。
「ツンデレ」だの「ギャップ萌え」だの巷にはそんな言葉が流行っているらしいが、この女のツンデレは萌えなんてレベルじゃない。
もはや二重人格を疑うレベルだ。
そんな緩急差に常にさらされている俺の気にもなってみろという理不尽な想いをぶつけたくなる。
国内有数の大手商社に務める件の女、名前を去石雪花。
入社当時の初々しさは跡形もなく消え去り、今では俺を含めた同期入社の出世頭だ。
そんな彼女が部長を務める第一事業部はこの会社では一番の成績を誇る部署だ。
そんな環境で働きキャリアを積むことに憧れる者や、単に彼女の元で働きたいと憧れる者もいて、第一事業部所属というのは一種のステータスになっている。
とある日の昼下がり。
会長や重役といったお歴々と各部門の部長が月に一度集まる大きな会議がある。
彼女には劣るものの一応俺にも部長という肩書きがあるので、この会議には当然参加する。
部署も違えば規模もまったく違う彼女の仕事の顔を拝見できる数少ない機会だ。
重役連中の中には、彼女をよく思わない、むしろ排除したいと思っている一派があり、今日も些細なことにいちゃもんをつけている。
「慎重になるのも結構だが、時には大胆さが必要だ」
「なかなか女性には出せない持ち味ですよね」
「女性にできることもあれば、我々のような男にしかできないこともあるのではないかね。その見極めも必要だ」
(…あぁ、気の毒に。)
と心の中でそっと思ったが、これは決してネチネチと文句をつけられている彼女に対してではない。
相手の重役とその取り巻きにだ。
取り巻き連中は彼女の去った後釜に、なんて思っているんだろうが、そんなの百年早い。
「喧嘩を売る相手を間違えたんだよ、あんたたちは。」
そうつぶやいた俺の声は、彼女のソプラノの声に混ざって消えてしまった。
「つまり、皆様のご意見を集約いたしますと、私のような女には、当社の顔である第一事業部は任せられないので、即刻去るべきだと。」
「そうはっきりと言ってはいないがね…ハハ」
笑ってごまかしたって無駄さ。
あいつに喧嘩を売った時点で、あんたたちに勝ち目はない。
「皆様がそうおっしゃるのであれば、私としては第一事業部を去らなくてはなりません」
そう無念そうに言うもんだから、会議室はすこしざわめきたった。
そんなつもりなんて重役連中のか細い毛の先ほどもないくせに。
室内を見渡しなおも続ける。
「そうなると心残りなのは、後に残された私の部下たちのこと。」
数多くの案件を仕切り、自らプロジェクトを指揮するその手腕もさることながら、彼女の仕事に対するストイックなまでの姿勢は、多くの女性社員の支持を集めている。
その証拠に第一事業部の男女比は圧倒的に女性が多い。
「特に心配なのは、今ではうちの事業部のエースとも言うべき存在になった私の5人の部下たち。」
その言葉に室内の一部の人間がびくりと反応した。
「あれは忘れもしない2年前、ほかでは手に負えないと私に託されたあの子たちの目はぎらぎらしていてどうしようもなかったというのに、今ではどこに出しても決して恥ずかしくない自慢の部下たちです。
少々度胸がつきすぎてしまったのが玉に瑕ですが、仕方ありません、残念ですが私は…」
「いやいや去石君、早まらないでくれ、今すぐに君に第一事業部を離れてもらうという話ではないんだから。」
「あらそうでしたか、私ったら早とちりしてしまったみたい。お恥ずかしいですわ」
ふふふと彼女が笑ったことで、緊張が一気に解けたように会議室に笑いが広まった。
何が少々だ…現にその少々つきすぎた度胸の餌食になった男どもは、冷や汗を流して小刻みに震えていたというのに。
厄介払い、あわよくば監督不行き届きでなにかあったら責任を取らせるつもりで、当時は手をつけられないほどのやんちゃぶりで有名だった女性社員を第一事業部に押し付けた。
しかしそれが重役たちの大きな間違いの始まりだった。
どんな手段を使ったのかはうちの社の絶対触れてはいけないタブーらしいが、彼女に言わせれば、才能の正しい使いかたを教えてあげただけだという。
教えたというだけあって、社内に去石雪花が増えたともっぱらの評判だ。
ある日の夕暮れ時、夕飯の準備をしていると
「ただいまぁ~」
戦いを終えた女将軍の帰宅を告げる声が聞こえた
「あぁ、おかえり」
「いい匂いがする。おなかへった」
「もうすぐ飯、出来るから」
そう告げて戻ろうとすると、後ろか声を掛けられた
「ねぇ…」
「なに?」
「ご飯が出来てるっていうのもありがたいことなんだけど、おかえりって言って迎えてくれる人が居るって幸せなことだよね。ありがとう、槙人」
(…こりゃまた…初っ端からデレ、ぶっ放してきたな。)
とは言ってもこの女、去石雪花は単純に思ったことを言葉にしただけなんだろう。
社内では女将軍だの、女傑だの、品のない通り名があるらしいが、この女の本質は、子供のように素直で真っ白だ。
ただ少し負けず嫌い且つ、思ったことを口にしてしまうため、意図せずして良くも悪くも周囲を惑わす。
「まぁ〜きぃ〜とぉ〜」
締まりのない声で俺を呼ぶ声が聞こえ、リビングを覗くと、あられもない姿の声の主がいた
着替えも中途半端に、大きめのソファーに腕や足を投げ出していた。
これも日常茶飯事のことだが、会社で雪花を崇拝する社員達が見たらなんて言うんだろうな
こればっかりは俺の特権みたいなもんで、誰にも渡すつもりはないが。
「なんて格好してんだ、襲うぞ」
「コーヒー飲みたい」
「自分でやれ、俺は手が離せない」
「え〜でもぉ、雪花、疲れて動けないの 」
「そんなおねだりが通用する歳はとっくの昔に過ぎたはずだ」
そう口では言いつつもコーヒーを入れる俺はつくづく甘い
「失礼な、ココロはいつでもピッチピチのハタチなのよ」
「その発言が既に若くない。ほら、危ないからちゃんと起き上がって飲めよ。」
「ん、ありがと」
そう言ってコーヒーをすする横顔は会議室で見たものとなんら変わりないが。
「なに?」
少しの間横顔を見ていると訝しげに彼女が聞いてきた
「何かあったのか?」
「質問に質問で返さないでよ」
苦笑しつつ言うが、その様子はどこかぎこちない
「なんとなくだから根拠もあったもんじゃないが、会社で何かあったな」
「根拠がないんじゃ話にならないわ」
「ないとは言ったが、前に上司のとゴタゴタになった時と様子が似ている」
だが彼女は口を割らない。
前例のときも聞き出すまでにかなり時間がかかった。
だが、俺に出来るのはここまで。あとは雪花のタイミングを待つしかない。
「どんなことがあっても、私のこと…信じてくれる?」
突然そう聞かれたことにも驚いたが、考える間も無く反射のように言葉が滑り出た
「当たり前。むしろ当たり前過ぎることを聞かれて若干不愉快」
「あは、ごめんなさーい。」
「ったく、俺のことなんだと思ってるわけ」
「有能な主夫、みたいな?」
「そうか、夕飯要らないか。」
このときは、謎の質問の意味も含め何があったか、そのうち雪花から話してくれるだろう、くらいにしか思っていなかった。
まさかその数日後に、その真相を彼女以外から知ることになるなんて思っていなかった。
「なぁ、吉木、知ってるか。」
「なんすか?」
一応先輩にあたる人なので無下にするわけにはいかないが、本来ならただの噂好きのおっさん、相手になんてするか。
「事業一部の女将軍に恋人が出来たらしいぞ、しかも年下の。」
驚いた俺は、見たくもない下品に緩んだ汚いおっさんの面を二度見してしまった。
しかし平常心で聞き返す。
「去石にですか?」
「なんでも射止めたのは今年入社の奴らしい。」
「はぁ…」
「若いって素晴らしいなぁ。ハハハ」
先輩は笑いながら立ち去った。
よくよく考えれば、あのゴシップ好きのおっさんが集めてきた話だ。どこまで本当かなんて考えるだけ時間の無駄というもの。
相手にするもんでもないと思っていたのだが…
昼時、社員食堂
「あれが噂の女将軍と年下の恋人か。見せつけてくれちゃって」
「さすが新人ってだけあって、怖いものなしだなぁ」
部下たちが話すのを聞きながら、噂の2人を観察する。
予想に反して噂の信憑性は高いのかもしれない。その証拠に、彼女は若い男性社員と昼食をとっている。
ニコニコと若者が話しかけ、彼女がそれに答える。話している内容は分からないが、恋人同士のようにも見えなくはない。
見せつけられているが、俺は自分の気持ちに余裕があることに気づいた。
昔の俺なら、こうはいかなかった。
嫉妬に、怒りに顔を歪める醜い姿を誰にも見せまいと、さっさとこの場を後にしていただろう。
「部長、食べるの早くないですか?」
目の前に座る上田君が驚いたように聞いた
「プレゼン前にまだやることが残っているのよ。」
品が無くて悪かったわね。
っていうか勝手について来たのはお前だろう、と思いつつも手早く済ませる。
午後の事を考えれば、このお喋りも、昼食の時間さえももったいない。
だが悲しいかな、空腹には勝てない。
「せっかくのランチタイムなのにっと、これもらったぁ〜」
「ちょっと、それ最後に残しておいたやつ。」
最後に食べようと残していた豚カツはヤツの口の中へ。
この餓鬼、調子に乗りおって。
「へへ、食べちゃいました。代わりにこっちの食べます?さっき悩んでましたよね?」
目の前に差し出されたのは唐揚げ。
確かにこのカツ丼にするか、唐揚げ定食にするか、迷った、すごく迷った。
だがプレゼン前の験担ぎは欠かせなかった。
「…別に。」
「あ、図星ですね。ほら遠慮しないで、はい、あーん。」
「ばかやってないで、あんたも早く済ませなさい。」
「素直じゃないなぁ、部長は〜」
この子には何を言っても無駄だと思い、立ち上がるが、泥濘に沈み込むように足元から体勢が崩れていく。
と同時に意識も遠のいていった。
食器が床に落ちる音に、食堂を出ようとしていた吉木が振り返る
散らばる食器と倒れこむ女性が見えた
彼女が誰か確認するや否や、彼は走り出していた
「…去石部長?部長、大丈夫ですか?」
1番近くに居た若者が声をかけるが反応がない。
慌てて彼女に手をかけて状態を確認しようとするが、
「彼女に触れるな」
その警告と怒りを含んだ一声で出した手は宙に浮くことになった。
突然現れた男が吉木部長だと分かると、周囲の人たちは一様に驚いた表情になる
それもそのはず、
日々、無難に淡々と業務をこなしている吉木が、去石のもとに一目散に駆け寄って来て、かの若者に対して、感情を露わにしたのだ。
倒れこんだ雪花を起こすが、彼女の意識はまだ戻ってこない。
最近、時間的にすれ違い続きだったとはいえ、なぜ今まで気づかったのか。
そう考えると、己の未熟さと彼女に対する申し訳なさがつ募る。
「去石部長を医務室に運ぶので、そこをどいて下さい、吉木部長。」
その声に視線を上げると、挑むような目つきの彼がいた。
「その必要はないよ、新人君。去石は俺が運ぶさ。」
「上田です。自分は去石部長の部下です。自分にさせて下さい。」
新人と呼ばれたことが気に食わなかったのか、名乗った上でそう言った。
若い無鉄砲さを表した目をしていた。
「君は去石を好いているのか?」
「はい。」
上田は何の迷いなく答えた
「…若いって素晴らしい、か…。だが、こいつをお前に渡すことは出来ない。」
「何故ですか!」
「何故ってそれは、」
「まさかその答えを安安と教えてあげる気じゃないでしょうね、吉木。」
少し掠れた彼女の声がした
「去石部長、医務室に行きましょう」
「少しふらっとしただけよ、大袈裟ね。」
心配顔の上田にそう答えて少し苦笑する
「平気なのか?」
「お陰様で、いい膝枕で寝たら治ったわ」
おどける彼女の表情はまだ疲労が抜けないが、顔色はさっきよりも良い
「午後からプレゼンがあるの、休んでなんかいられないわ」
「そんなの俺たちに任せて下さいよ」
上田は引き下がることなく休養を勧める
「あれは今月の目玉案件よ、あなたも分かっているでしょう?」
「でも、」
二人の押し問答が続くが、俺は割り込んで気になったことを聞いてみる
「去石、最後に寝たのいつだ?」
「いちいち覚えてないわ」
「その感じじゃ、二日以上だな。」
図星だったのか、少し黙り込んだあとに言った
「…吉木まで休めなんて言うつもり?」
「まさか。はい、そうですかと従うお前じゃないだろ。とっとと終わらせて休みとれよ。」
そう言って立ち上がるための支えに右手を差し出す
「まぁ、よく分かっていらっしゃる同期だこと。」
「お前はちっとも分かっていないな」
「何が」
訝しむ彼女の左手を少し高い位置に上げる
「ここに贈った輪っかの使い方だよ、雪花。こういう怖いもの知らずの若者を追い払うためのもんだろ、覚えとけ。」
そう言って社員食堂をあとにする。
去り際に新人君を見ると、唖然としていた。いい気味だ。
苗字を変えないと結婚したときに決めた
提案してきたのは雪花だった。
理由を聞くと、自分と苗字が一緒になればややこしいことが増えると。
彼女を良く思わない連中が、夫である俺に何らかの圧力をかけてくるかもしれない。
そう考えた彼女なりの気遣いなんだろうと思い、了承したが、本音は俺自身寂しく感じていた。
結婚当時とは変わり、俺は他の圧力に負けるほどの弱い立場から脱することが出来た。
そろそろ頃合いだろう。
この食堂での公表がこれからどう転ぶかは分からないが、なんとかなるだろう。
まぁこれから暫らくは噂の渦中の人間として、社内の晒し者になるんだろうけど、彼女との噂なら悪くはないかなと思う。
夫の余裕っていうか、大人の余裕、大好物です。