第三章 巫女の在り処
第三章 巫女の在り処
「大いなる巫女はその自らの竜を用いて邪悪なる竜を打ち砕いた!!」
『わああああああああああああああああああああああああああ!!』
「彼の巫女の名。それこそはユネル・カウンホータ!! あの大巫女ラテラノーグ・ディース・ユグロハーツ・カウンホータの孫娘である!!」
遠方の広場に設けられた台の上で街の長が長口舌を打っているのを横眼に果実液の入ったグラスを呷る。
「あれ、オババの名前か?」
「うん。ちょっと長いから式典なんかで呼ばれる度に噛まれて、もう大巫女でいいよって昔開き直ったんだって。それ以来あんまり本名は使わないようにしてるって言ってたよ」
小さな店舗の中、本来なら空いているはずのない人気店らしい店先で朝食を取っていた。
朝、起きればいつの間にか砂の上で寝ていた。
立っているユネルに眠い目を擦りながら挨拶をして、そのままイソイソと街まで運ばれる事数十分。
街の中はお祭り騒ぎもかくやという浮ついた空気が漂っていて、朝食を取ってそのまま帰ろうというユネルの方針に賛同し店で食事をし始めた時、聞こえてきたのがその口舌だった。
少し苦手そうにユネルが笑う。
それは初めて見る類の笑みで、何処か気遅れしているようにも見える。
「・・・・・・」
「どうした?」
「え・・・」
「複雑そうに見えるぞ」
「ちょっとあんな風に言われるの苦手だなって。あたしオババみたいに凄くないし、巫女として普通の事してるだけだから、あんなに褒められると申し訳なくて」
「申し訳ない?」
「賢者には解ってると思うけど、あたし未熟だから。今回は上手くいったけど、次もそうなるかは解らない。それなのに褒められると凄く申し訳ない気持ちになって・・・ごめんね、朝からこんな話。さ、食べよう」
「馬鹿か」
食べ始めながらボソッと言ってやる。
「うぇ?! な、何が!?」
「また次に竜を退治する時にも、その次に竜を退治する時にも、お前は誰も失わない為に努力し続ける。次に守りきれるか解らなくてもオレが知ってるユネル・カウンホータは努力し続ける事を止めない。お前はいつだって褒められていいし、褒められて当たり前の人間だ」
「そんなあたしは・・・」
「ユネル。お前にできる事はなんだ?」
「え?」
「竜から誰かを守る事じゃないのか?」
「うん」
「何もせずに竜が誰か消すのを見過ごしたりしないよな?」
「そんな!? そんな事ッ」
「なら、守り切れるか解らないなんてのはお前が誰かを守ろうとする限り、ただの戯言だ」
「賢者・・・」
「戻ってオババに報告するなら、とっとと食った方がいい。あの連中に見つけられる前に」
「え? あ・・・」
気付いたらしく、後ろを振り返ったユネルの額に汗が浮かぶ。
「どうかユネル様にこれを」と群衆がワラワラと街長の周囲に物を持って群がっていた。
その勢いは凄まじく、もしも本物が現れれば人通りの多い場所に現れた有名人のようにもみくちゃにされる事が簡単に想像できる。
「早く食べて行っちゃおっか賢者」
「同感だ」
帰りは超特急。
その背中で二度寝した。
*
賢者と言えば迂遠で深遠な語り口な奴か、やたらとMPがでかいだけの頭でっかち。
RPGではそんな感じの奴が多い。
そもそも賢者という名称は知恵と魔法的手段の達人、あるいはその在り様の特殊さに見合う名称としてある。
勇者のお供。
力を授けるお助けキャラ。
小説などなら魔法と知恵によって戦局すら覆すチートキャラ。
イメージの中には森の奥にいるモノや洞窟にいるモノ。
西洋では世捨て人としての性格が強調され、東洋では仙人などがそれに類する。
現代に続く賢者的なイメージとしてなら錬金術師も賢者と言えなくもない。
賢者の石に賢者の卵に賢者の知恵。
現代の日本ならば賢者のイメージは万能的な魔法使いに近い。
実在した哲学者などに代表される古代の有名人にも賢者と称された人間はいた。
そういう意味では賢者とは変わり者とも捉えられる。
紐解けばそれこそ太古の巫女などに通じるところもあり、賢者が預言者を兼ねる事もあった。
他にも賢者と呼ばれる者のイメージは無数に存在する。
多様なイメージの中でもあまりブレないイメージとしては道先案内人、導く者、忠告する者というものもある。
多くの若者を未来へと導いていくという役割はポピュラーだ。
そんな多様なイメージの集合体が「賢者」と言える。
そこまでの知識など持ち合わせが無い自分が賢者と言われているのは現実の知識水準の高さとそれを貪欲に欲したヲタクとしての習性故であり、本当の意味で賢者となる事なんて出来ない。
変わり者的なイメージなら自分が賢者呼ばわりされてもおかしくはないとしても柄ではないのだ。
賢者と相成れないのは間違いない。
謙虚さ誠実さ深遠さ知恵も持っていないのだから当然だろう。
真理なんてものとは無縁な無遠慮さはきっと厚かましいでは済まない。
「・・・・・・」
そんな無遠慮さで巫女の真実とやらをオババから訊き出す事に成功したのは初めて巫女の仕事を見てから三日目の事。
その部屋の静寂さのせいか。
入ってくる陽光の色が少しだけ違って見えた。
「その昔、一人の女がおった。その女は竜を自らの血によって清め、自らの下僕とする方法を編み出した。それ以降、数千年に渡りその女の竜を使役する術を持つ者は絶大な力を持って世界を回し、竜と人の間に立つ者として永遠の任を自らに課す事となった」
「永遠の任?」
寺院の中の小さな部屋。
その壁に刻まれた刻印をオババが触ると壁が左右に割れた。オババが先に立ち壁の中から現れた地下へと続く階段を降りていく。
語りは静かでいつもの皮肉げな印象は受けない。
「女達はその竜を使役するという大役と秘術を悪用されぬよう竜と共に人を守る守護者としての任を永遠に続ける。巫女とはただの竜を使役し人を守る者ではない」
進んでいく階段の先。
小さな光が壁に増えていく。
光る苔の一種か。
それはまるで星々の光に似ていた。
「一種の殉教者と、そう考えた方が正しい」
「な・・・!?」
光の先、清浄な空気の流れ、目を細め、その空間に目を見張る。
巨大な円形ドーム状の空間。
半径だけで数百メートル以上。
その壁一面は階段と同じような苔に覆われ光を発していた。
しかし、それよりも目を奪われるのはその地面に敷き詰められ、光の苔に覆われながら連なる長方形の物体。
その大きさにピンと来ない人間はいないに違いない。
それはたぶん石棺。
ただ一面に敷き詰められた棺桶が地面を覆い尽くしていた。
苔によって露わになるその数に絶句する。
「巫女とはこの世にただ一つ、人に遺された竜と歩んでいく手段。そして、手段である為に巫女は自らを捨てて生きなければならない」
「こんな・・・集合墓地?」
「先代の巫女。先々代の巫女。そのまた先代の巫女。人を守り続けた者達の安息の地。この地に根を下ろした巫女の行き着く先。それが此処『回帰せし母なる胎の庵』・・・レグレッスス・アド・ウテルム・・・」
その皺の刻まれた顔が優しげに石棺に微笑んでいた。
「このオババもその内入る事になる最後の楽園というところかい」
「最後の楽園・・・」
「婿殿。巫女とはこの世界において自らを捧げ終わっている者の事を指す。勿論、全てを承知で死して尚このような場所に在らねばならない。あの子にこのオババが一番最初に教えた事は人生の全てが終わって最後に帰る場所は此処だという事。さて、このオババが何を言いたいか解るかい」
「生憎と解らない」
「ふふ、それでいい。巫女の事は巫女にしか解らん。解ろうとしたところで俗人には自らを捧げ終わっている者の事等、本当には理解できまい」
気持ちよく笑う老婆の方がまるで賢者だと、本気でそう思えた。
「何でオレに此処を見せた。本来なら」
「ああ、本来なら俗人が立ち入るべき場所ではない。しかし、あの子の仕事を見た婿殿になら見せてもいいとそう思えた。ま、このオババが許す限り誰が咎められるわけでもない。そう気負う事はないさね」
「・・・・・・」
「あの子は普段あんなだが、巫女としての自覚は人一倍。その力はこの当代最強と謳われたオババをもう軽く凌ぐ。見えないかもしれないがあの子はこのオババが教えた巫女に関する全てを覚え、決して欠かさない。その上で作法の形は崩してるが・・・まぁ、見る者が見れば巫女として敬うべき者だと一目で分かる」
「・・・・・・」
「あの子があんなにも嬉しそうに笑うようになった。それはこのオババにとって何より価値ある事実。だからこそ問おう。この世の巫女の中にてただ三役。【奉審官】が一人、大巫女ラテラノーグ・ディース・ユグロハーツ・カウンホータが。此処にいる賢者とあの子に称えられる人間は・・・あの子をこれから何処に導く」
その濁った瞳には気高い耀き。
虚ろな自分とは比べるべくもない。
巫女に問われて答に窮したのは一瞬。
真実以上に言う事など何もない。
解らない事は解らない。
綺麗事など言えるはずもない。
だから、ありのまま、言う。
「何処にも。ただ、ユネルはオレを助けた。だから、オレもユネルにそれをどうにかして返したい。オレは賢者でもなければ、あの子が言ってくれるような人間でもない。帰る方法が見つかればこの寺院から抜けて出ていくだけだ」
「・・・そうかい」
しばしの沈黙の後、背中を向けて静かに階段を上がっていくオババの背を追う。
階段を上がった先、オババが立ち止まった。
「婿殿。アンタには感謝しとる」
立ち止まり見上げれば、振り向いた瞳は閉じられていた。
「あの子は巫女ではあるが、同時に年相応の娘でもある。それなのに巫女としてしかこのオババはあの子を育ててやれなんだ。それに対し巫女として何一つ不満はない。しかし、あの子の祖母としては罪だと思っとる」
「・・・・・・」
「この老いた手はあの子の未来を奪った。本来ならばそこらの娘と同じように着飾りたいとも恋をしたいとも思う年頃。その娘に巫女とは孤独だと教え、友達の一人も作らせてやれなかった。本来ならばこの顔が親代わりなどと教えられたものじゃない」
「それは・・・アンタがあの子の事を思ってたからじゃないのか?」
「そうだ。確かにそうだ。あの子が巫女として命を落とさぬよう、決して負けぬよう仕込む。それはこのオババにとっては何よりも優先するべき事じゃった。ああ、それこそ他の生き方を何一つとして実践できぬよう巫女以外の道を絶つ程に」
「どういう事だ?」
「簡単な話じゃないかい。巫女と成ってしまえば、二度とその頸木から逃れられない。だから、最初からそれ以外の生き方をできぬよう教育した。あの子がどんなに強かろうとあの子は巫女以外の者には成れない。それこそ骨の髄まで染み込ませた作法がこの世界の中では他の仕事なんてさせてくれないだろう。どんなに隠しても見る者が見ればすぐに分かる。この世界にあっては誰もがあの子に巫女である事を望む。故にあの子は・・・」
「巫女でいるしかない?」
オババが頷く。
「だが、何の運命か。アンタがここにやってきた。巫女を知らず、巫女を何とも思わず、あの子をあの子のままに見るアンタが。それはあの子にとって望外の幸せだったはずだよ。しかし、アンタはそんな幸せであると同時にあの子を壊す絶望の福音でもある。あの子が自分を自分として見てくれる人間を失った時どうなるか。この老体には見当も付かん」
「・・・だから、残れと?」
オババが自らの手を見つめた。
「この老体には・・・もうあの子を見守る時間が残されていない。そういう事じゃよ。賢者殿」
「ッ」
「頼むとは言えん。最後の願いだとも言えん。全ては世界の巡るまま、流れゆく刻に浚われていくだけ。それでもあの子だけは、この身の全てを投げ打っても幸せにしてやりたいと・・・だから、これは、そう・・・老婆の戯言かそれ以下の妄言と取ってもらいたい」
振り返った小柄な体がまるで巌のように感じられた。
膝が地面に付けられる。
頭が地面に付けられる。
その頭は如何なる言葉も通らない鋼の意思を宿して下げられる。
「どうか、あの子を、その時まで、見守って欲しい」
大人が子供に頭を下げる。
老婆がただの子供に頭を下げる。
矜持も何もかもをかなぐり捨てて。
「オレはただの子供だ。そして、貴女はその子供の友達の祖母だ」
「分かっとる」
「オレはどんなに頭を下げられても帰る事を諦められない」
「分かっとる」
「ユネル・カウンホータはオレにとって大切な恩人だ。それ以下でもそれ以上でもない。そして・・・オレにとって帰る事以上に大切じゃない」
「分かっとる」
「オレはアンタが思ってるよりずっと酷薄な男だ。空虚な中身をただ知ったつもりの知識で埋めただけの人間でしかない」
下げられた頭が上がる。
眼は開かれていた。
「この濁り切った眼に見えるのものは殆ど何もない。しかし、この目にはただいつも一つだけが見える」
膝を払い立ち上がる魔女は本当に何もかもを見透かしたように視線を結ぶ。
濁った瞳には何も見えない。
それでも見ているモノがあると言う。
曰く。
「あの子の笑顔だけは・・・それをこのオババは決して違えたりはせん。その限りにおいてアンタは決してそんな人間じゃない」
「そうだと思うならアンタの孫娘を誇れ。こんな男をそう見せるのはあの足りない孫娘本人だ」
立ち上がったオババはこちらに背を向けた。
背中に刻まれた年数だけが言葉を重くした。
「ありがとう」
たった一言がズシリと胸を撃つ。
それはまるで魔法のように人の心に響く言葉。
奥歯を噛みしめ視線を逸らす。
「これでこのオババの話は終わりにしようかい。婿殿。帰る方法そのものではないが、それに近いかもしれない事について一つこのオババに心当たりがある。それについて明日から幾分か時間を割いてもらいたい」
「?!」
「本当に帰る方法となるか。あるいはただの思い過ごしか。それは解らぬとしても参考の一つにはなるだろうさ。どうだい?」
常の皮肉げな調子の声。
それに温かな笑みが混じっているような気がして、笑い返すしかなかった。
「妄言に付き合った後だ。そんな話なら幾らでも喜んで聞ける」
「ふ、それじゃ、そろそろあの足りない孫娘に昼飯でもネダリに行くとするかい」
互いに顔は見なかった。
歩いてゆく背中。
初めてその背中が『大きい』事に気づく。
大きな魔女は確かにたった一人で孫娘を守り育んだ『親』に見えた。
羨ましい程に大きな背中だった。
*
「賢者。楽しいよ!! ほらっ!?」
足を踏まぬように、刻まれる音に合わせて何度もステップを踏む。
「は、激し?!」
「音聞いたら解るよ。ほら、チャチャチャチャチャチャって♪」
「こんなに早くできるわけッ?!」
「あはは、こういう風にしたら大丈夫♪」
小さく打たれる拍子と音楽に合わせて何度も何度も回る。
回りながら賢者の顔を見る。
その顔は足元ばかり見ていて、今にも転びそうで、慌てていた。
「後少しだよ。頑張って♪」
「少しは、テンポを、考え」
「ほら、チャチャチャ、チャチャチャ、もっと早く♪」
早くなっていく足運び。
小さな頃オババに習った踊り。
誰かと一緒にする時は上手く音に乗せて、空を飛ぶ鳥のように軽やかな足運びで。
「こう、いう、のはッ、得意ッ?! じゃッ、ないッ!?」
激しくなっていく音に合わせて、他なんて誰も気にしないで、ただ只管に。
「下手でも上手くても誰でも踊れれば一人前なんだってオババが言ってたよッ」
「それ、なら、こぉう、いう、のは?! 他のッ、人間と、とッ?!」
「賢者があたしの相手なんだよ♪ 他の子なんていないもん♪」
最後、駆け上がっていく音は空にすら昇れそうなぐらい熱くなっていく。
【踊る回る宵が覚めるまで♪ 踊れ回れ酔いが覚めるまで♪】
「で、き、る、かッ?!」
【踊ろ回ろ恋が実るまで♪ 踊れ回れ愛が狂うまで♪ できるよ。ほらッ】
「ちょ、と、止ま、れ、と?!」
【踊り回り良い子作るまで♪ 踊り回り好い子眠るまで♪】
「明けッ、透けッ、なッ、歌詞ッ、だッッ、な?!」
【踊って回って明日も尽きるまで♪ 踊った回ったこの世果てるまで♪】
「●×◇>!*#!?」
「~~~~~~~~おーしまいッッッ!!」
音が止んで大きな拍手。
「できたよね? 凄く上手だった。賢者ありがとね」
思わず頬に唇を寄せて、
「――――――――」
拍手と口笛と楽器が鳴って、
「行こうッ、賢者」
恥ずかしくてその場を逃げ出した。
*
半年に一回の小さな祭り。
歌い踊り飲む集まり。
子供も大人も老人もなく、ただ混沌に沈むまで続く催し。
連れ出されたのは夕方。
いつもとは違う街は広場に巨大な篝火を置き、人々の影を建物に映す。
一際陰影の深い世界はまるで影絵のように見えた。
踊ったのは誘われたからに外ならない。
初めて巫女が踊り出したらしいと街の誰もが囃子立て弦を掻き鳴らす光景に顔が強張るのを感じながら、それでも断る事はできなくて最後まで踊り切った。
まったく覚えなどない踊りに狂わされて、足もふらつき、目も回り、何が何やら解らないままに、意識が落ちた。
気がつけば街の喧噪が嘘のような静寂の中だった。
暗いのに何も不安に思わないのは頭の下にある温かさが原因。
すぐにそれが人の体温だと気付いて自分がどうなっているのか見当がついた。
膝枕。
「あ、起きた? 賢者」
「ユネル」
「ちょっとはしゃぎ過ぎちゃったみたい。ごめんね」
「それでどれくらい気を失ってた?」
「ほんの少しだよ。本当は水とか飲ませようかと思ったんだけど・・・その、あそこじゃ賢者が休めないと思ったから出てきちゃった。あはは」
誤魔化し気味にお茶を濁され、何となく意識が落ちる瞬間にされた事を思い出した。
「・・・・・・」
「お、怒ってるよね賢者? そのね。えっと、あ、そ、そう!! あれはここら辺だとね。挨拶みたいな―――」
「挨拶で物凄い囃子立てられたような気がするな」
「う・・・」
うろたえる足りない孫娘を放っておいて空を見上げてふと気付く。
「そういえば、星座も違うのか。此処は」
今更に気付くがどっちにしろ星に詳しいわけではない。
そもそも北斗七星程度しか解らない人間が星の位置で何かを割り出せるわけもない。
知らない配置の星ばかりの時点で諦めた事を思い出す。
「いや、あれはだから挨拶みた、どうかしたの賢者?」
言い訳らしき事を言い掛けてから何か察し訊いてくる少女にどう説明したものかと考える。
「ユネル。星座って解るか?」
「『せいざ』って何?」
「それじゃ夜に空に浮かぶ光ってるのが何か解るか?」
「それは星じゃないの?」
「(星は知識としてあるが星座が分からない? 後であの魔女に訊いてみるか)」
「賢者?」
「オレのいた場所だと星と星を結んで物や人、動物、そういう形に見立てる事があった。そういう形の星座には物語が付きもので大なり小なりの話がある」
「何だか楽しそう」
「有名なのだと一人の英雄が永遠に化け物に追われ続ける話とかか」
暗闇の中、何と言ったらいいか困る少女の気配。
「でも、その代わり英雄は永遠に恋人を追い続ける狩人でもある」
「恋人?」
「その英雄は永遠に自分を殺す化け物に追われ続ける運命だが、愛した人をいつまでも追い続けてもいける。絶対に恋人に追いつく事はないが絶対に見失う事もない」
「・・・悲しい話だね」
「そうかもしれないがそれだけじゃない」
「どういう事?」
「終わらない物語は未来への希望だ。永遠の先にまでその希望は続いていく。だから、英雄は決して届かない恋人を追い続けても希望だけは無くさない。それこそ永遠が終わるその日まで。いつか恋人に辿り着くまで」
体を起して立ち上がる。
もう、足元はふらつかない。
後ろを振り向けば夜闇に慣れた目が何かを言いたそうなユネルの瞳を捉えた。
「話はあんまり解らないけど、何か賢者って凄く・・・」
「凄く?」
ユネルも腰を上げて伸びをする。
「夢見がち?」
「ッ」
思わず反論しかけて、冷静になる。
「星座はロマンだ。それこそ夢見がちに語れる程」
「『ろまん』って?」
首を傾げて訊いてくる少女は自分にすれば、臥塔賢知にすれば、正にロマンの中に生きている。
頭の足りない孫娘。
誰かの為に巫女となり、孤独を背負う少女。
巫女以外には成れず、それ以外の未来を持たない。
そして今は、知らずに最後の理解者すら亡くそうとしている。
「お前みたいな奴の事だ」
「あたしって『ろまん』なの賢者?」
「少なくともオレよりもずっと『ロマン』だ」
「??」
「これからどうする? そろそろ家に帰らなくていいのか?」
「え、うん。でも、今日はオババが朝まで居ていいって言ってたから」
「なら、広場に戻るか?」
「賢者、何か悪いモノとか食べちゃった?」
思わずその言葉に半眼になる。
こちらを見てユネルが汗を浮かべオロオロし始める。
「だ、だって、いつもの賢者だったら『あんなところに居られるか。とっとと帰るぞ』とか言うと思ったから」
いつもとは違う行動。
その行動がどうしてなのかと思い当たって、馬鹿がと自分を罵りたい気分に駆られた。
あんな魔女の話に感化されて、少しでも楽しませてやりたいと無意識に考えていたのは明白。
居なくなってしまうと最初から分かり切っている自分が本当に少女に優しくするど愚の骨頂。
打算と妥協と同情と憐憫。
同時に抱えるのが人間だとしても、償いたいなんて感情が生じたとしても、それは理性で否定する。
そうする事でしか、ユネル・カウンホータに接する事はできない。
最初から傍に居られないと、一緒になど居られないと、裏切らなければ帰れないと知っているのだから、せめて一欠片の誠実さを持って触れなければ、接しなければ――――壊れてしまう。
そんな気がした。
「ユネル」
息を大きく吸って溜息を一つ。
「賢者?」
「気にするな」
「え?」
「そういう時もある」
「そ、そうなんだ」
「行くぞ」
「うん」
手を取る事はない。
それでも連れだって歩く事はある。
(それ以外にやりようなんて・・・オレにあるわけもない)
完璧な主人公とは程遠い。
強いわけでも優しいわけでもない。
人を想うなんて普通の事すら怖がるような男だから言い訳ばかりが先に立つ。
だが、そんな人間であるからこそ、言える。
「また踊るか?」
「―――あ、えと・・・うん!!」
厚顔無恥に、近い将来きっと少女を奈落に落とすだろう、その思い出を紡ぐ言葉を。
ただ共に居たいから居る。
そんなちっぽけな自己満足を理由にして。
*
―――――――――――――――先日の夢から醒めた。
「ねぇ、賢者ってば聞いてる?」
「・・・・・・?」
「賢者・・・あたしの話聞いてなかったの・・・そっか、あたしの話なんてどうでもいいんだ・・・」
拗ねた様子でプイッと視線を逸らす横顔は不機嫌そのものだった。
いつもの草原。
鍛練場。
常の如く自らを鍛える巫女の姿を見ていたら瞼はいつの間にかくっついていたらしかった。
「悪かった」
草原から身を起して素直に謝罪した。
「ちゃんと聞いてくれる?」
「ああ、今度は真面目に聞く」
「それならいいけど。もう寝ちゃダメだからね」
少しだけ疑わしそうな視線の後、気を取り直したらしいユネルが小さく頷いた。
「だから、その、賢者に勉強教えて欲しいの」
「勉強? どうしてだ」
「だって、オババが『まったく家の孫娘は婿殿ぐらいに博識ならねぇ』とか、この頃のお小言がみんなそれなんだよ」
「そもそも勉強するにしても何が勉強できるのか問題だな」
「べ、勉強くらいできるもん。昔はこれでも凄く頭良いって褒められてたんだから」
「数学、理科、社会、歴史、地理、現国、体育、音楽、芸術どれがいい?」
「?」
ユネルが首を傾げた。
「はぁ」
「な、何か今凄く失礼な事考えてなかった賢者!?」
「数学は解るか?」
「す、すうがく? あ、数字を使うのは得意だよ」
「五人の人間が三つの果実を十五個に等しく分け均等に分配しました。さて、一人果実の欠片を幾つ持っているでしょう?」
「け、賢者の意地悪?!」
「元素記号を全て暗記しろ。すいへーりべーぼくのふね」
「げん、すい・・・?」
「社会、歴史、地理なら・・鎌倉幕府を開いたのは誰か、関ヶ原の戦いで勝利したのは誰か、とかか」
「せき・・かま?」
「徳川家康」
「とくがわいえあす?」
「・・・はぁ」
「何か今凄い勢いで賢者『ダメだな』とか思ってない!?」
「知りたい事が分からないと教えようもないと思わないか?」
「そ、それじゃ訊きたい事があったらいいの?」
「ああ、何でもオレに分かる限りの事は教える」
少しだけ考え込んだユネルがパッと笑顔を咲かせる。
「それじゃ賢者のアレって何で固いの?」
思わず真顔でユネルを見つめてしまった。
「何だかテカテカしてるけど金属みたいに重くないし、でもピカピカしてるし」
「・・・アレって何だ」
ジットリと額に汗が浮かぶ。
「アレ? 賢者の腰辺りにいつもあるアレだよ」
「ケータイか?」
「けーたい?」
「いつも入れっぱなしなのはそれしかない。四角いやつ」
「うん。ソレ」
「ふぅ・・・」
「賢者どうかした?」
「鈍さは罪なのかそれとも美徳なのか。悩んだだけだ」
「?」
「とりあえず、材質は教えてやる。解らないだろうが・・・後、使い方の基本も」
その午前中、目を輝かせる教え子に理解させられたのはケータイの開き方だけだった。
そうして午後、鍛錬を終えたユネルと共に街に出かけた。
近頃は一人で街の探索をするのが日課になっている。
巫女と一緒では素直に話してくれないような類の情報を集める目的での単独行動だ。
それを許容される程度には信用されているらしく。
調査を始めてから問題は起こっていない。
「お、巫女様のとこの二号さんか」
「どうも」
今日もとりあえず情報収集に勤しむかといつもユネルが使う食料品店の一つに出向いていた。
少し頭の禿げた冴えない四十代の男はユネルの知り合いらしく情報源としては打って付け。
近頃は色々と常識を話してくれる協力者である。
「それで今日は何が知りてぇんだい?」
「色々と知らない事があるので迷ってますが、アウタスの人々の生活模様を少し学ばせて貰えればと」
「生活模様ってな暮らしぶりの事か?」
「ええ」
「暮らしぶりは巫女様のおかげでいいぜ? 此処らを見りゃ分かるんじゃねぇか?」
「確かに・・・何かに脅えて暮らしているような感じはしませんね」
「そりゃそうだ。巫女様達の下でこの街は生き永らえてるようなもんだからな」
今日もとりあえず話を訊けそうだ。
*
愛想がない巫女様のとこの二号さんが今日もやってきた。
近頃はいつも此処に来る。
暇なのかい?と訊けば、そうじゃありませんと返されるが・・・さて、一体今日は何を知りてぇのか。
「・・・・・・」
そう言えば最初店先に一人で来た二号さんに茶を出す事にしたのは男として何か悩んでる顔だったからだっけか。
何処にでもいる若い連中と同じ顔は見過ごせねぇってのは性分だが、そんな時が自分の若い頃にもあったから、その時の気持ちが分かるってのが大きいのかもしれねぇ。
母ちゃんに拾われなきゃ今頃砂漠のど真ん中で死んでたかもしれない身の上だったから、同じような奴が気に掛かっちまうんだろうなぁ。
「どうかしたかい?」
「いえ」
「ま、座ってくんな二号さん」
「はい・・・」
二号さんに椅子を勧める。
近くに座られるとその体の細さがよく分かった。
年頃だってのに力仕事ができねぇってのは生活するのに痛いんだが、この細さは生まれかねぇ。
この間来たばかりの時は女みたいだなんて思ってたっけ。
いや、やっぱ男は力だよな力。
「何か悩んでるのか。二号さんは?」
「え・・・?」
そう言うと二号さんはダンマリを決め込んだ。
「あ、いや、そのな。いつも此処に何か訊きに来るのは何か悩んでるのかもなぁと思っただけなんだが・・・」
ウチの母ちゃんが扉の裏から【粗相やらかすんじゃないよ。あんた?】と睨んでくる。
分かってるよ。
やらかさねぇよ。
「いえ、別に」
「そうかい?」
「はい」
何か誤魔化された感じがするがしょうがねぇ。
こういう若い時期の奴から無理やり何か聞き出すような趣味もねぇし、まぁいいか。
「そう言えば、まだ直接的には訊いてなかったんですが、ユネルは・・・どういう風に思われてるのかお訊きしてもいいですか?」
「巫女様の?」
「ええ」
「巫女様の事は尊敬してるし、街の連中も好きだって奴しかいないんじゃねぇかなぁ」
「はーい。巫女様大好きな人その一!!」
「その二だぜ!!」
「その三!!」
母ちゃん。
せめてガキ等は他のとこに大人しくさせておこうぜ?
二号さんがこっち見て無表情。
怖ッ、何でそこで暗くなんのか解かんねぇ!?
オレにどうしろってんだ!!
「二号さん。巫女様の事知りたいの?」
「二号さん。巫女様のおっぱいの大きさが知りたいんならコレだせよな」
「二号さん。巫女様と一緒に寝てるって本当?」
おいおい!!
ガキ共!!?
特に二番目の!?
知ってるのか!?
どーこでんな情報仕入れてるのか後で母ちゃんに内緒でこっそり教え―――【アンタ、明日の夜明けが見たいかい?】とか!!?
か、母ちゃん。
さすがにそれはないだろ。
オレが何したってんだ。
「ユネルは優しいか?」
「うん。優しいよ。この間お人形で遊んでもらったもん」
「この間、おっぱい揉んでも許してくれたぜ!!」
「ねぇねぇ、一緒に寝たら母ちゃんと父ちゃんみたいなこ―――ひぃ?!」
ちょ、二番目!?
それ本当って、三番も少しは考え、うぉおおお、か、母ちゃん?!
さすがにそれは、ほら、ガキ共も怖がってチビリそうだって。
そう、たかだかガキの戯言じゃねぇかよ。
そう怒るな怒るな。
「あいつらしい」
「二号さんは巫女様の事好き?」
「巫女様は渡さねぇからな二号さん!!」
「でも、あたし二号さんならちょっといいかも・・・ぽ」
ちょ~~~っと待った!?
二番その心情オレにも解るぞ。
さすがオレのガキ。
だがな三番?!
そもそも「ぽ」って何だ!?
「ぽ」って?!
その歳で色気付くなんて許さねぇぞ絶対!!
こんなナマっちろい女みたいな顔で力もない男は断じて父ちゃん許さないからな絶対!!
はっ?!
か、母ちゃん【それもいいかもしれな、いやいや、だが、巫女様の事も考えないと】とか考えてる?!
考えんなってんな事!!
【男はやっぱ顔だよ】とか今更!?
「オレは・・・・どうだかな」
「オイ」
思わずイラッとした。
何へなへな苦笑いしてやがんだ!?
何その笑い!!
巫女様が好きじゃねぇってか!?
一緒に家に住んでおきながら!?
「ちょっといいかい?」
母ちゃん。
言ったれ言ったれ!!
この短小野郎に一言ブチかませ!!
オレが許す!!
「二号さん。あたしらはあの方に守られてる事に感謝してる。当然、あたしらはあの方の事が好きさ。でも、それは守られてるからだけじゃない。あたしは此処の出じゃなくて他のとこの出なんだけど、巫女だってピンキリさ。嫌われ者の巫女だっているにはいる。でも、この街じゃ誰もが巫女様を好きだ。敬ってる。ガキ等には良い友達だし、長老連中には孫、同じ年頃の連中には本気で嫁にしたいって思ってる連中もいる。それぐらい良い子だよ。二号さん。アンタが何で悩んでるのかは知らないが、あたしらの巫女様を嫌いだなんて言ってみな。あたしらがただじゃおかない」
「二号さん巫女様の事嫌いなの?」
「そ、それだったらオレがぶっ飛ばすからな。い、一緒に寝てるってこの間言ってたし、そしたら普通け、結婚するもんだろ!!」
「う~~ん。二号さんも捨てがたいけど巫女様も捨てがたい」
「アンタ達!! もうここはいいから外で遊んでおいで!!」
「「「は~~い」」」
「やっと行ったかい。すまないね。ウチの子らが」
何で微妙に甘い顔してるんだ母ちゃん!?
さっきの迫力は何処へ!?
「ま、いいさ。これはこの街の連中の話。アンタがどう思ってるのかは自由だからね」
「助かります」
「なぁに、馬鹿な亭主を一人持つと男って奴が可愛く見えて仕方なくなるのさ。特に若い子はね」
か、母ちゃん。
「どんな理屈も要らない。アンタの想う儘を大事にしな。伝えるも伝えないも鎖すも開くも全てはアンタ次第だ。それは誰の言葉でもなく最後は自分の思うままにしていいたった一つの事だ。どんなお偉い人間にも左右されない自分だけのものだ。悩もうと悩むまいと結果なんて成すようにしか成らない。ま、男としてはもう少しビシっと決めて欲しいけど、アンタは色々訳ありらしいからね。今日のところは見逃してあげるよ。ただ、ね。巫女様も年頃だ。好きでもない奴を傍に置いておける程鈍くはない。それだけは言っておくよ」
「ッ・・・本当に助かります」
何だか話がいつの間にか母ちゃんの人生相談っぽくなってるんだが、オレの立場は何処へ!?
「さて、そろそろ夕方だし、飯の支度でもするかね。アンタ!! ほら、ボサッと突っ立ってないで飯の支度の準備手伝いな!!」
「お、おう。母ちゃん」
「ほら、ガキじゃないんだからやったやった!! それじゃ、これから飯の支度があるからアタシは行くよ。巫女様によろしくって伝えておくれ。今日はそろそろこのボンクラを働かせにゃならんから、貰ってくよ? いいかい?」
「ありがとうございました」
「いい返事だ。巫女様によろしくね」
「はい。またお話を聞かせて下さい」
「ああ、いつでもきな」
ちょ、母ちゃん。
何かオレ要らない子扱いされてない!?
*
情報を聞き出すつもりが、思い切り失敗した夕暮れ。
街の奥。
小さな鐘楼の上にいた。
日没に鳴り渡る鐘の音は幾度か聞いているだけなのに不思議と郷愁を掻き立てる。
古い石造りの鐘楼の内部。
使い古された木製の門を潜り階段を昇ると世界は一変する。
せいぜいがマンションの五階程度。
その程度の高さでしかない鐘楼の最上階でも、低い建物しかない街は絶景となる。
吹き晒しのままの場所から夕日が落ちるのを見るのは嫌いではない。
そこを見つけてから数日が経っているが時折足を運ぶようになっている。
そもそもが散策ついでに理由もなく上ったのだが、此処を見つけた事は異世界での収穫の一つと言えた。
街並みは酷く美しい。
「・・・・・・」
今日どうして失敗したのか。
それは己が誰からも分かる程に悩んでいるように見えたからなのだろう。
情報を聞き出すつもりが心配されてしまうとは情けない。
「ふぅ・・・」
世界を別つ地平を眺める。
元居た日本にこんな地平は存在しなかった。
どこまでも曖昧な世界の果ては決して届かないわけではないのに、行きたいとは思えなかった。
そこまで行けば何かあると思えなかった。
だが、今は違う。
地平が希望や興味の対象として見える。
それはきっと初めて好意を向ける相手を見つけたからなのだろう。
「・・・・・・」
解っている。
今まで一人で孤独を気取っていた愚か者が急に自分を好いてくれる相手を手に入れたのだ。
未知ではあっても恐怖だけであろうはずがない。
そして、彼方に何か在ると、幸せに辿り着きたいと願う程、未来に幻想を抱くのは仕方ない。
日常には恵まれても人間関係に恵まれた事のない人間が好意的な誰かを得れば、期待しない方がおかしいのだから。
きっと、この世界の地平その先には今よりも幸せな明日が待っている。
悪くはない考えだ。
人間の生き方としては素晴らしいと言える。
しかし、臥塔賢知はその生き方を選ばない。
否、選びたくない。
屈折している何と馬鹿な話か。
人は幸せを求め続ける生き物だと誰かが言った。
けれど、幸せを取らない偏屈な愚か者も存在するのだ。
臥塔賢知がこんなに居心地の良い異世界に居られない理由。
それはきっと何よりも下らない強がりで、価値が無い。
「賢者~~~~帰るよ~~~~~~!!」
下から響く声。
「オレが本当に帰るべき場所は・・・・・・」
小さく手を振って鐘楼を下りた。
「けんじゃ~~~~~~~~♪」
どうして下で馬鹿丸出しな笑顔で手を振る少女の顔を見るとこんなにも胸が苦しいのか。
浅はかな自分の頭にツッコミを入れて、帰る事にした。
*
そろそろ深夜だった。
今日も楽しそうだった孫娘の顔を思い浮かべながら寝台に入る。
「息子殿。あの子は今日も元気でやっていたよ。いつものように婿殿と一緒に街に繰り出して嬉しそうに笑っていた・・・何だか家族四人揃ってた頃みたいにね」
横にある台座の上。
蝋燭の火に照らされる小さな家族の肖像画をいつものように撫でた。
「息子殿と同じように惚れるのがアウタスとはこれも血筋かねぇ」
撫でても笑っても返る事ない答に少し寂しさを感じる。
「あの頃がつい昨日の事みたいだよ。寂しく思うなんて歳かねぇ。でも、今は自分が寂しいよりもあの子が一人になる方が気になって毎日安心して眠れやしない。いつ止まってもおかしくないこの体があの子を慰めてやれるだけ持てばいいが、どうなる事やら・・・まだ、あたしゃそっちには行けない。もう少しだけ待ってておくれ。あの子がせめて笑ってゆけるようになるまで」
二人も子を撫でる事ができた。
その喜びは今も忘れない。
だから、まだ死ねない。
たった一人の家族を残して逝けるものかとガタがきた体で意地を張る。
「それにしてもあの子が恋をする様子はまるでアンタに生き写しだ。見ちゃいられない。どれだけ奥手なんだか。いっそ結ばれれば婿殿とも上手くいくかと思ったが、ありゃカタブツだ。そこだけ婿殿はあの女にそっくりだよ。息子殿」
もう見えぬ目で月を映す。
微かに映る朧な光。
その先に影を見る。
塔の如く聳えるあの力。
「安心するがいい。あの子の力はもうこの老体をとっくに追い越しとる。きっと、この力足りず誰も守れなかったオババより沢山の人を守る女になる。それこそ世の男共が放っておかない女に・・・」
笑みが零れる。
「でもねぇ。あたしに似て一途だからずっとあの婿度の事を引きずるかもしれないよ。異世界からの来訪者なんてよく拾ってくる。ホントにどうしてこうあたしの血筋は厄介事に好かれるのか知りたいもんだ」
そっと寝台に横たわる。
傍らに未だ小さな頃、怖い怖いと泣いて潜り込んできた孫娘の感触が朧げに思い浮かぶ。
「見守ってておくれよ。必ずあの子を・・・・・・」
やがて、眠りがやってきた。
*
巫女の力が無ければ滅びるという世界。
竜に襲われる街。
縋り付くように涙を零した子供達。
悲嘆に暮れて夕暮れの空を見上げていた大人達。
壊れた建物、屋根の無い家。
表面上は穏やかに優しく振舞い、内心は荒れ狂う海の如く、子供達の頭を撫でる少女。
少女の怒りは激しく、心底に震えが奔る程、冷たかった。
第二陣が来ると予想された深夜、静かに街の外に立つ少女。
腕を上げた瞬間、せり上がる地面。
普段の音もなくまるで影の如く立ち上がった鋼の巨竜。
遥か遠方に灯る赤いランプの群れ。
高速で迫ってくる鬼火の群れが静かに歯軋りした少女の声で消し飛ぶ
消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消えろ。消え――――――――――――――。
冷たい呟きの連鎖。
全方位に竜が回転しつつ弾けさせた光の筋の先、残り続ける嵐。
静かなる激昂が夜の帳を蹂躙し、破壊の光に沈めていく。
照らし出される世界はやがて朝を迎え、誰もが呆然とした明日を迎える。
ただ一人巫女だけが悔し涙に濡れた顔を俯けていて。
掛けられる言葉は無く。
泣き疲れた赤い目元を拭う者はない。
そんな夢を見た。
*
意識が浮上する。
体が熱い。
蒸し暑いとすら言える熱気。
まだ朝方は肌寒いはずで、本来なら体温の低い自分はもっと背筋が冷えている時間帯。
あやふやな感触を戻そうと腕を動かそうとして、動かせない事に気付く。
まるで金縛りにあっているように不動。
不動ではあるが柔らかな感触。
ジットリと体感温度とは関係なく背中に浮く汗がイヤな感じに滲む。
薄目を開けて目の前にある何かを認識しようとして、何かが近づいてくる気配。
ソレが自分の顔と接触する寸前、満身の力を込めた手を顔の前に持ってきてガッシリと掴んだ。
ギリギリと力を込めた瞬間上がる悲鳴。
「い、痛ッ?! 痛い賢者ッッ!!」
「ユネル。おはよう」
「うん。おは、痛だぁああッッ?!」
手を放す。
未だにぼやける視界の中、小さな顔の五点にクッキリと付く指の跡。
「朝から何か用か」
「え? あ、いや、その、えっと、う~~んと。何ていうか、あれ、あの、うん。そうそう、朝ご飯一緒に作らないかなぁ・・・とか・・・あ・・・・う・・・・・」
次第に小さくなっていく声と反比例して赤くなっていく頬とオロオロしながら言い訳を考えている浅はかな頭と必死に身振り手振りで何とかしようとする体と密着したままの服と少女の服に焚き込められているらしき何か柑橘系の匂いとそれから色々な各種男としての反応が―――。
「・・・・・・」
全て面倒になり、ニッコリと笑う事にした。
「賢者?」
「ユネル」
拳を作り、指の関節をゆっくりと頭の左右に押しつける。
「あ、あああ、あのッ、そのぉおおお、け、賢者ぁあああ!?」
抉るように拳を回し捩じりながら訊く。
「何だ?」
「痛ッ、痛いよ?! ほ、本当にそれ死んじゃうからぁああああッ!!?」
「そうか?」
「痛い痛い痛い痛い痛ッッ!! ごめんな!!? ひぅ!?」
「何も謝る必要は無い」
「痛―――――――――――(カクン)」
「落ちたか」
半ば意識が落ちた少女の体を起して退ける。
今ではすっかり慣れた固い寝台の上。
伸びた少女はそのままにしておく事にした。
*
朝、食事の直前。
オババの部屋にユネルが呼ばれた。
それから数分で急ぎ出かけていく様子を見て、声を掛けて送り出す。
指示を出した本人の部屋へと足を向けた。
「急だな。竜が出たのか?」
簡素で調度品の一つもない部屋には寝台と机と椅子しかない。
その木製の机の上に散らばっている砂や木の棒、石などが直前までオババが何をしていたのか教えてくれる。
「かなりの数。『狂乱』とまでは言わないがそれに近い」
渋い。
いつもの余裕がない顔に状況の拙さが伝わってくる。
「あそこまで急がせるって事は時間の余裕がないって事だ。だが、時間帯は占いで言い当てられるんじゃなかったか?」
「ほぼ毎日、朝と昼と晩に数日後の占いはやっとる。今日の結果がそれじゃよ」
オババが視線を机の上に移した。
どこか乱雑とも見える配置はそれだけに荒々しさが伝わってくる。
「占っておる最中、急激に結果が変化した」
「こういう事はよく?」
「いや、数十年やっとるが同じような事は一度も無かった。何かがおかしい。だが、おかしいとしてもあの子がやる事は変わらん。たぶん、ギリギリで間に合うはずだが・・・さて、どうなる事か」
「勝てないのか?」
「勝てても犠牲が出るかもしれん。あの子にはそれが何より一番辛いだろうさ」
「そういえばアンタは自分で竜をもう出せないのか?」
オババが俯き、額に手をやる。
その顔に浮かぶ汗に自分が訊いた事が何かの核心を突いていると知る。
「ふ、そうしたいのも山々だが、あの子に訊いてないかい? 巫女は竜に自らを捧げて力とする。それは巫女の体力であり精神力であり同時に生きる為に必要不可欠な何か。たぶんは命、そういうものだ。この老体が使えばどうなるか試してみたいとは思わないね」
納得する。
「婿殿はいつもあの孫娘を見とるから解らんだろうが、通常の巫女は竜を一回出せば三日は安静にして静養しなきゃならん。しかも、扱っとる竜の力次第でその日数もかなりの幅がある。本来、あの子の竜のような大物を扱うとなれば、月単位での静養が必要な事もある。言っとる意味が解るな?」
「もしもアンタがその大巫女と呼ばれる程の竜を使えば・・・死ぬって事か」
「死なずとも寿命が縮むのは避けられん。そもそも基となる力が減衰している状態で竜を呼んだ場合、巫女が辿るのは自滅。竜の使役に使う体力が残っとらん老体は即座に耐えられず」
オババが握り拳を上に向かって花開かせる。
「つまり、使えない保険か」
「使えるかどうかも解らん」
「その話で行けば、この世界での『狂乱』を普通の巫女が防ぐのは・・・」
オババが皮肉げに言った。
「このオババが『狂乱』を一人として犠牲を出さずに乗り切ったのは確か五回無かったねぇ」
「『大狂乱』は?」
「言うに及ばず、だよ」
「そうか」
「ああ」
沈黙が下りる中、やる事はもう腹に決まっていた。
「今日の分の食料を街に取りに行ってくる」
部屋の外に歩きだす背中に躊躇いがちな声が掛る。
「帰って来たらあの子を、抱きしめてやってくれるかい」
「断る」
即断する。
何か言われる前に付け足した。
「だが、あの足りない孫娘に帰ってきたら温かい料理ぐらいあるべきだとオレは思う」
「―――男らしいとは言えない選択じゃないかい?」
惑う声に背中を向けたまま言う。
「オレがそこら辺の誑しと同じ、傷ついた初心な娘を慰めるなんてできると思うか? 無縁な事に手を出す気はないな。そもそも犠牲者を誰も出さずに竜を倒して帰ってくる可能性だってある。それにどっちにしろ腹を空かせて帰ってくるのは確実。腹が満ちてれば死ぬ気がある奴だって思い留まる。怒ってる奴も悲しい奴も少しだけ安堵する。人間の真実ってやつが一つあるとすれば、それは腹が減ってる奴はロクな事をしないし考えないって事だ」
「く・・・」
「?」
「く、ふふ、ふははは、あ、ああ、そうかい。そうかもしれないねぇ。ああ、そうだ。確かに人間そんなもんだよ」
ゲラゲラと品の無い笑いに背を向けて部屋を後にしようとして、最後の言葉が掛る。
「婿殿。ホントにアンタは賢者だよ。この大巫女が保障する」
「・・・」
頭を掻いて、結局何を言っても敵わない気がして、部屋を後にした。
*
間に合った。
帰る事ができたのは深夜、まるで奇跡のような一日を思う。
誰も助けられないかもしれない。
そう思ったあたしを叱ったのは賢者の言葉。
『とっとと助けて来い』
たったそれだけの言葉。
到着した時、目前に迫る竜の群れを真直に見た。
助けられたのは幸運。
街の殆どは廃墟となっても、後ろの人達だけは守り通した。
ドーちゃんは少し傾く事になったけれど、それでもやり通した。
たった一匹も通さなかった。
「賢者・・・」
少し痛めた足。
もう月が傾く時間。
遠く、家が見えた。
蝋燭の明かりは見えなくて、そっと門を潜る。
フラフラしながら部屋に戻ろうとして、台所の微かな明かりが見えた。
竈の灯。
そっと部屋を覗く。
「ユネルか? 出来てるぞ。座れ」
「へ? 賢者どうしてここにいるの?」
竈の前に賢者がいた。
もう真夜中すら超えた時間帯なのに、振り返りもせずに其処にいて、お玉で鍋を掻き回していた。
鍋の匂いにお腹が鳴いた。
きゅうう、と。
「ッ?! え、あ、い、今のはちょっと朝から何も食べてないからで、えっと、賢者、そのッ」
「いいから座れユネル」
「う、うん」
竈の火は温かくて、その明かりに浮かぶ賢者の顔は何処か真剣だった。
「今日は、賢者が作ってくれたの?」
「ああ、悪いか?」
「悪くないッ。全然ッ。うんッ」
「なら、ほら」
賢者が皿に鍋の中身をよそってくれる。
薄暗くてよく中身が見えない。
けれど、その温かさと柔らかな匂いが何処か優しくて、思わずテーブルに添えられていたスプーンで口に運んでいた。
「あ・・・」
「どうだ?」
「う・・・うん・・・う・・・ん・・・おいしい・・・よ・・・あ、あれ・・・」
いつの間にか喉がおかしくなって、前も何だか歪んでいて、夢中で食べていた。
「泣いてるのか?」
「ち、違ッ、悲しいわけじゃ・・・なくて・・・えと、ね・・・どうして・・・ご、ごめんね・・・せっかく作ってくれたのに・・・あたし・・・凄く嬉し・・・ううぅぅ・・・ひっく・・・う・・・んく・・・」
「ユネル・・・」
どうしてか、凄く、凄く凄く凄く、胸が温かくて、あたしは泣きながらそのスープを夢中で掬っていた。
「少し塩辛いかもしれないが問題無い。後、皿ごと食べないよう言っておく」
「うんッッ!!」
少し呆れたような、でも何だか嬉しそうな、そんな賢者の顔がとても、嬉しかった。
その日、賢者の寝台に恥ずかしくて潜り込めなかった。
それが何故なのか。
その時、あたしはまだ知らずにいた。
*
不幸に抗う少年少女の物語が見たければ何の事は無い。
少年漫画の一つでも手にとって開いてみればいい。
そこには不幸が溢れている。
そんな不幸に反発し屈折したり、挫折したり、立派などとは言えない成長をする者もいるが、基本的に不幸とは糧であり、立派に成長する者もそれなりにいる。
そんな子供をレジリエントチルドレンと言う。
幼少期という環境が最も影響を及ぼす時期に不幸な状況に会い目覚める力。
人の能力が環境に適応・対抗する、如何なる兵器も能力も超越する偉大な可能性。
可能性が導くのは「不幸という幸運」を手にした者達の波乱万丈な物語。
彼らの前には「高級な普通」はない。
不幸と等価かそれ以上に降りかかる幸運しかない。
主人公が不幸を経験しないで平穏に暮らしていれば世界が滅びる物語が五万とある。
大概のRPG世界なら主人公が旅に出る事も過去の不幸も経験せずにいたら、仲間達と出会わず世界の終わりも目前の死も知らずにいられる事だろう。
しかし、そうはならない。
物語がそれを許しはしない。
暗き過去を糧に立派に成長していかなければならない。
それが物語に定められた【お約束】というものだ。
昔、そんな主人公になりたかった。
どんな不幸にも負けない愛と勇気と正義の主人公。
可愛い恋人と共に世界を救う少年少女の物語。
しかし、主人公になる夢はいつの間にか諦観に取って代わられていた。
人は挫折する。
人は負けてしまう。
現実は必要な出会いなど演出してはくれない。
現実は挫けて負けて立ち上がれなくて誰も手を伸ばしてなどくれないバッドエンド。
自分から変われるなんて稀だろう。
自分が変わっても環境は変わらないなんてザラだろう。
都合の良い展開などない。
お約束の予定調和などない。
不幸を経験すればトラウマでPTSDで鬱、そんな可能性の方が高い。
誰もが主人公になれると信じられた日々はいつか消える。
子供が諦めを知った時、主人公の資格は剥奪されている。
だから、とある少年は考えたのだ。
いつまでも諦めを知らない子供ではいられないと言うならば、主人公の資格が剥奪されていると言うならば、不幸に立ち向かってなどいけない、諦める者にならなければいけないと言うのなら。
いっそ物語に逃げ込んだ馬鹿でいいと。
【さぁ、万雷の拍手を持ってお迎えください】
そこにはにはファンタジーが溢れている。
【さぁ、万雷の拍手を持ってお迎えください】
そこには自分が求めた全てがある。
【今宵、皆様を素晴らしきファンタジーの世界にご招待しましょう】
誰がこんな世界を望んだというのか。
【さぁ、大々円の拍手をご一緒に!!】
あの日、あの時、あの場所で、ショウもドラマもロマンも望んだのは他の誰でも無く。
【お前なんか要らない。お前がいたからあの人と私は一緒になる事ができなかった。お前さえいなければ、私はあの人と、好きな人と、一緒に、いけたのに。どうしてお前はいたの? 私の中にいたの? どうしてあの人の子供じゃなかったの? あんな男の、あんな男の!! 死んで、死ねッ、お前なんか消えて無くなっちゃえばいいのよ。オマエミタイナ、クズ!!!!】
自分だった。
大好きなお話の中の主人公ならそんな時、どうするだろう。
そんな言葉を投げ掛けられたならどうするだろう。
何か言えば変わるのか。
何か答えれば変わるのか。
何も変わらないと、不幸は幸運にならないと、賢しい子供は知っていた。
だから、何も答えず、見上げる事しか出来なかった。
【――――――――――――――――――】
蒼い炎の中で踊る人々。
滑稽な道化のように爆ぜながらカクカクと踊る人々。
確証はなくとも理解していた。
暴発事故でもテロでもなく。
その事件は一人の女が死んだ為に起きたのだと。
踊り出てくる蒼い人々、絶叫、崩れ落ちる館の中に瞳を見て。
踊り狂いながら逝くその人を見て。
ああ、まるで今だけは主人公のようだと、これではまるで不幸を糧にする主人公のようだと、物語に引き込まれていた。
賢しい子供はその日以来ありきたりな三文小説の物語に憑かれ、幻想を信奉するようになった。
【オ・マ・エ・ノ・セ・イ・ダ】
館の中に見た瞳が言っていた。
けれど、過去でしかない瞳を賢しい子供は鼻で笑う。
「死者は語らない。それは誰だろうと同じだ。母上」
決して覆らない理屈を盾にして。
「オレには今がある」
館に背を向けた時、視界の先に開けていたのは草原。
「オレが思い返すその時までは・・・消えろ」
そこに立ち、笑っているのは――――――――。
*
朝っぱらから悪夢と恥ずかしい夢を見たからか。
少し外の空気に当たりたくなった。
朝から降り続く雨。
それに打たれながら野原に一人、空を見上げていた。
雨粒が落ちる様に心が静まっていく。
物語のような世界に浮かされた心がゆっくりと醒めていく。
無論、中二病野郎の謗りは免れないが、それを糾弾する人間がいないのだから別に構わない。
「・・・・・・」
思考に混じるのは純粋な疑問。
この荒唐無稽な世界の事。
本当にこの世界があるのかという疑念。
人の想像力は無限大、荒唐無稽なものすら生み出し、幻覚も錯覚もする。
人の想像力が翼だと言ったの誰だったか。
目を瞑れば見えてくる景色があると言ったのは誰だったか。
現実とは自らが生み出す以外にない、自らの五感による知覚のみで生み出されている、そういうものだ。
だから、全ては脳が見ている幻想、泡沫の夢。
そう考える事も出来る。
例えば、竜がいる世界を夢見ていたのは自分ではなかったか?
例えば、自分に好意を持つ誰かを創造したのは自分ではなかったか?
例えば、走馬灯のような、いつか終わりが来る世界を夢見ているだけではないのか?
疑問は尽きない。
しかし、難しい話で現実をややこしくしているのは自分なのかもしれないとも思う。
事実、世界があり、竜がいて、彼女がいる。
曇り雨が奔る薄暗い世界。
竜が人を消していくという現実。
いつも笑い掛けてくる少女。
これが自らの五感で感じた真実だとも言える。
もしも、その全てがただの幻ならば、本当の事なんて誰に解るわけもない。
「・・・・・・」
「賢者!?」
遠くから走ってくる水音。
「賢者ってば!! そんなところにいると風邪引いちゃうよ?!」
「熱に浮かされたような日常に冷や水が一杯くらい必要、と思った次第だ」
「よ、よく解らないけど、どうしちゃったの!? こんな雨の日に外に出掛けたってオババが言うから吃驚したんだよ!?」
身を起こした。
「歩きながら帰る・・・先に帰った方がいい。風邪引くぞ」
伸びをして歩き出す。
「賢者ってば!! そんなにのんびり歩いてたら風邪に――」
唇をそっと人差し指で閉ざした。
「たまには雨に当たりながら考えたい事だってある」
少しだけ自嘲が笑みに混じったかもしれない。
そっと指が細い指に絡めとられる。
「賢者・・・何考えてるの?」
どう言っていいか困る。
自分の哲学、世界の真実、あるいは目の前の竜の巫女に付いて考えていた・・・なんて言うのは簡単で、しかし、実際はただ自分の立つ位置を再確認しただけ、自分の現実を恥ずかしいオレ哲学で再確認しただけ、それだけの話。
言うには恥ずかしく、語るにはまとまりの無い言葉になってしまうだろう。
だから、
「家まで競争。勝った方が相手の言う事を何でも一つ聞くって事をだ!!」
駆け出した。
「え? え、えええええええええええええ!?」
置いてけぼりを食らった少女の声に思わず大声で笑った。
いつの間にか雲間から射す光が帰る場所へと道を描き出していた。
その日の夜、背中合わせで上機嫌な巫女がいた事は間違いない現実でしかなかった。
感想は随時受け付けています。連載中のSF【GIOGAME】もよろしくお願いします。