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第三章 その華に祝福を

第三章 その華に祝福を


フォレイオムに滞在して一週間。

界統遺冠との調整を行いながら、その力の凄まじいまでの影響力を感じた。

近郊に広大な草原地帯を抱えるフォレイオムは見渡す限り新緑の絨毯じゅうたんに覆われている。

そんな草花を支えるのは広大な一つの川だった。

巨大な竜達がそんな川周辺で饗宴を繰り広げていた。

地を繰る竜達。

水に奔る竜達。

空で舞う竜達。

強大な竜達の一進一退の攻防。

虎の名を冠する戦車が縦横無尽に地を削り、水上を時代遅れ甚だしい【戦艦バトルシップ】や神々の盾と称する船が往き、米国の主力戦闘機やら第二次世界大戦に投入された爆撃機が唸り声を上げる。

正にこれから戦争でも始めるのか、あるいは何処かで兵器の見本市でも開くのかという在り様。

「おいしいね。賢者♪」

呑気に昼食を取りながらユネルと共に訓練の様子を見ていた。

ノールは華々しい竜達に目をキラキラさせながら、あちらこちらと走り回って鑑賞している。

残っているディリカ・ハルメル、臥塔璃歌だけがのんびりとそんな竜達を動じずに眺めていた。

「賢者様。頬に付いていますよ?」

そっと、頬に付いていたらしきソースを指で拭われ、舐められた。

「・・・・・・」

思考がフリーズする。

「賢者? どうして賢者はいつもディリカさんに触られると固まっちゃうの?」

「何でもお母さんに似ているとかノールが」

サラリとディリカ・ハルメルから言われて気が遠くなった。

(空気どころか人の心情も読めないのか!?)

口の軽過ぎるガキをどうやって地獄に落とそうか思案する。

「あ、終わったみたい」

「そうみたい」

「戦い慣れているな」

ユネル達の声に上を見上げると戦闘機やら複葉機の群れが殆ど空の彼方へと消えていく。

それに比例するように上空から無数の人影が落ちてくる。

圧縮空気の爆風が至る場所から広がって空の竜の巫女達が一斉に地面へと降り立った。

それと同時に地の竜や水の竜が川底や地中へと消えていく。

やはり、ゾロゾロとそれぞれ巫女達が周囲に集まってくる。

巫女達の中から監督役のラクォルが出てきて、食べ掛けのパンを持ったこちらを非難がましい目付きで見た。

「で、これだけの巫女を集めさせて訓練など施している貴様が呑気に昼食とはどういう事でありましょうか?」

ディリカが立ち上がると帰ってきた巫女達にパンや肉、野菜の塩漬けやら水の入った革袋やらを渡していく。

「一通り見た感想が知りたいか? それとも昼食が先か? どっちがいい?」

「無論、感想。いえ、昼食を」

巫女達からの無言の圧力でラクォルが折れた。

昼食を思い思いに食べ始める巫女達。

ラクォルだけが何故か横に来て親の敵のようにパンを噛み千切り始める。

「まず何よりも地力が足りない」

「地力?」

「わざわざこういう場所に【使えない連中】を呼び付けた理由が分かるか?」

「な、口を慎―――」

もう遅い。

年齢も竜の種類もバラバラな巫女達が険しい視線でこちらをガン見していた。

「簡単に言うとだ。これから一人で街を守ってるような巫女には滅茶苦茶な労力が掛る。だから、何も出来ずに消えていくような小数点をせめて一桁の位に乗せる事が俺の目標なわけだ」

「だから、口を!!?」

驚いている間に色々と畳み掛けてみる。

「ちなみに巫女を此処に招く費用は全部商会持ちだ。この昼食の料金も商会持ち。そして、こんな大規模演習やってて他のところから苦情が来ないのも商会からの圧力。正におんぶに抱っこ状態なわけだが、最終的にはそれなりの謝礼を払う事で話が付いてる」

「は!? いや、いつの間にそんな話を!? そもそも謝礼などどうやって払うつもりかと?!」

「この全てが終わったら巫女の何人かにフォレイオム商隊の護衛をやらせる。簡単な話だろう?」

「こちらになんの断りもなくそんな事を貴様は勝手に約束して!!?」

睨んでくるラクォルに微笑み返す。

「何か問題でもあるか?」

「そ、それは!?」

反論なんて出来ようはずがない。

一応、界統遺冠からそれなりの権限は貰っている。

それにオブラートに包まなかったとはいえ、巫女達の事は本当の話なのだ。

それをよく知っているのはたぶん組織の使い走りであるラクォル自身だろう。

「く・・・使えないという言葉を取り消す気は?」

「その方法はこれから与えてやる。昼食が終わったら号令を掛けろ」

何かと射殺されそうな視線がバシバシと全身に感じられた。



三人の巫女達と共に他の場所に用を足しに行く背中を見つめながら、どうしたものかと頭痛がした。

「ラクォル様。どうしてあのような幼子にあのような事を言われねばならないのか教えて頂きたい」

ゾロゾロと巫女達に取り囲まれる。

その表情は一様に険しい。

面と向かって「使えない奴」と発言されれば誰だろうと気分を害するのは当たり前。

それを理解していながら意に介さない発言がどういう意図のものか測りかねて、何か企んでいるのだろうという事しか思い浮かばなかった。

「済まない」

巫女達の誰もが不満を持たないはずは無かった。

集められた巫女達はそれぞれの各地域の守護を他の巫女やバンドに委ねた状態でフォレイオムに集結させられて、その巫女自身の意思はほぼ無視されている。

そんな状態で訳も分からず訓練させられ、無能呼ばわりされれば怒らない方がどうかしている。

ただ、どの巫女も技量や竜の力に乏しいという一点だけは覆せない事実に違いなく。

「・・・・・・今は耐えて欲しい」

頭を垂れるしかなかった。

巫女達が何か言いたそうにしながらも、遠ざかって食事を始める。

「(まったく)」

黒い全身を覆う外套を纏った小さな背中を遠くに見つめた。

それは世界の命運を本当に背負っているのかと疑う程に小さい。

(あの夜、商会の煮ても焼いても食えない連中が変わった。それは間違いなく、あの背中を見たからこそなのでありましょうか?)

本当はあれほど大きな変化があるとは思っていなかった。

街長へと会いに行くはずの予定を少しずらして困らせてやろうかという小さな悪戯心から夜会への参加を決めたのだから。

あの大胆な衣装は馴染みの店で【誰も着てくれない服がある】という愚痴を思い出した故のもの。

いつも皮肉と嗤いに満ちている顔が慌てる姿を見てみたいと思っただけの話だった。

それなのに、何がどうすれば、あんな事になるのか。

外套を外した者の姿に誰もが息を呑んだ。

恥ずかしがる様子もなく。

慌てた様子もなく。

淡々と少年を導き、誰も知らぬ舞踊を行う姿。

背中に芯でも入っているかのような佇まい。

少年は何度か少女の足を踏んでいた。

しかし、決して表情を崩さぬ少女は優雅に回った。

長い沈黙だったと思う。

何かが変わってしまった夜だと思う。

あの誘っているとしか思えない衣装が好色の視線に曝されなかった事は衝撃だった。

感嘆の溜息すら出ない観衆の一部と化して、釘付けとなった瞳で、その背中をずっと見ていた。

街長と孫に挨拶する姿にどうしてか凛とした若者を想像したのは自分だけではないと思う。

商人達を相手に如何なる力も持たず、ただ言葉のみで敬意を払われた背中を凄いと思ったのは自分だけではない。

常の姿とは別人と言える姿が何故かとても自然に見えた。

所作の一つ一つ。

礼の形。

瞳に宿る力。

どれ一つとして糾うべきものが見当たらなかった。

「ガトウ・ケンジ」

午後の訓練の続きが如何なる場となるのか。

予想が付くはずもなかった。



昼食後、訓練を再開した。

狂乱が起こったならば真っ先に死ぬだろう巫女達の視線が無数に体を貫く。

不満を内心押し込めている顔にこれで十分かと脳裏で工程表にチェックを入れて腹から声を出す。

「これから」

たった一言に剣呑な気配が漂う場、そういうものこそ、この場に相応しかった。

「三体の竜と戦ってもらう」

ザワザワと揺れる集団に深く浸透するよう言葉を続ける。

「巫女を初めて数か月の奴、今まで殆ど竜との戦闘経験が無かった奴、そんな巫女が操る竜が三体だ」

後ろに控えた三人の誰かに尻を抓られる。

「これに勝てない奴が巫女だと名乗るのなら、そんな奴は此処で巫女は廃業しろ。もしも、勝てないと思ったならさっさと帰ってもらって構わない。オレが今必要としているのは巫女モドキではなく本物の巫女だ」

一気にその場の空気が激化した。

全ての敵愾心はたった一人に向けられている。

憎悪と憤りは人が絶望を知る前段階。

全てを始めるには絶好の機会。

「お前達が万に一つも誰か一人にでも勝てたなら、勝てたと思うなら、オレに何をしようと構わない。謝れと言われれば百万言を費やして謝ろう。靴を舐めろと言われれば喜んで舐めよう。オレを殴りたいなら好きなだけ殴って構わない。やる気がある奴はあっちの川向うで半刻待機し、その後こちら側へと移動を開始しろ。竜は此処で待ち構えてる。戦いの合図はオレ達側からの攻撃で始める。凌げた奴だけこっちに来い」

ラクォルがもう何を言うのも諦めた気配で巫女達に移動を促した。

巫女達の苛烈な視線が外れた。

大勢の背中が川向こうへと消えていく。

誰一人としてその場から帰る者はいなかった。

「賢者。どうして?」

「ガトウ。あんな約束してどうするつもり?」

「どうしてああまで人を怒らせるのが上手いんだ。貴様は?」

三者三様に呆れ顔の少女達に何を言うかなんて決まっている。

「あれだけ怒らせれば手加減はしてこない。死人を出さない為にもやる気は上げておきたい。それにオレはお前達が負けるなんて考えてない。これから半分以上の流れは予測済みだ。そして、其処からあいつらが生き残れる可能性を上げられるかどうか決まる」

フェルフラムが溜息を吐いた。

「そもそも、だ。この遠征は貴様との仲を認めてもらう為に狂乱を静めに行くという話ではなかったか?」

「狂乱を静めに行く前に色々と必要な事がある」

「歴戦の巫女達をあそこまで怒らせるのが必要な事か?」

「歴戦? そういうのはお前達みたいな奴の事だ。自分の出来る範囲で自分より弱い【的】と戦ってきた巫女なんてのは歴戦とは言わない。自分ではどうにも出来ない状況、自分では勝てないと思う相手、そんなものと戦ってきたお前達にこそ、その形容は相応しい」

三人の顔が一瞬で紅くなる。

「これからの対応は予定通りだ。オレの指揮下でユネルとテオは行動を開始。フェルフラム。お前は敵の撹乱と陽動を基本にこちらの援護を。全員解っていると思うが攻撃時は威力を最低にするよう言っておく」

そうして、演習が始まる。

何もかも此処からだった。

出来る限りの事をして、出来る限りの力を揃える。

そんな単純にして至難の綱渡。

「行くぞ」

その日の戦績は全戦全勝。

次の日、それでも戦おうと誰一人欠けず向かってきたのは嬉しい誤算だった。



「・・・・・・」

巫女全員の夕食が終わって宿に帰ってから、何をするにも億劫で屋根の上に座っていた。

大きな街の灯が夜を照らす光景に少しだけ見入る。

「・・・・・・」

小さな村の巫女として、師から後を継いだのは最近の話。

それなのにどうしてか。

自分の村とは関係ない大きな街の屋根の上にいる。

「・・・・・・」

他にも自分と同じような人が大勢いた。

聞けば、自分と同じように【界統遺冠】からの召喚状を送られた巫女ばかりだった。

凄く年上の人がいた。

年齢の近い人もいた。

けれど、誰もが暗い顔をしている。

本当なら大きな街に出るのは喜ぶべき事だった。

ずっと村を守っていく巫女はその地を離れられない。

他の巫女が来るか、自分の弟子を後継者にするか、どちらにしろ知らない土地に行くような事は出来ない。

だから、最初はとても幸運な出来事だと喜べていた。

そのはずだった。

(あの子さえいなかったなら)

フォレイオムに付いて出会った一人の子。

黒い髪。

黒い瞳。

黒い衣装。

そんな女の子。

自分よりも年下の女の子の下で訓練と称して馬鹿にされた。

街に付いた巫女全員が界統遺冠から通達された義務はその子の下でその子がいいと言うまで訓練を続けるようにという・・・ふざけたものだった。

自分の村を別の巫女やバンドが守ってくれる。

それは安心していいと思える。

でも、どうして呼び出されて訓練なんてものをしなければならないのか。

その子は言った。

使えない連中だと。

見たところ巫女でもない自分より年下の子からそんな事を言われるとは思ってもいなかった。

凄く馬鹿にした顔のその子が言う通り訓練した。

もしも、自分の用意した竜に勝ったなら幾らでも自分を好きにしていい。

そんな言葉に踊らされて、戦った。

結果は思い出したくもなかった。

あの不遜で傲慢で尊大で巫女を塵みたいに見る瞳が倒れた自分や他の人達を見下ろしていた。

その子は未熟な巫女しかいないと言っていたが、まんまとそんな嘘に騙された。

歳こそ若い子達だったけれども、その力に敵わなかった。

強大な竜を持ち、その力を全て使い切るような暴威の前に何も出来なかった。

それでいて、その巫女達から手加減されている事は倒された誰もが理解したはずだ。

誰も死んでいなかった。

あんなにも強大な竜達を前にして攻撃を喰らったはずの誰もが生きていた。

(あんなの勝てるわけない)

悔しかった。

悔しくて、悔しくて、眠れなかった。

黒い女の子は言った。

もしも逃げ帰るのなら好きにしたらいいと。

自分が求めているのは巫女であって、巫女モドキではないからと。

(逃げられない。逃げるわけにはいかない)

師は最後まで竜と戦って死んだ。

“貴女もう立派な巫女になったわね”なんて笑いながら死んだ。

“もう少し生き残ったら大巫女になれるかもしれなかったのに”なんて笑いながら死んだ。

村の全てをこの肩に乗せて死んだのだ。

(わたしは託された)

逃げるわけにはいかなかった。

巫女モドキなんて言葉を吐かれたからには逃げるわけにいかなかった。

もしも、此処で諦めて帰ったなら、巫女どころか師すら否定されたも同じ。

巫女モドキなんて言わせない。

言わせてなんてやらない。

たった一人で強大な竜に立ち向かっていった師だけが自分を認めてくれた。

モドキなんて言葉を受け入れてしまったら、師は何の為に命を掛けて自分を救ってくれたのか分からなくなる。

諦めるわけにはいかない。

逃げるわけにはいかない。

自分の後ろにある何もかもが背中を押してくれていた。

どんな強大な竜にも立ち向かうだけの気持ちを与えてくれていた。

(必ず、あの子に勝ってみせる)

「こんなところにいると風邪を召します」

屋根の上に続く物干し台に出てきたのは医術師様だった。

「あ、もう寝ますので」

「いえ、責めるつもりは。何か物想いに耽っていらっしゃるようなので少し気になって。もし良ければお話を聞かせてくれませんか? 少しは心が晴れるかもしれません」

「あ、いえ。少し今日の訓練の事を」

「訓練の?」

「はい。傷一つ相手の竜に負わせられなくて・・・」

ポツリと愚痴を零して、医術師様相手に何をしているのだろうと落ち込む。

何とか顔を取り繕って寝ようと立ち上がろうとすると小さな革袋を渡された。

温かな事から温めた飲み物なのだと分かった。

上げ掛けた腰を下ろす。

「貴女は何処のお生まれですか?」

「生まれ、ですか? 此処から程近い山奥の小さな村です」

「わたくしはアウタスなので生まれという生まれは無いのですが、南の方の熱い地域で目覚めました。それ以来旅をしてばかりの根無し草ですけど」

「そうなんですか? 少し羨ましいです。巫女はその土地を殆ど離れられませんから」

互いに顔は見なかった。

「旅をする前、目覚めたわたくしを拾ってくれたのが夫でした。わたくしは医術に関する技術が多少あったのですが、自分一人では生活出来ないような在り様で。夫がいなければ死んでいたかもしれません」

「御苦労されたんですか?」

「いえ、本当に苦労したのはわたくしの夫だったでしょう。わたくしはそもそもアウタスとして一人で現れたわけではなかったので」

「一人では、ない?」

「息子がお腹にいて。アウタスが子供を最初から身籠っているなんて聞いた事がないと夫が驚いていたのを今も覚えてます」

「え? お子さんという事はあの息子さんですか?」

「はい。ノールはその時の子です」

何と言っていいか迷って言葉にならなかった。

「身重で殆ど何もやれないわたくしに夫はとても良くしてくれました。今でもその時の事は記憶に焼き付いています」

「旦那さんお優しい方ですね」

「いえ、優しい事は優しかったのですが、同時に厳しい人で・・・・・」

見ず知らずのアウタス、しかも子供を身籠っている女性を救うような人には似合わない形容。

少し驚いて耳を傾ける。

「医術師だった夫はわたくしに自分の知る限りの知識を学ばせました。同時に子供の育て方を沢山の患者達から聞いてきて色々と覚えさせて、更には身の回りの必要最低限の事は自分でやるようにと」

医術師様の目が優しく細められる。

「その時はそれがとても辛かった。身籠っている子が誰の子かも分からないのに・・・その子とこれからどうなっていくのか不安で一杯で。夫に辺り散らして、泣き喚いて・・・」

思わず自分の持っている革袋から中身を呷った。

中身は温かいスープで胃に優しく染みる。

「でも、今は感謝しています。あの人がそういてくれていなかったら、わたくしはきっとノールと一緒に死んでいたでしょう。生活する術も無く。一人では子を育てられず。そもそもこんな顔の女が普通に誰かと結ばれる事も無かった」

医術師様が己の火傷の痕を撫でる。

「ノールが生まれてすぐあの人は竜の狂乱の最中へアウタスの患者達を助けようと走り帰らぬ人になりました。それでも、わたくしはあの人から貰ったものを生かして生きてこれた。あの厳しさがあったからこそ、わたくしはこんな自分でも好きになれたんです」

とても重い話をしているはずの医術師様の顔は晴々としていた。

細く顔を奔る火傷の痕すら笑顔を飾るだけの模様となっていた。

「・・・・・・」

少し恥ずかしそうに「おやすみなさい」と言われて「おやすみなさい」と返す。

そのまま物干し台の階段に消えていく背中はとても大きく見えた。

「皆さんはどう思われますか?」

医術師様が気付かない内に周囲に集まってきていた誰もに訊く。

屋根の上、『水閉』で姿を消していた人や『避空』で浮かびながら聞いていた誰もが無言だった。

そのまま空を見上げる。

ただの世間話をしていただけだ。

けれど、医術師様は何を伝えたくてそんな話をしたのか理解は出来なかった。

「・・・・・・」

見上げた星は故郷の村より鈍く。

でも、とても綺麗に見えた。



フォレイオムでの訓練を開始して数日、成果は着々と上がっていた。

少しずつ向上していく巫女達の力はまったくもって予想通り【これからの戦いでは役に立たない】ように見えた。

そんな訓練を続けさせながら、商人や街長との会合を重ね、予定通り工程を消化。

何とか事態は進捗していた

「これが現状です。この速度で行けば、近い内にどうなるかは各自のご想像にお任せしても十分でしょう」

フォレイオムの中心に位置する役所一室。

男達に配り終えた資料に連なる事態の悪さは全員を凍り付かせている。

「どうなるかは予測出来ても実際にどうなるかは解らない。だから、此処にある数字はあくまで概算です。必要なのは機動力と輸送力。人、物、金、あらゆるモノを動かす力です。時間が有限である以上、準備には限りがある。だからこそ、貴方達の力を借りたい」

会合に集まった商人と有力者達の反応は全て予想通り。

誰もが天を仰ぎそうに見える。

「何をすればいいのでしょうか。賢者様」

「フォレイオムで主に用意して欲しいのは巫女です」

「―――――どういう事でしょうか?」

「巫女が圧倒的に足りない。そして、強い巫女やバンドの消耗率を考えた場合、どう見ても戦いは近い内に限界を迎える。ならば、やる事は一つ。戦力の増強と次世代の巫女達の育成です」

「つまり、インナスの子女を?」

「いえ、それだけでは結局消耗戦で負けるでしょう。事態の打開に必要なのは今までの巫女に頼り切った戦い方や生活の仕方を根本的に変える事です」

「具体的にはどうなさるおつもりか?」

「小さな街の破棄と統合。街の城砦化。自警団に一般人を組み込み街の防衛を行う新たな戦術の開発。竜の分析をバルトメイラ中で行う研究機関の設立。竜を緊密に監視する情報網の構築。巫女の増強とそれを支える教育組織の設置。他にもまだありますが、今はこんなところでしょうか」

ざわつく権力者層へとラクォルが資料を更に配布していく。

「これらの仕組みを誰でも簡単に出来るよう手本となる資料を作っている最中です。全ての情報を数冊の本にまとめて各街へと配布し、自己防衛能力を高めるよう促す。それが最優先の課題です」

権力者達の反応は鈍かった。

提案に対して想像が未だに追いつかない人間がいるのは予測の範疇で気を落とす程の事でもない。

商人達の中から恰幅のいい男が挙手する。

「どうぞ」

「一体、これをどう信じてもらうのか。それが問題では? 我々がこれらの案を全て真摯に受け止められるのは一重に『界統遺冠』の情報と貴方がいるからだ。だが、大法院や高等議会の上院はこれに何と言うか」

言いたい事は理解出来た。

バルトメイラの法を司る大法院。

街長達を中心としてバルトメイラの政治を取り仕切る高等議会上院という意思決定機関。

どちらもバルトメイラにあってほぼ内閣のような立ち位置にある街長達の組織だ。

そんな権力者達がこんな荒唐無稽な破滅とその助かる方法に喰いつく要素が無い。

あるとしても、こんな金と人間を掛け棄てるだけになるかもしれない博打はしたがらない。

知らされたなら元々の界統遺冠の案に乗る可能性の方が大きいかもしれない。

世界の破滅なんて絵空事だと思う人間はいる。

ならば、どうやって信じさせるというのか。

「危機感の無い人間というものを変える方法は一つしかありません。現実を教えてやればいい」

「現実を?」

解らないという顔をした他の会合参加者達ににこやかに告げる。

「そう、ただの現実を」

それを教えるのが何よりも難しいという内心の言葉は呑みこんだ。

「界統遺冠に各街の権力者達に対して召集を掛けさせました。商会の方には最初の仕事として彼らを迅速に此処へ運んで頂きたい。全てはそれからです」



会合参加者達が帰っていった後、数分もせず界統遺冠の巫女達がその場に集まって来ていた。

普通の巫女達とは雰囲気が違う界統遺冠所属の巫女達の年齢は総じて二十代後半から三十代前半が大半を占めている。

巫女の生存率が年齢が上がる毎に下がっていくバルトメイラにあって、その年代が一番多いというのは中堅の巫女として成熟期を迎えた者が組織の中心的な年齢層である事を教えてくれる。

巫女達を統率する精神的主柱がバルトメイラで三人のみ選ばれる奉審官アリラトとすれば、界統遺冠の巫女達はそれを支える支柱だった。

「大体集まったか?」

床几に腰掛けたラクォルが先頭の列から胡散臭いモノを見るような視線を飛ばしてくる。

「随分、先程の会合とは人格が違うかと」

「時と場所が違うと人格が変わるんだ」

「それはまったく難儀な事でありましょうや。ならば、きっと戦場に立つ時はさぞや勇猛果敢になるのでは?」

「実は戦場だと臆病風に吹かれて震える男に戻る」

「では、どうぞ大賢者様」

応酬に疲れた風を装ってラクォルが詰るのを止めた。

巫女達はもう全員集まっていた。

「巫女達の訓練の進捗状況は?」

聞けば、今まで訓練を観察していたらしき巫女が一人立ち上がり報告を始める。

「今日は二刻半持ち堪えました」

「この間は一刻半だったから進歩は見られるな。座っていい」

続いて他の報告も次々に上げさせる。

「バルトメイラ各地でのバンドによる新しい巫女の獲得は思うように進んでいません。狂乱への対応に忙しく、新しい巫女に訓練を施す余裕が無いと」

「各街の街長達への召集の号令は滞り無く終わりました。約七割の街長達が狂乱の頻発に危機感を覚えてか、この召集に応じるようです」

「フォレイオムの全石工と大工の組合からは合意を取り付けました。今後、全面的な支援を期待してもよいかと」

「賢者様が仰られた街に通達を出したところ、予想通りに幾人か名乗りを上げる方が出ました。フォレイオムへ最優先に運ぶ手筈は整っています。数日中にはこちらに付くものかと」

「各地から吟遊詩人達や絵画の才能有りと思われる者を招集せよとの事でしたが、現在までに三百人程がフォレイオムへと入りました。予定通り作業に従事して頂いていますが、試作したものは賢者様方の宿へ一両日中に運ばせます」

数十にも及ぶ報告を受けて素直にギリギリかという感想を持つ。

予定は未定という言葉を思い出す。

「よく解った。それで最後に占術結果を聞いておきたい。要請していた占術の結果は?」

担当の巫女が暗い顔で紙を持ってくると席へと戻っていく。

数枚の紙を捲って状況を理解した。

「明後日までに訓練してる巫女達を連れてフォレイオムを立つ。街長の集合までには戻ってくる計算で約十日間だ。戻ってくるまでに各担当は工程を進めておくように。それと大型の空の竜を持つ人間を二人召集して欲しい。少なくとも数百人は軽く乗せられる奴を頼む。以上、解散」

巫女達の視線には一切口を挟む色が無かった。

そのまま各自の仕事へと戻っていく巫女達を見送りながら、一人残ったラクォルが代表するように問い掛けてくる。

「訓練している巫女達の技量を鑑みての決断だと思ってよいのでありましょうか?」

「死なない奴は死なないし、死ぬ奴は死ぬ。だが、それをオレはただ見ているつもりはないし、準備を怠るつもりもない。それで納得しないなら、誰一人お前が死なせるな」

ラクォルの顔が歪んだ。

「何と身勝手な。あの者達は訳も分からず連れてこられて罵りを受け訓練を受けている。あの奉審官アリラトの孫娘や東天の系譜に連なる者、フェノグラシアから輩出された者と戦っている。それがどんなに酷な事か解らないわけではないでありましょうや」

当然の批難。

「どうしてオレがああいう連中を選んだか解るか?」

「解るわけが――」

「簡単な話。ああいう巫女を遊ばせておく余裕がない。それがどんなに無能だろうと、どんなに出来ない奴だろうとな。だから、そんな巫女をどうしたら運用出来るか試験的な意味合いであいつらを訓練してる」

「遊び? 試験? それは本気で!?」

怒るのは当然。

怒る理由は正しい。

だが、それ故に感情がラクォルの言葉に入り込んでいた。

「いいか? どんな巫女にも言える事だが、竜を五匹倒して死なれるより竜を五匹倒す弟子を二人育てさせる方が使い道としては有益だ。オレが遊ぶと表現したのは命の価値についてだ。冷徹にあいつらの命を数字で見た時、その命の使い道の甘さを引けば、益が出るとオレは踏んだ」

「益? 益だと!? そんなものがあるものか?!」

「あると言っておく。オレはあいつらみたいな巫女の命をあまり使い潰さず、この状況を打破する策をこれしか思いつかなかった。竜と戦って誰かを守って死ねれば満足か? それこそが巫女の道だとでも? オレはそんな精神論が大嫌いだ」

「巫女とは――」

「竜と戦い背を見せて死ぬ者だとでも?」

ラクォルが言葉を取られて拳を握った。

その白くなった拳に込められた心情が如何程のものかと想像して感情を切り捨てる。

「あいつらは弱い。弱過ぎる。きっと竜の狂乱の中では使い道なんて無い。せいぜいが自分の街の連中を守る為に自分の竜を盾にするのが精一杯だろう。どんなに力を磨こうが、どんなに持ち堪えられるようになろうが、現実は変わらない。出来ない事は出来ない。出来るようになるには時間が無い。だから、オレはあいつらを有効に殺さず使う方法を考えた。あの程度の巫女でもただ死なれるよりはマシな使い道がある」

ラクォルがあらゆる感情の波を瞳の色に落とし込んで、必至に歯を食い縛っていた。

きっと目の前の男を殴るか張るか撃つかする自分を押さえ付けていた。

「オレはオレの目的の為に巫女を利用する。オレがお前達を利用する時言えるのは命を無暗には投げ出させないって事だ。それもあくまで感情を挟まずにという注釈が付く。もし千人の人間を守る為に二十人の巫女の命が必要になった場合、オレは躊躇なく死ねと命じる。だが、百人の人間を守る為に十人の巫女の命が必要になったなら、オレは十人の命を取る。現実にはもっと数字は細かくなるだろうが、オレは計算して命の配分をする。それに従わない奴がいれば、オレには成す術もない。オレはオレの出来る限りの事をして死ぬ。それがオレ自身のせいならば、オレは死を受け入れるが、目的を終えるだけの力がその場でオレにあるならば、何を犠牲にしてもそれを遂げるだろう」

「―――こんな大馬鹿者に我々の未来を切り開く任が託されていようとは・・・あの初めて会った日、わたくしは命を賭しても貴様を殺しておくべきだったのかもしれない」

「その答えは間違ってる。オレは巫女の未来を切り開いたりしない。未来を切り開くのはお前達自身だ」

外套の裏側に下がっている拳銃を外側から撫でてラクォルが視線を逸らした。

「貴様のような男がどうしてあのような立派な巫女達から相手にされているのか。バルトメイラに不思議があるとすれば最大の謎はそれでありましょうや」

溜息だった。

本当に深い溜息だった。

苦さと悔しさと己の無力さに吐かれた溜息だった。

「オレがあいつらにユネル達を紹介した時の事覚えてるか?」

「あのような立派な巫女に何という暴言を吐く奴かと思ったのは今でも」

「あれは全部本当の事だ。テオとフェルフラムはそれぞれ巫女として出発して間もない。テオはオレが出会った時、街の連中から半人前の巫女として追放され掛って死のうとしてた。フェルフラムはあのフェノグラシアにいながら一度も戦いの場に出して貰えなくて自分を落ちこぼれだと思ってた」

「何を馬鹿な事を。貴様こそが巫女を落ちこぼれさせる害毒そのものでありましょう」

七面鳥の癖に相手の痛いところを突いてくる。

「オレはただ好きになった奴がせめて自分らしく生きられるような今が欲しいと思った。でも、竜がいない世界なんてオレには作れない。誰も傷付かない世界や誰も死なない世界なんて出来るわけもない。だから、オレは落とし所を探した。あいつらが巫女として生き残れる世界があればいいと思った。あいつらが笑って暮らせる世界であればいいと願った。その為の方法をオレはオレが知る限りの知識で形作る事にした。このバルトメイラの人間がどうなろうとオレは本当のところどうでもいい。誰が死のうが生きようが、世界の危機すら、オレにとっては本質的な問題じゃない。問題なのはあいつらが死ぬ事だ。笑えなくなる事だ。人が生きる為には他人が必要だ。人が笑う為には相手が必要だ。だから、オレはそういうものを残す為、【此処】にいる」

近頃、そういう心のたがが緩い気がしてまともにラクォルを見られなくなる。

「悪いが、オレはこういう人間だ」

そのまま訓練の様子を見に行こうと背を向ける。

視線だけで言葉が飛んでこなかったのは僥倖だった。

何か喋れば、それ以上に失言しそうだった。



「・・・・・・」

反則だった。

反則過ぎた。

去っていく背中に罵倒の一つも掛けられなかった。

ガトウケンジは歪んでいる。

心の何処かが壊れている。

世界の危機も誰かの生死も本質では無いと言い切り、想う相手に笑って欲しいから誰かを救うのだと言った。

その他人も世界も知った事ではないと言う顔には真摯さだけが浮かんでいた。

巫女は世界を救っている。

けれど、特定の誰かを救っているわけではない。

なのに、ガトウケンジは言う。

自分の大切な人の為に誰かを救うのだと。

人は一人では生きられないから。

人は一人では笑えないから。

【人々】ではなく。

顔を知らない【誰か】でもなく。

想い続ける人の為に【他人】を救うと豪語する。

(冷徹で、鋭利で、なのに温かい)

大切な人の為ならばガトウケンジはきっと言葉通り何だろうと見捨てるし使い潰すのだろう。

それなのに、そうと知っているのに、責める言葉が口の中に消えるしかない。

どうしてだろうと考えて、言葉に清々しいまでの善意しか無いからだと理解する。

言葉を偽り、人を愚弄し、民衆を操る者である癖に、その本心には悪意の欠片も見えなかった。

考えれば解る。

大切な人が巫女で、いつ死ぬかも分からないなら、巫女を止めさせればいい。

騙し、操り、嘘を付いて誤魔化せばいい。

出来るはずだ。

出来ないわけがない。

誰かを助ける為に大切な人を危険な任に駆り出す事を躊躇わないなんて矛盾している。

世界を救う必要なんて無い。

その大切な人だけを救う方法を考えればいい。

毎日のように訓練をさせている巫女達すら、ただ使い潰していけばいい。

だというのに、どうしてわざわざ憎まれてまで力を付けさせようとするのか。

聞いたならば【その方が効率的だから】という言葉が返ってくるのかもしれない。

でも、本当に効率的なのは全てを使い潰す駒として割り切る事だ。

結果さえ出せるならば、どんな方法でも【世界が救われる】ならば、こちらは納得するしかないのだから。

(冷たいのに温かいとは我ながら矛盾しているでありましょうか?)

共に眠った時の体の冷たさを今も覚えている。

ひんやりとした体の感触は人を不安にさせて、もっと抱きしめてやりたいと思わせた。

そうして、朝を迎えた時、ふと体に触れる仄かな熱に安堵した。

あんなにも冷たかったはずなのに今は温かい。

その落差を感じながらずっと抱きしめていたいと思った。

冷たい癖に温かく、怒りや不条理を感じながらも、信じるには値する。

(何と不思議な奴でありましょうや)

傾き始めた陽を見つめながら、明日を思う。

その者が歩んだ道の跡には一体何が残るのだろうかと。



訓練の合間に街で買い出しをしている時、お姉様を見つけた。

まるで一輪の花を思わせる姿。

歩くだけで街往く人達が振り返っていた。

笑みを浮かべているわけではない。

優しい表情をしているわけでもない。

静かな湖面。

凪いだ海。

漆黒に染められた空を思わせる面持ち。

あの日、夜会で踊っていた時のような、背筋が震えるような、一部の隙もない姿。

見とれたまま、ずっと見ていたいと思った姿があった。

不意にお姉様が路端で立ち止まった。

粗末な手押し車に積まれた花を見ていた。

その中から鐘の形をした紫色の花を引き抜くと車の横にいた少女に代金を渡して大きな道を外れて脇の小道へと入っていく。

慌てて追いかけた。

両手一杯の食糧は少し重くて息が上がる。

小道に辿り着いた時にはもう背中は遠くにあった。

見失わないよう走る。

幾度も角を曲がりながら追いつこうして、追いつけなかった。

進んでも進んでも角を曲がった時には次の角を曲がる背中しか見えない。

やがて、街を覆う壁と門のすぐ脇に出た。

大勢の人が出入りする門の端から外に出る背中を見つけて見失わないよう全速力で走る。

人の目は気にならなかった。

門から外に出ると背中はやはり遠くに見えた。

街から遠ざかっていく背中。

走っているわけでもないのにお姉様は走っているこちらより速かった。

走って走って、ようやく追い付くと、お姉様は丘の上に座っていた。

辺りを一望出来る小高い丘からは近くを流れる大河を挟んで竜達が戦う光景が広がっていた。

地の竜が吐く光が撃ち上がり無数の流星となって竜達を薙ぎ払い、水の竜が吐く無数の光が一帯を覆う霧の中から標的を狙い撃ち、空の竜が舞う度に翻弄された他の竜が勢いを失って失速する。

誰の目にも勝敗は明らかだった。

名も知らぬ花を片手に男のように胡坐で座り、頬を手で支えながら難しい顔で訓練の場を見つめ続けている瞳。

【・・・・・・】

近くを見てはいない気がした。

目の前のものではなく、何か遠くのものを見ているようだった。

いつの間にか。

見ている間に切れた息も戻り、汗も引いている。

傍に腰掛けてもお姉様はまったく動じる様子も無く。

瞳もずっと前を向いたままだった。

「お姉様は三人の何方と結婚なさるんですか?」

少しだけ元気を出して欲しくて、怒られる事を覚悟でそう切り出してみる。

「そういうのは今考えてない」

前を向いたまま静かに返されて驚く。

「あ、えと、その、そう、なんですか?」

「誰と結婚しようが今のオレじゃすぐに家庭崩壊の危機だろう」

「どうしてですか?」

「オレはオレを理解する。オレはあいつらを理解する。そして、踏み出さない愚かしさが今を続ける鍵だと解ってる」

解らないだろう?と聞かれて素直に頷く。

「つまり、だ。オレには未来を選ぶ勇気が無い。でも、同時にこの今だけを続けていく力はある。だから、オレは進まずに立ち止まる事を選んだ」

何を言っているのか。

朧げには解った。

「オレは三人の誰一人として不幸になって欲しくない。人の関係ってのは変質すれば二度と元には戻らないからな。オレは優柔不断を貫く事にした。結婚なんてオレはまだ考えられる場所に立ってない」

「誰かを不幸にするのが怖いんですか?」

応えてくれるかと心臓が縮む。

「ああ、オレは恐れてる。誰もがオレの傍から離れていく事を。言葉も人も不変じゃない。永遠の愛を誓う男女が別れる話なんてよくあるだろう? オレは人間関係の変化を求めない人間だ。いつの間にか出来てたあいつらとの関係をオレは壊したくない。それはあいつらが望む形じゃないだろうし、誰かを選べとか白黒付けるとか、そんなのが普通なのも正しいのも理解してる。でも、オレは・・・」

伏せられた顔がどうなっているのか見てはいけないと思う。

「ただの愚痴だ。聞かなかった事にしておけ」

顔を上げたお姉様の顔には何の変化も見られなかった。

「これ」

今まで片手に持っていた花をお姉様が差し出した。

「え?」

きっと、三人の誰かに贈るものだと思っていた。

「あ、あのそれって僕にですか?」

「そんなわけあるか。オレから渡しても意味が無い。これはお前が自分の母親に贈れ」

「?」

混乱する頭がクシャクシャと撫でられる。

「お前の母親はオレと同じ顔をしてるって言ってたはずだ」

「あ、覚えてくれて・・・」

「この花はオレの故郷にもある花だ。その花言葉がお前の母親へ贈るのに丁度いい」

「花言葉?」

「花そのものを贈り物にするんじゃなくて、花に付けられた象徴的な意味を贈る風習だ」

そっと花を受け取って訊く。

「この花に付けられた意味は何なんですか?」

「『哀しんでいる貴方を愛す』だったか」

思わず言葉を失った。

「相手が知らなくてもいい。自己満足に過ぎなくとも、そういう言葉を贈る事には意味がある。少なくともお前はきっとそういう気持ちを忘れないだろう」

目の前の人の愚かしさが、とてもとても胸を締め付けた。

きっと苦しみも悲しみも自分の中に押し込めているはずの人が、そんな事を言う。

微かに頬を緩ませて、他人にそんな事を言う。

馬鹿だと思った。

大馬鹿だと思った。

そんな事より自分の心配をしろと思った。

何故、こんなにも胸から感情が込み上げてくるのか。

痛ましさが胸を満たしたからだ。

空腹で死にそうなのに自分の食糧を誰かに渡すような行為を平然とする人を見つめる。

無垢で鈍感なその人をどうしたら助けていけるのかと無力さが募る。

「泣くぐらい嬉しいならさっさと行け。オレはしばらく寝てる」

そのあまりにも解っていない顔が本当にどうしようもなく胸を乱して、涙を拭う。

「?」

横になった頬にそっと口付けする。

「――――――――」

言葉も忘れて驚く顔。

手に持った可憐で小さな華を胸に置いた。

「僕が本当にその言葉を送りたい人に、この華を捧げます」

そのまま顔も見ずに背を向けて歩き出す。

「母さんには後で」

最後まで声は掛からなかった。



黄昏の匂いを感じながら手元に戻ってきた花を手にして壮大な草原を眺め続ける。

もう竜は見えなかった。

今日も負けた巫女達が互いに肩を貸しながら街の門を潜っていく。

何もしたくなくて瞬きすら止める。

心臓の打つままに身を任せていると視界の端から見憶えのある顔が歩いてきた。

今はディリカ・ハルメルと名乗る母だった。

細い火傷痕を負った顔には笑みが浮かんでいる。

目の前まで来ると革袋を差し出された。

受け取ると笑みを深くして、こちらに背を向ける。

同じように暮れていく陽を眺め始めたのはどうしてか。

そんなに自分は心配されるような顔をしているのか。

親子揃って鋭いのは本当の血を分かつ家族だからか。

頭の中を巡っていく疑問に答えは出なかった。

「・・・・・・」

夕暮れを鳥が飛んでいく。

長い長い夕暮れを母と二人で過ごしている。

昔日が溢れだしたようだ。

母の後ろ姿に覚えるのは憧憬。

憎しみでも懐かしさでもない。

憧れ。

いつだったか。

もう忘れてしまうくらい昔に覚えた感情。

【どうして僕には笑い掛けてくれないのだろう】

大昔、遊びに行った夕暮れの公園で同じ年頃の子供が母と触れ合う姿を見て、自分が初めて母から嫌われているのだと知った。

初めて、自分と母が普通とは違うのだと知った。

それ以来二人で公園に行く事は無くなった。

見知らぬ母子達の光景を二度と見る事は無かった。

それからだっただろうか。

暇があれば一冊の本を読むようになった。

寝台の中で、朝の合間に、何かをする途中、トイレの中、あらゆる場所、あらゆる時間。

会えば蔑まれ、二人となれば罵られ、荒れる母の部屋に行っては追い出される。

そんな時間の合間に。

まるで初恋のようだったと思う。

何かに縋らなければやっていられなかったのかもしれない。

その疑問は自分を殺すと分かっていたから。

その本は本当の本当にたった一つだけ母から貰ったプレゼントで、だからこそ自分を支えられた。

今考えればアレはただ使用人が用意し、母から渡されただけの代物だったのだろう。

それでも詳しく思い出せないくらい昔なのに今もその渡された時の感情だけは覚えている。

嬉しかった。

凄く凄く嬉しかった。

本が擦り切れ、ボロボロになり、いつの間にか無くなってしまっても、その事だけは覚えていた。

自分を壊す憧れをただ昔日の記憶が誤魔化してくれた。

あの本は嬉しさを反復する道具だったのだろう。

「・・・・・・」

体はほぼ間違いなく母。

だが、中身は自分が知る母からすれば別人。

どうすれば、あの母がこんな人間になるのか。

感情では理解し難い。

推測ならば出来る。

本来はこちらの方が正しい姿であるという推測。

自分の好きな男と結ばれたならば、こういう人間であったかもしれないという推測。

父が過去にどんな手段を使い母を手に入れたのかは知らない。

調べようと思えば調べられたかもしれないが、そんな気にはなれなかった。

だから、本当のところ母が自分を生む以前どんな人間だったのかは解らない。

それでも自分の父親と結婚する事が無ければ、母はこういう人間だったのかもしれない。

優しくて強くて温かくて子供を愛し育み見守り続ける人だったのかもしれない。

(全てはただの推測で、何を言っても遅過ぎる。人格には昔の記憶も面影も無い。オレの事を覚えてもいなければ、自分がどんな人間だったかも知らない。都合良過ぎだろう母上)

こうであったならばなんて空し過ぎる。

全ては終わった話。

今更、オレはお前の息子だから一緒に暮らそうなんて言い出す気はない。

未来を共にする事は無い。

目の前で暮れる空を見上げながら微笑んでいるのは臥塔賢知の母ではない。

あのどうしようもなく最低でどうしようもなく臥塔賢知を壊した母ではない。

そこにいるのはディリカ・ハルメル。

流れの医術師、息子思いの母親でしかないのだ。

「何か見えますか?」

「いえ、何も・・・」

遠くを眺める後ろ姿はいつだったか窓の外を見ていた母のもの。

「ただ」

「ただ?」

「こうして遠くを見つめていると昔の事を思い出す事があって」

「―――――昔の?」

「わたくしが目覚めたのもこんな夕焼けの日だった」

「・・・・・・」

「わたくしを助けてくれた人は流れの医術師で、お腹に子供がいるアウタスなんて初めて見たって笑いながら助けてくれた。あの人が逝って、それと入れ替わるようにあの子が生まれて、あの人が見ず知らずのわたくしに遺してくれた遺産とわたくし自身の知識で何とか生計を立てて・・・ごめんなさい。忘れてください」

冗談を聞き逃して欲しい。

そんな笑みを向けられて、視線を合わせられない。

「今、幸せですか?」

そう口を突いて出たのは顔を合わせられないから。

「あの子が無事に育ってくれてますから。あ・・・出来るなら親友以上になってあげて欲しいのですけど」

「考えておきます」

「あの子、わたくしと共に旅をしていたから同年代の友達がいなくて。あの子あれで顔はまぁまぁ可愛いから、どうかしら?」

親子揃って頭を悩ませる天才かもしれない。

「あの子もあれで年頃の男の子ですから」

「お断りします」

「貴女もあの子を気に入ってると思っていたのですけど?」

「生憎とオンナノコが好きなもので」

「う~~ん。同姓って不毛じゃないかしら?」

「愛があれば問題ありません」

「男の子には興味無い?」

「まったく」

「そう・・・」

惚けた話だ。

まったく兄に弟の恋人になって欲しいなどと。

現実世界の腐女子には格好の餌だろう。

そんな馬鹿な話をする事になるとは夢にも思わなかった。

本当にこんな穏やかな時間を過ごす事になるとは・・・思わなかった。

「一つ訊いても?」

「どうぞ」

「貴女みたいな子がどうして竜を退けようと?」

「成り行きです」

「成り行き?」

「自分を救ってくれた人に何かしたかった。それだけの動機です」

「あの子達の事?」

「誰でもなくこんな自分の隣を選んでくれた。ずっと一人だった自分を救ってくれた。そんな彼女達に報いる方法がそれしかなかったので」

「ご家族は・・・あ・・・貴女は確か・・・」

「はい。アウタスです」

「ごめんなさいね」

「謝られる理由はありません。そもそも家族というものが分からないので」

「それじゃあ、こういうのはどう?」

「――――――」

優しく胸に抱かれた。

何かを思う間もない。

「本当の家族にはなってあげられないかもしれない。でも、貴女を抱きしめる事くらいなら」

「そういうのは御自分の息子さんにしては如何ですか?」

「あの子はほら、もうこういうのを恥ずかしがってさせてくれないですから」

屈託なく慈愛の笑みで母の苦労を語られる。

まるで悲劇、いや喜劇のワンシーン。

「僕も男です」

「貴女の姿が本当はどうなのかわたくしは知らないけれど、貴女が子供なのは見ていれば解ります」

「子供、ですか?」

「我儘で繊細で傷付きやすい宝石みたいな目をして、大人になりたいのに大人に成り切れない、夢見る事を止められない。そんな感じです」

「詩人ですね」

「どうしてかしら。ふふ、貴女みたいな子がもう一人わたくしの子でいたらって、そう思ってしまって」

ゆっくりと体を離される。

世界に闇の帳が落ちていく。

真っ直ぐに見つめてくる瞳に自分を重ねて言葉を探した。

「・・・ありがとう」

柔らかな笑みがすぐ見えなくなった事に心から安堵する。

それ以上見ていたら泣いていたかもしれなかった。


二日後、巫女達を連れて狂乱へと向かった。


医術師を動向させたのは私情ではないと自分に言い聞かせながら。

随時感想を受け付けています。連載中のSFノベルGIOGAMEもよろしくお願いします。

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