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結果として尚義の出兵は、直接には殆ど何の役にも立たなかったが、塩松に戻った後、斉義は一つの建策をして容れられた。
月見館の威容を目の当たりにした斉義は、これに対応する城砦が塩松側にないことを心許なく感じた。
針道や木幡に城砦はあるものの、それは当地を統治する麾下家臣の持ち城であり、厳密には石橋氏のものではない。
よって、直轄する北部要衝を築くべきであると主張したのである。
そして選地されたのは、針道郊外の愛宕森である。
隣接する白猪森をも取り込んで利用すれば大軍を篭らせることもできるし、盆地が北に拓けて伊達領境まで見渡せることから、まさに伊達氏の南方経営に対応する堅牢と為すのに相応しかった。
この要害は早速に縄張りが始められ、小手森城と名付けられる。
斉義はこれを端緒として政事への関与を深め、家中にて高い評価を得るようになる。
次第に面持ちや体格も大人び、周囲の接する態度も一人前扱いするように変わっていった。
その為、結果として尚義を蔑ろにせざるを得ない行動も目立つようになり、かつての睦まじい関係は次第に冷えてゆく。
斉義は一層塩松城に居づらさを募らせたことから、尚義に願い出て住吉城内に部屋を与えられ、姫を伴って遷った。
そのような状況になっても、斉義は(心中はどうあれ)形式的には尚義への礼を重んじ、孝を怠らぬよう、気配りに意を用いている。
尚義としても、独自の勢力を築こうとしているのが替えのいない後継者であることを知っていたから、「廃嫡」という波風を立てんと謀る一部の側近の声に難色を示していた。
ただ、酒を呑んで万事を人任せにし、自らは総てを流すことが多くなっていった。
数年が経った。
この間、養父子の関係は(表面上は)何とか平穏を保っていたが、永禄十年に至り、事情が変わった。
前年尚義は、一人の妾から勧められるままに禅僧の講義を受け、求められるままに堂を一宇寄進した。特段のことをした訳でもなかったのだが、暫くして加護が顕れる。
その妾が身ごもり、この年の春に男子を産んだのである。
この子供は松丸と名付けられ、母子共に住吉城の奥向きから塩松城に遷された。母親は大河内備中の娘である。
大河内氏は石橋家の家老で、家格では大内氏と同様である。これまでは筆頭家老たる義綱の施策を後援する姿勢を貫いていたものの、この一事によって備中は、義綱への対抗意識を俄かに燃やし始めた。
尚義としても、才気走るばかりで最早かわいげのない(既に情も半ば失せている)養子よりも、愛らしい実子の方へ心が移るのは自然のことで、寝ても覚めても「お松やお松や」と、それこそ目に入れても痛くないというほどの可愛がりよう。
妾や舅に促される形で、斉義を廃し後継を松丸に据え直す決心をするのに、さほど時間はかからなかった。
斉義は直接にその旨を言われる前から、廃嫡される予感を抱いていた。
このことに関して、養子よりも実子が可愛いという尚義の思いを恨む気持ちはないものの、疎外感は否応なく押し寄せ、今後への不安はどうにも拭えない。
実家に戻されるだけなら良いが、冤罪を着せられ誅されてしまうのは御免だし、やはり一度は手にしかけた塩松殿の座をただ空け渡すのも癪だった。