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稙宗は、白銀の総髪に袈裟をはおり、穏やかな表情で一行を迎えたが、その所作はすっかり老爺の趣となっていた。
「塩松殿、久しいのう。そちらがお嗣子か」
尚義は、稙宗の優しい言葉にすっかり恐縮し、「あの」とか「はあ」しか発せないでいる。それを差し置いて斉義は、保原での失態を挽回するように、意気込んで挨拶した。
「お初にお目にかかります。太郎左衛門斉義にござりまする」
「うむ。利発そうな若人じゃ。当家の総次郎殿とは、歳も近かろう。相馬の孫次郎殿と同年くらいかの。どうか皆、末永く仲良うして欲しい」
相馬の孫次郎とは、盛胤の嫡男義胤のことである。相馬氏と懇意にしていた稙宗は、丸森に遷ってからも一層相馬をいたわり、末娘を義胤に嫁がせている(後に離婚する)。
尚義は、稙宗と斉義の会話で漸く少し緊張がほぐされ、用件を伝えた。
「保原より書簡を預かって参りました」
稙宗は受け取った書簡に目を通した。
「総次郎殿は早熟じゃ。若気の血気にうかされて足元をすくわれぬよう、儂からも一寸言うてやらねばとは思うておった。……ところで塩松殿、御辺らはこれから何処かへ攻め寄せようという趣向かの」
「えっ。いや、あの……」
塩松城を出たときから尚義は大鎧、斉義は当世具足を身に着け、他の武者も胴丸・腹巻を着用、すっかり臨戦態勢を整えている。保原で一泊して状況が大方見えてきても、尚義が総武装を解かない以上、諸士もそれに追随せざるを得ず、連日軍容を調えての行進は行列の全員が負担に感じていた。
「助力を請け負って貰えるのは有り難いが、そのなりでここに居られては、却っていらぬ混乱を招きかねん。通達の旨は承ったので、早う戻って晴宗へ伝えてくだされよ」
尚義の顔は赤くなって、再び固まってしまった。
一行はそのままとんぼ返りで丸森を発つと、途中再び保原にて晴宗と面会、城下で一夜を過ごし、翌日往路と全く同じ道を辿って塩松へ戻った。
結局、この混乱はその後も収まらず、収束まで数年を要す。
晴宗は混乱が終結したら輝宗に跡目を譲るとし、輝宗は現況のままで跡目を継ぐことを望んだ。
問題は、中野や田手といった旧来の重臣が輝宗を蔑ろにして家政を牛耳ろうとしている、という疑いがあることである。
晴宗が何とか穏便に済ませたいと輝宗に寛恕を求めても、輝宗は誅伐を主張して譲らなかった。しかし、まだ正式の当主になっていない輝宗の手勢だけでは、それらの勢力を討伐することも叶わない。
この間、稙宗はずっと和解への道を探り続けていたが、その道は開けぬままに体を壊し、枕の上がらぬ身となった。
結果、これを機として父子は漸く互いに歩み寄りを見せ始める。
そして「田手氏の家格を一門から一家に下げて所領も減封するが、他には手を出さない」という条件を輝宗が呑み、正式に跡目が譲られる運びとなった。
だが、この一応の解決に、稙宗は間に合わなかった。享年七十八。その逝去は永禄八年六月。輝宗の後継はその後間もなくであった。
晴宗は、立場は変われどその後も杉目に住し続ける。
輝宗も跡目こそ譲られたものの、中野宗時一派が依然輝宗に出仕せず、家士を代理人として用を足していることに対し、何の手出しもできずにいた。
因みに、この宗時の家士の名を遠藤文七郎という。
結果として宗時はますます増長してゆき、元亀元年(1570)に至って、遂に輝宗との間に戦端が開かれる。
そして戦さに敗れた宗時は相馬へ逃れ、更に会津へ流れてゆく。
この戦さで文七郎は輝宗に内通し、その信任を得、第一の側近としての地歩を踏み出すことになる。後の遠藤山城基信である。