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定綱は、国力温存の期限が近付いていることを感じていた。
件の田村清顕は、自らの周辺諸氏との和睦を成立させた後、漸くのように相馬と伊達の和睦取り扱いに乗り出していた。
だが、長引き過ぎた戦さは両者引き際を忘れてしまっており、相馬は伊具郡東根堅持を譲らず、伊達は伊具からの相馬勢力完全撤退を求めた。その為この和睦調停は、思いのほか時間を要する作業となっている。
とはいえこの頃以降、自力の差から相馬軍は人的・物的補給がままならなくなっており、やがて家臣の寝返りも起こり始めると、終戦の形はほぼ決した。
同十二年五月に至り、相馬が伊具撤退の条件を呑む形で和睦が成った。なるべくして成った和睦であり、この後数年間、相馬・伊達間は平穏となる。
そんな中、相馬・伊達の和睦成立の翌月、会津にて事件が起きる。
葦名盛隆は同八年の盛氏の死以降、着実に実力をつけ、家中での評判も徐々にではあるが高まっていた。織田信長と誼みを通じて三浦介に叙任したのは、同九年のことである。
その盛隆が黒川郊外の羽黒山東光寺へ参詣している隙を狙って、重臣松本太郎左衛門と栗村盛胤が黒川にて兵を挙げ、城を占拠してしまったのだ。
葦名四天王の一とも云われる松本家は、当主の勘解由致輔が同三年に田村との合戦に於いて安積郡郡山にて戦死して以降、当時七歳だった太郎左衛門が名跡を継いでいた。
しかし盛氏が死ぬと、盛隆から冷遇された彼は、若輩であることを理由として家老から格下げされてしまう。
以降、栗村という同志を得て、恨みを晴らす機会の訪れを粛々と窺っていたのだった。
ところが、挙兵したとて彼らに同調する者が家中に現れ、援護の手が差し伸べられなければ、それぞれの手勢のみにて広い城内を制圧し続けるのは容易いことではない。両人は翌日未明までに斬られ、乱はすぐに鎮圧される。
しかし、一度澱んだ空気は、家中の動揺として不穏なまま暫く拭いきられずにいた。
清顕はこれを契機として、葦名氏が外征介入するだけの余裕を回復するまでに決着を付けてしまおうと、急遽塩松への侵攻を開始した。
田村軍は郡境を越えて塩松に入ると、石川領杉沢村に陣を張って西隣の初森村一盃館を攻め落とした。初森は、小浜・宮森地方と岩角地方との連絡網の首根っこに当たる。
清顕は軍を杉沢と初森の二つに分けて配置。更に百目木から、数年前に石川摂津の跡を継いだ弾正久国も撃って出る姿勢を見せていた。田村麾下に就いたとき、弾正はその名を尚国から久国に改めていた。
対して定綱はすぐさま、石川領との境界に位置する新殿砦を本陣と定め、総動員の触れを出した。前線大将は長門義員である。
永禄末年、田村麾下として塩松が大内の手で掌握された後、彼は小手森城代に抜擢されていた。この塩松北部の要衝が彼に任せられたのは、それだけその武勇に期待が掛けられ、また信頼されていたことを物語る。
そして初森に対しては、岩角玄蕃が主導となって近隣の将兵が招集され、前線の滝小屋城を本陣と為していた。
岩角玄蕃允信義は石橋一門筆頭格で、本来ならば尚義の後継に推されてもおかしくない出自だったが、一門の例に漏れず尚義と折り合いが悪く、また塩松殿の地位にも執着しない男で、定綱とは尚義の横死以来、ずっと懇意にしている。白岩・和田村境の岩角山に館を築き、塩松南部の要として、定綱と絶大な信頼関係を構築していた。
定綱は他にも、二本松と片平にも一応連絡を入れていたが、緊迫した状況にはお互い大差なく、援軍までは望めない。また、伊達軍も同前である。援軍どころか、挟み撃ちに攻撃してくる危険の方が強かったが、幸い何の動きも見せていなかった。
また、この戦さで定綱の長男石橋蔵人友顕が初陣となった。自分の烏帽子親が初陣の相手とは皮肉な巡り合わせだが、「塩松殿」として、仮令烏帽子親といえど外圧を加えようという者に対しては真っ向から立ち向かわんと、大変な意気込みである。
しかし三春から戻って以降、尚義後室に甘やかされて育った故か、「自分が塩松の主である」という自負ばかりがますます強まり、「父とはいえ主家筋たる自分を蔑ろにしている」と言っては相変わらず定綱に懐かず、密かに不満を募らせてすらいる。
定綱もその感情にはうすうす気付いていたが、忙しさにかまけてあまり話をする機会も得られず、また彼を立ててやる余裕もなかったことから、息子の多感な時期を迎え、父子関係の亀裂はいよいよ深くなっていた。