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天正七年秋。
かねてから小野六郷の獲得を目論んでいた磐城親隆が、再び軍事行動を起こす。
親隆直々の出陣による大軍の発動に、小野新町城主田村右馬頭清通は頻りに三春へ援軍を乞い、それを受けて清顕は総力を挙げて小野の陣に参集させた。
小野六郷は小野保とも呼ばれる小野新町を中心とする地域で、田村庄の東南に位置する。磐城領へ向けて東流する夏井川の上流域に当たることから、しばしば両氏の係争の舞台となっていた。
両軍距離を取ったまま対峙するも、秋雨に邪魔されて一気に決戦には至らなかった。日々小競り合いが繰り返されていたが、磐城軍の攻勢に対して、田村軍は守勢に廻ることが多かった。
塩松からも主だった者が全て出張っていたが、多く前線へ送られ、陣中に於いても顕かに低く見なされていた。顕綱などは、田村家中の誰よりも多くの兵を動員していながら、小身の譜代よりも格下に見られ、いつものことながら家中の平静を保つのに努力を要していた。自分だけなら我慢すれば済むが、家士からの訴えを無視する訳にもいかず、事を荒立てたくないことから、宥めるのに余計な神経を使うこととなる。
そんな中、右馬頭の家士が片平勢の家士を斬るという事件が発生した。
顕綱は、斯様なことはそのうちに起きるだろうと予想していただけに、根が穏やかな弟の陣でそれが発生したことに心を傷め、話を伝え聞くや即刻親綱の陣へ赴いた。
親綱は兄の訪問をいつものように穏やかに迎えたが、やはり顕綱同様に気疲れしている様子は見て取れる。
事件の経緯を聴くと、やはり顕綱も幾度となく家士から陳情されていたことが、親綱の陣でも繰り返されていたことが分かった。
安積勢や塩松勢を新参者と軽視し、現地の地理に不案内な彼らへ地勢を教えるでもなく、また慰みにやる賭け事でも不正を働く、負けても支払いを誤魔化すなど、ひとつひとつは大したことではない。
しかしそれが積もり積もれば、大きな一つの要因にまとめあげられるのだ。中でも、地元たる右馬頭の勢は、その傾向が甚だしかった。
つい先日も、親綱は右馬頭の陣へ赴き、家士から訴えがあることを陳情したのだという。
右馬頭は田村一門筆頭格、顕基入道梅雪斎の嫡男で小野六郷を領し、一門譜代の中で一番の大身である。清顕と違い鬚も生やさぬ優男であるが、いつも斜に構えて細目を更に細め、薄笑いを浮かべて人と接する、てらった所ばかりが目に付く男である。
親綱が家士の訴えを話しても、「いずれ下々のこと。陣がお開きになるまで、もう間もなくのことでもあろう。斯様な訴えをいちいち聞いていては、きりがない」と相手にしない。
猶も親綱が「それはそうでもありましょうが、これは信義の問題であります。下々のことと申されたが、その下々あっての我々でありましょう」と食い下がっても、斜に構えてニヤニヤするばかりで、何も答えない。流石の親綱もいらつきを隠し切れなくなりそうになり、そのまま立ち去ったのだという。
事件はその数日後、賭けに勝った親綱の家士が右馬頭の家士に滞っている支払いを強く請求したことから起きた。
親綱が事件を起こした家士の引き渡しを申し入れても、右馬頭からの返答はなしのつぶてだという。
「よし、それなら儂からも言ってみよう」
顕綱は直接に清顕の所へ訴え出た。
「事件を起こした右馬殿の家士の、身柄引き渡しをお願い致します」
清顕は面倒臭そうに応対した。戦況が思わしくなかったからだ。
親綱のことに顕綱がしゃしゃり出てきて、面白くなかったということも、あるのかも知れない。だから、顕綱の顔などまともに見ようともせず、吐いて捨てるように言った。
「下々のことでもあろう。今は斯様なことにいちいち応じているほど暇ではない。下がれ」
「ならば、戦陣が終われば、構わぬということですな」
顕綱は終始無表情だったが、清顕はその口調の変化に気付き、改めて相手を見た。
だが清顕の反応を待つことなく、顕綱は表情を固めたまま陣幕を出て、自陣に帰った。