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何故、片平が簡単に陥ちたのか。
それは、長年後援を頼んできた葦名家中の乱れが、大きな原因として挙げられる。
二年前に夭折した葦名盛興の跡を継いだのは、岩瀬郡須賀川城主、二階堂盛義の嫡男盛隆である。大御所盛氏が盛興後室伊達氏を養女と為し、これに添う形で入嗣した次第。
当主を他家、しかも半ば傘下と見なしていた二階堂氏から迎えることによって、麾下諸将の間では主家への求心力が落ち込み、盛隆の血筋・力量に対しても、「頼りない」との先入観を抱く者が少なくなかった。
その流れの中で片平伊東氏でも、これまで長年後援を葦名に頼んできたものの、今後のことを思うと、この際、田村の威勢に頼った方が安心と判断したのだろう。
その為、田村軍の侵攻に対しろくに反撃もせず、葦名の援軍を待たずに降参してしまったのだ。
片平城主伊東大和守祐明には男子がなかったことから、今回清顕は、親綱をその婿と為した。そうすれば親綱は塩松から出て、且つ顕綱と同格の存在になる。
人望の篤い親綱について行きたいという者も大内家中から多数現れるだろうし、そうなれば自然、塩松の勢力も分散されよう。
親綱の奥方は中野宗時の娘で、所生の娘も三人からいたが、元亀の乱に於いて宗時が失脚したことから、その余波で正室を外されており、入嗣への障害はなかった。
顕綱は、親綱のことは信頼していたが、周囲の者が清顕の思惑に踊らされることを恐れ、輝宗に特に暇を請うて陣を払うことにした。
そして塩松城にて解陣後、宮森へ帰る前に珍しく小浜へ寄った。
親綱は既に実母を伴って片平へ遷っており、父義綱が迎えた。
顕綱は後継後、義綱を訪ねることはめったになくなっていたが、別に仲違いしていた訳ではない。義綱が表舞台から身を引いた遁世を望んだことから、会えば自然と政局の話になるだろうと、顕綱が配慮していたのだ。
義綱は顕綱に跡目を譲って既に七年を過ごしていた。
隠居後は小浜城内の屋敷にて正室と共にあって、領内へ新たに寺社を建立し、尚義が晩年想いを馳せた禅宗に傾注してその菩提を弔い、また時には杉目にて隠居している晴宗を訪ねたり、著名な画僧である雪村周継が会津から三春へ遷って来ていたことから、庵に参堂したりしている。
それでも顕綱が留守を頼めば、まだまだ塩松の要として家中をまとめ、周囲へ睨みを利かせることくらいはできていた。
「助右衛門はもう片平ですか」
義綱は晴れぬ表情で息子の帰還を迎えた。
「田村のやりよう、其方どう思うておる」
「やりよう、と申されますと。田村殿は父上から了承を得ることすらないままに、あれを片平へ行かせたのですか」
義綱は曇った表情を一層暗くした。
顕綱にとっても、それは思いの外のこと。自分に無断なのは構わないが、父にまで無断なのは気分が悪かった。
「――どうか、堪えてくださりませ。片平の家に入っても、助ゑは変わりませぬ」
顕綱は、父の寂しげな表情に老いを見た。
親綱は「伊東」姓を受け継ぐことを憚り、自ら片平大和親綱と名乗った。
片平へは近臣を数名連れて行ったのみで、外に追随を請う者も幾人かいたようだが、全て断っていた。随行した近臣も、主人に似て差し出がましいところがない者ばかりだったことから、伊東家中を乱すところが一切なく、自然にその中へ溶け込んでいった。
親綱の様子にも別段変化なく、書簡で以って顕綱とくどいほど累次に連絡を取っていたし、暇を見ては兄よりも寧ろ頻繁に小浜を訪ねている。
即ち清顕の思惑をある程度外すことができた訳で、顕綱は取り敢えず安心した。