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暫くして好い日を選び、大阿弥丸は塩松城へ遷ることになった。
小浜城を出るに当たって、父義綱が言った。
「其方がこの家を出、主家の養嗣子になったとて、儂の子でなくなった訳ではない。父親が二人になったと思うがいい。今後は一層自らを律し、塩松殿の後嗣たらんとせよ」
尚義が穏やかな人柄であるだけに、義綱は息子が甘やかされるのを懸念しているようであったが、大阿弥丸にしてみれば甘やかされたとてそれに溺れない自信はあったし、今後この父の束縛から解放されることに心が浮き立つばかりだった。
兎も角も大阿弥丸は、かくして塩松城に入った。そして日を選ぶと、同地にて元服を執り行い、太郎左衛門斉義と名乗った。
かつて尚義の先代定義は、嫡男尚義に跡目を譲った後も大御所として住吉城に君臨し続けていた。その為、尚義は当主となった後も、それまで数代の間二の丸的な位置付けとなっていた塩松城に差し置かれていた。
だが尚義は、定義の死後も継続して塩松城に住み続けたことから、逆に住吉城は二の丸、或いは大奥的な位置付けとして扱われるようになっていた。
斉義は義父に随って塩松城に部屋を与えられたが、内心は住吉城の方が居心地が良く、こちらに居を取りたかった。
その理由の一つとして、住吉城の書庫には埃を被った蔵書が沢山あり、斉義はそれを思う存分に読みふけりたいというものがあった。城内は人も少なく、また二人の父にかまわれることもなかったことから、一人を満喫できる、落ち着ける場所だった訳である。
斉義は、志保姫との婚儀を済ませ、初めてその姿をはっきりと見た。
かなりの痩せぎすで、髪も多少くせっ毛はあるが、思っていたような醜女には見えず、肌も白いし目鼻立ちも至って普通の女だと感じた。ただ、話をすると少しどもりがあり、知性の面でも父親を受け継いだのか向学心といったものは余り感じられず、斉義が改めて興味を惹かれる部分は別段なかった。
さりとて斉義はこの頃まだ女色の経験がなく、その方面の欲望もさほど強くないということもあるのか、彼女に対しては別段の不満を持たなかった。ただ知識として、「これが醜女である」と頭に詰め込まれただけのことである。
何にせよ彼女の存在は彼にとって是も非もなく在るものであり、「こういうものだ」以上のものにはなかなか昇華し得ないものだった。よって暫く経ってからの初めての床入りの後になっても、その感覚は当面改まらなかった。
姫の方でも、自分のような容姿が醜女であるという知識を持っているのか、深い情を斉義に求めることはなく、よっていつまで経っても子を成さなかった。尤も、貧弱な彼女の肉体で子供を宿せるのかということは、甚だ疑わしいものだが。
互いにそんな状態では、とてもすぐに睦まじい関係が築ける訳もなく、斉義が時折通ったぐらいでは、なかなか会話が弾むようにすらならなかった。
それでも斉義は、姫のところへ定期的に通った。それは新婚としては極めて少ないものだったが、双方から不満の類は一切出てこないことから、両家の父母とて何も口を挟めなかった。