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――数年が経過し、元号は天正に変わっている。
「三春よりご使者です」
小姓の報告に、顕綱は頷いた。
大方、出陣の命令か使者に立てということだろう。いずれにせよ、また何か面倒を押し付けようという魂胆なのは、目に見えている。
顕綱は既に、大抵のことでは狼狽せぬほど様々に場数を踏んでおり、どんな無理難題を押し付けられようと、もはや清顕の思考程度の嫌がらせでは、対処に困るような場面に出くわすことも殆どない。それに、他領にて使命を果たせば果たすほどに内外にて名声が高まったことから、それら権柄尽くの無理強いも、結果として顕綱にとってはあながち無駄ではなかった。
しかし、やはり煩わしいことには変わりがない。
田村の人間は、総じて外交下手だった。
今は威勢が盛んであればこそ、何もせずとも周囲から擦り寄って来るのである。そこに胡坐をかいていては、やがて時世から取り残されるのは眼に見えている。
しかしそのことに気付いている者は、どうやら三春にはいないようであった。
対面すると、使者はいつものように尊大なそぶりでおもむろに口を開いた。
「二本松と大森の諍いは聞いておろうな」
「はぁ……」
「此度、三春の殿がその調停に立たれることとなり、貴殿にその取り扱いを命ぜられた」
使者は清顕の書簡を差し出した。
顕綱はそれを押しいただき、目を通した――。
信夫郡大森城の伊達兵部大輔実元は晴宗の弟で、幼名時宗丸、天文の乱の導火線になった男である。かの戦乱にて父稙宗に従った彼は、乱の終結後も越後上杉家に入嗣することなく、晴宗の支配から半ば独立した存在として、信夫郡の大半を領してきた。
しかし永禄末年頃から、それまで同じく元稙宗党として良好な関係を持続させてきた二本松の畠山修理大夫義国との関係が、急激に悪化する。その結果、義国が信夫郡南端の八丁目城を陥落させ、更に北上を窺う姿勢を見せた。
窮地に陥った実元は、信夫郡杉目城の晴宗へ助けを求める。
晴宗は米沢の輝宗に執り成し、その結果実元は、晴宗の娘を正室に迎えることで、実質的にその麾下の列に復した。
輝宗の後援を取り付けた実元は、義国に対して反撃に転じ八丁目城を取り返すと、更に二本松城を窺う姿勢を見せた。
こうなると義国に勝ち目はない。
今度は義国が、窮地を脱するべく周辺諸氏に調停を求め始める。天正二年(1574)のことである。
先ず会津の葦名盛興を頼った。
盛興の母は輝宗の伯母、盛興の正室は輝宗の娘(実は妹)である。
しかし、盛興は少し前から病臥となっており、盛興の父盛氏が大御所として健在とはいえ、とても他領のことなどに構っていられる状況ではなかった。
義国が次に頼ったのが田村清顕だった。清顕の母は輝宗の叔母である。
清顕はこれを、二本松を傘下に取り込む機会として、顕綱に全権を委ねた。
この役目が家中で最も相応しいのは立地的に彼を擱いてなかったし、能力的にも申し分がなかった。そして更には、もしも失敗した場合には、彼に責任を負わせることもできる訳だ。
また、ほどなく葦名盛興が而立にも至らず死んだと公表されたことから、田村と会津との間に位置する安積郡周辺でも、緊張した雰囲気が満ちて予断を許さぬ状況となっていた。
その為、清顕としても、葦名への対応で何事か起こったときにすぐ反応できるよう態勢を調えておく必要があり、二本松にかかりきりになっている余裕がなかったのだ。