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顕綱は三春から帰って、大方狙い通りに事が運んだことに満足していたが、正室志保姫に対してのみ、心を傷めていた。
志保にしてみれば、夫は晴れて塩松殿となったものの、父は横死し、異母弟は逐電して、実家は他家の掌握となってしまった訳である。
顕綱は顔を合わせづらかったが、やはりきちんと話しておくべきと思い、諸士を塩松城に集めて新体制を布告した後、会いに行った。
顕綱は尚義の養子としてその側近くにいた頃から、この主筋の妻に遠慮をすることなどなかったから、いま主家たる石橋家がなくなったとて、彼の妻に対する態度に変わりはなかった。
ただ、既に彼女の存在は「是も非もなく在るもの」ではなくなっていた。
志保の方でも夫に対する信頼は揺るぎないものとなっており、此度彼がしでかした行為を咎めるでもなかったが、それでもやはり一連の不幸には心を傷め、ときに塞ぎ込む日もあった。
顕綱が部屋へ入ると、志保は柔らかく目を細め、小さく口唇を上げた。それは新婚当初から、どんなときでも彼を迎えるときに見せている表情だった。
顕綱は、自分はこの表情に甘えているのかも知れぬと感じた。
「元気そうだ」
「お帰りなされませ。今日は気分が好うござります」
「父が隠居し、儂が新たな惣領となった。そして、田村殿から一字拝領を賜わった」
「何と付けられましたか」
「備前……顕綱だ」
「左様、ですか。――おめでとうござりまする」
志保は柔らかな表情のまま、目を伏せた。
斉義の名は尚義が付けたものだ。そして顕は田村の通字、綱の字と備前は実父義綱を継承するものである。志保は夫から実家の痕跡が消えてゆくのが淋しかったのだろう。顕綱はその気持ちがよく掴めていた。
「なに、すぐに慣れる。それに、死ぬまでこの名でいるつもりもない」
慰めになるとも思えなかったが、他に言葉が浮かばなかった。
勿論、言葉の通り、いつまでも田村の下風にあるつもりはなかったし、時の変遷如何によっては、逆に自分が田村を呑み込む機会もあると思っていた。
志保は表情を崩さぬまま、ただ小さく「はい」と答えた。
顕綱は婚礼当初からこの正室の所へ頻繁に通うということはなかったが、それは多分に彼女の身体を気遣ってのものだった。上から下まで痩せぎすの身体に、肌は白いながらも艶やかさは感じられない。顔の造作も端整とは言えず、その身体にかきたてられるものが少ないという理由もまるでない訳ではないが、毎晩通っては彼女に無理を強いているようで、それが足を遠ざける大きな理由となっていた。
そんな彼女に遠慮している訳でもないのだが、これまで他の女に手を付けることがあっても、熱を上げて入れ込むということは一切なかった。
「どうか側室でも置かれなされませ」
いつも志保はそう言うものの、顕綱は別段子供が欲しいと感じていなかった。いま子供ができたとて、どこぞへ人質に出さざるを得なくなるのは目に見えている。情に流されて身動きが取れなくなるのを避けたかったのだ。
「なに、子はまだいらぬ。戦乱の世が終わり、平和な時が来たら、幾らでも作ればよい」
「その頃には私はもう……」
「何を言う。それを言うなら儂とて明日をも知れぬ身だ。だが今それを言うても詮なきこと。其方も気弱なことは申すでない」
この場ではそう言ったものの、顕綱は暫くして幾人か妾を囲った。しがらみを避ける為、いずれも身分の低い女だった。一年経ち二年経ち、顕綱は三男一女を儲けた(うち一女は早世)。
志保はしばしばどこか儚げな表情をして薄幸を匂わせていたが、その分、微笑んだときに顕綱は救われたような気になった。だから志保が「子供が欲しい」と言えば、どこぞより知らぬ子供を拐してでも連れてゆきたいとさえ思う。だが彼女の望んでいるのが塩松殿の後継者である以上、誰でも良いという訳ではなく、少なくとも顕綱が父親である必要があったのだ。
子を産んだ妾達は出産後幾許もなく、顕綱からなにがしかの金子を渡されて放逐となった。
やがて案の定、三春から人質を差し出すよう強要されて、長男三右衛門は田村清顕の側で育てられることとなった。そして次男以下も塩松城にて尚義後室の許に置かせられた。
結局夫婦の手許には一人も残らなかったが、「子息がいる」という事実だけで志保は安堵したのか、明るい表情をすることが多くなったと顕綱は感じていた。
それでも志保は、以降も寝たり起きたりの状態から快復することはなく、仮令子供を手許に置いたとて、満足に育てることなどできなかっただろう。
ともあれ顕綱は彼女の薄幸が重なるほどに、いたわろうという気持ちが強まっていった。
妾をすぐに放逐したのも、総て志保への配慮だった。彼女が悋気を起こす筈はなかったが、そうしなければ顕綱の気が済まなかったのだ。
だが夫婦仲が睦まじくなるのと反比例するように、子供達はその育てられた環境の故か、一向に顕綱や志保に懐かなかった。
中でも尚義後室の願いを叶える形で石橋姓となっていた三右衛門は、周囲から塩松殿の後継者と見なされ、清顕の膝元で育てられただけに、実父たる顕綱に対してもどこか尊大に振る舞うことが多くなっていった。
塩松・住吉両城は構えこそ維持されたものの、維持に手間のかかる屋敷類は徐々に廃棄され、一砦としての位置付けと化していった。
これらの処置は、あくまで石橋家の家名維持が目的である。既に政治的な権限は何も残されておらず、家の再興など絵空事だということは、誰もが知っていた。そこに、「松丸逐電は放伐ではないか」という、外聞の悪印象を拭う効果が期待されていることも。
それでも、顕綱の一連の行動が決して自己利益ばかりを求めたものではないという認識が浸透していたことから、総じて家中は顕綱を中心にして一つにまとまる結果となったのだった。
即ち以降、顕綱は田村麾下の末席にて忍辱の日を送ることとなる。
幾度となく出陣し、魁軍殿軍と無双の働きを為しながらも、田村家中での扱いが重くなるということは一切なかった。それでも顕綱は、清顕の下知に只管従い続けた。
小身の者や時として身分の低い者からまで、降将と見下されながらも、それに耐え続けられたのは、志保の微笑みが糧としてあったからであり、勿論全ては先行きに期するものがあるからこそであった。