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その後、漸くのように続々と家中諸士が参集してきた。
それらの視線を集めて、斉義は嗚咽、激昂し、単身でも百目木に撃ち入らんとする勢いで、みっともないほどに泣き喚いて見せた。その、普段決して見せることのない彼の乱れる姿に、誰もが心を傷めた。
だが義綱だけは、それをたしなめるでもなく、距離を置き冷めた眼をして息子の姿を眺めている。
斉義は、父が自分の様子のおかしいことに気付いたのだと感じ、詳しく問い質されるのを避ける為にも一層激しく哭いて、取り付く島を与えなかった。
頃よしと厠へ立つと、折りよく小平から摂津が百目木を出たとの報。そのまま住吉城へ避難することにした。
そして人気のない部屋に入ると、襖を閉めてそのまま横になり、暫しまどろんだ。
昼時を過ぎて塩松城へ戻ると、摂津は既に帰った後である。
姿を見せた斉義に対し周囲からは、摂津の来訪及びその様子、周囲の冷たい視線の為に居づらくなって帰ったのだろうという憶測まで、訊きもしないのに繰り返し事細かに語られた。
それらの視線は、斉義の反応の機微を捉えては、(疑うべきは寧ろ……)と語っているようにも窺われる。
それは杞憂と念じながらも、話の内容がつまらなかろうとくだらなかろうと、斉義は再び頻りに激昂して見せた。念の入ったその行為は奏功し、内心ではそれまで一概に摂津を疑うのはどうかと考えていた者までもが、斉義に同調していった。
その風潮が一人立ちしたと判断するや、斉義はケロリと態度を一変させて怜悧な面を遠慮なく出すようになり、確実に同調した者共を集めて、その晩から謀議を催しだした。
それは次第に規模を大きくしてゆき、二七日の頃には義綱を始めとする家老衆や、斉義の台頭にいい顔をしていなかった筈の一門衆までも取り込んで、殆どが参加するようになってゆく。
その中で義綱は、筆頭家老ということもあって謀議の中心となるに相応しい存在ではあったが、積極的に参加しているようには窺えず、どこか距離を置き、場に一応顔を出しているだけといった風である。
斉義はその様子に、父は腹の中にまだ釈然としないものを抱えているなと感じ、ぼろを出さぬ為にも余り彼の様子には触れずにおいた。
斉義は尚義の弔い合戦と称し、早い時期に石川討伐の軍を催すことを提案した。
石川家は既述のように、大身であるが家格は高くない。譜代の者で固められた家老衆の中に、彼を弁護する者はいなかった。また摂津の方も、以降出仕していない。田村に後援を頼んでいるとの情報が、噂として流布していた。
謀議は、石川摂津が田村と完全に癒着する前に切り取れるだけ切り取りたいという思惑もあり、七七日の喪が明けたときを出陣の日と定め、一斉に百目木を目指すことになった。一応、松丸を総大将に仰ぎながら、陣代には順当に義綱が推された。
義綱は「お聴きいただきたい」と前置きして、話し始めた。
「それがしは亡き尚義公の家老として、主君の横死を誰よりも無念に思います。一時は殉死も考えました」
周囲にどよめきが起きた。斉義は誰よりも速く、強く反応した。
「父上。お気持ちは痛いほど解りますが、どうか早まらないでください。遺される者の身にもなって、自重くださるよう、お願い致します」
「そうです。一同、太郎殿と気持ちは同じですぞ」
その言葉に、義綱は周囲を見廻して大きく一礼した。
「それがしもご先代静阿公逝去の折、父義生に殉死され、苦労した覚えがあります。我が子可愛さと思われるかも知れませぬが、嘲笑われるのを覚悟で、もう少し生き長らえたいと思います。先ずはそれについて、お許しをいただきたい。ついてはこれを一つの区切りと考え、今回の陣を一期として、嫡男太郎左衛門に家督を譲りたいと思います。そして余生を次世代の為に、そして尚義公の菩提を弔って生きたいと思う所存であります」
誰からとなく、歓声が沸いた。
斉義は、父が自分の意に適った言動を執ったことに満足し、彼を称える周囲の者に対し、繰り返しお辞儀をして応えた。




