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変節  作者: 北角 三宗
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 塩松は、南奥州安達郡の東半部にある地名であり、地域の総称でもある。同郡西半部の二本松とは郡の中央を縦断している阿武隈川を境とし、北は伊達郡小手郷、南は田村庄に接する。東の山岳地帯を越えると、相馬領の行方郡や標葉郡に通じる。


 地勢は、郡東端にある日山を最高峰として中小の山岳が乱座し、西方の阿武隈川へ近付くに従い平地が広くなる。山岳の谷間を縫うように川が縦横に流れ、それらはいずれも阿武隈川へ注ぐ。小浜川は塩松の中央を南北に縦断、口太川は塩松の東部から南部へ大きく囲繞するように西流する。この両川は小浜北方にて合流、更に阿武隈川へ注いでおり、この二つの川に平行して主要道が走っている。


 戦国期、塩松は石橋氏の領分となっていた。石橋氏は足利一門として室町前期に奥州へ下向し、塩松に土着した名族である。

 塩松は石橋氏以前から、宇都宮氏や吉良氏といった名門が拝領していた由緒ある土地柄で、石橋氏もまた、二本松の畠山氏と並んで南奥に重きを為していた。


 石橋氏の居城は、住吉城と塩松城の二つが本城として存在する。両城は口太川を挟んで東西に隣接しており、蛇ヶ淵の渡しや幾つかの小橋で連結している。そしてそれぞれ東の新殿、西の小浜などの城砦に向けて街場が展開され、本城を中心とした防衛圏とでもいうべきものを形成しており、重臣の居館の多くがその範囲に収められていた。即ち両城は、周辺部も含めて広大な一つの城域、それぞれを曲輪・出城という位置付けとして把握することができよう。


 大内定綱は天文十五年(1546)、塩松の小浜に生まれた。父は石橋式部大輔尚義の筆頭家老、小浜城主備前守義綱。母は常州太田城主佐竹義篤の娘という。幼名は大阿弥丸。幼くして才気が走り、性は淡白にして礼を重んじ、大声を出して騒ぎ立てるようなこともないが、かといって沈鬱な風情もなく、いつも気付くとその場の空気に馴染んでいる。一方で怜悧な面を持ち、親しい朋輩や近習の些細な誤りであっても厳しく咎め立て、自ら裁くことを快しとする趣もあった。


 大阿弥丸の名は、石橋家が篤く帰依している時衆に因る。

 天文初頭、尚義の父先代定義は隠居後入道して静阿を名乗り、居城住吉城域に十願寺金山道場を開山、塩松に於ける時衆の根拠と為した。その影響によって、嫡男の尚義はもとより、家中諸士に至るまで時衆を嗜んだ。何阿、何々阿という名を好むのは、時衆の特徴である。即ちそれが大阿弥丸の命名となった次第で、石橋家中ではこれまでもしばしば用いられてきた幼名である。


 隠居後も大御所として内外の政事の中心に居座り続けていた定義が天文十四年に死ぬと、当時その筆頭家老の地位にあった義綱の父義生も後を追って腹を斬った。

 かくして、慌しく政権の世代交代が遂げられ、前もって尚義付きとなっていた義綱の時代がやってきたのである。そんな中での嫡男の誕生は義綱にとって、政権掌握に花を添える、洋々たる未来を約束するものと感じられたに違いない。


 しかし、時代はその祈りとは反対に混迷の一途を辿り、やがて塩松にも暗い影を落としてゆくことになる。


 当時、巷では伊達稙宗・晴宗父子の相克、所謂「伊達天文の乱」が南奥羽全域を席巻していた。

 この擾乱は、天文十一年に晴宗が稙宗を当時の伊達氏本拠西山城に幽閉したことが、発端となっている。父子不和の原因は様々取り沙汰されているが、争乱に至る直接の原因は、稙宗の三男時宗丸が越後国守護上杉定実の養子となるに当たって、稙宗がその護衛として精兵を多数付けようとしたのに対し、晴宗が異を唱え入嗣自体を阻止しようとした為とされる。


 晴宗の思惑は一応遂げられたものの、事態は思わぬ方向へ進んだ。

 幽閉されていた稙宗はその寵臣小梁川日雙によって救出されると、周辺諸氏の協力を得て反撃に転じたのだ。


 伊達家中には晴宗を支持する者が多かったものの、周辺諸氏の多くが稙宗を支援したことから、開戦当初は稙宗党の勢力が晴宗党を圧倒していた。その主勢力となっていたのが、田村隆顕・懸田俊宗・相馬顕胤といった稙宗の女婿達や畠山家泰・義氏兄弟・石橋定義などである。この中でも老練な定義は、所領が彼らの中心に位置することもあって、諸勢力間の連繋を取り持って糾合するのに大きな役割を果たしていた。


 しかし定義の死後、残された尚義に父の代役は果たせず、稙宗党の足並みは次第に乱れていった。そこへすかさず晴宗が内応の手を差し伸べたものだから、諸氏家中内部で対立関係が生まれ出した。各々自領内の平定に力を尽くさねばならぬ状況となり、稙宗への協力を控えざるを得ない者が多くなる。その為、元々伊達家中では支持者の多かった晴宗の方へ、一気に流れが傾いていった。すると諸氏の間でも、その動きに敏感に反応した者から次々と鞍替えしてゆき、その傾向に拍車を掛けた。


 塩松でも、義綱が中心となって逸早く晴宗支持を表明、亡父の遺志を尊重して稙宗党に固執する尚義へ否を突き付けた。そして次々と家中諸士を糾合していって主君の手足を奪い、最終的に尚義に晴宗と誼みを通じさせるに至った。


 この騒乱は結局、同十七年秋に至り、足利将軍からの重ねての和睦命令に従う形で終結を迎えた。但し、終結したのは父子相克のみであり、そこから派生していた数多の対立関係は、その後も延々と続くことになる。

 この争いが奥州に於ける戦国時代の皮切りとされる所以である。


 その中で大阿弥丸は、僅か安達半郡の塩松を守る為に汲々とし、ときには下手な謀略にまで手を染めている父の姿を、鼻先しか見えぬみみっちい男として他山の石と見なしながらも、心の奥底では本人の気付かぬ内に鏡として培っていた。


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