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すぐさま摂津が口を添えて、話の進展を促した。
「何卒、太郎殿に賜わってくださりませ。何の働きもしていないそれがしらには、何の恩賞も頂戴する権利がありませぬ」
「うむ? 太郎にか……」
尚義は意外な顔をした。
義綱も摂津の顔を見、次いで後ろの斉義を振り返った。顎を突き出し、目は丸かった。斉義は、その意図せぬ滑稽さが、却って不快に感ぜられた。
大内の惣領は義綱であり、大内に下すとなれば、普通に考えれば、それは義綱へ下すことを意味する。されど「太郎に」と特に名指しで斉義へ賜わるということは、斉義が義綱の嫡男であることを鑑みれば、異例と感じられることである。
しかし今後のことを思えば、斉義にとっても摂津にとっても、斉義を義綱から独立したものと前提しておくことは都合の良いことだと、事前に申し合わせが成っていた。
それは、斉義が義綱に説明していない分野のことである。
意を酌んだ斉義が、一気に畳み掛ける。
「私は大内の嫡男でありますれば、戸惑われるのも致し方のないこと。されど今、宮森城を拝領し小浜城を出ることは、大内の家を捨てて別家を立てることには当たりませぬ。私はこの拝領を終生の誇りと為し、忠孝の証しにしたいと思います。よって殿におかれましては、今後私の働きが不足と思われましたれば、いつでもお取り上げられますように」
「う、うむ。そうじゃな。確かに、後々のことを思えば、助右衛門にもよきこととなるやも知れぬ。備前、其方がよければ、太郎に預けてみようと思うがどうか」
「わっ……たくしの方には、異存はござりませぬ」
かくして宮森は、義綱でも摂津でもなく、斉義に与えられた。
斉義は、城内本丸の焼け跡に簡素な居館を築くと、自分の近習を伴い、また家中諸士から新規に部屋住みの者を何名か召し抱え、志保を伴い早々に遷り住んだ。
街屋敷には、長門義員を住まわせた。
事変当時、この街屋敷には、備中の歳若い妾と所生の幼児、そして宗四郎の父母がいた。親綱に屋敷を接収された後、彼らは尚義の沙汰により退去を命ぜられたが、一族の者は皆関わり合いを避けて受け入れを拒否した為、行き場を失ってしまった。当座の措置として一時的に在家の者に匿われてはいたものの、それも長期に亙ることは憚られ、長門が屋敷に入る頃には再び路頭に迷う憂き目に瀕していた。
そのことを伝え聞いた長門は、備中の妾を召して母子の保護を申し入れた。しかし妾は長門主従の面前で罵倒して拒絶し、更に懐刀にて長門に向かって粗相を働こうとしたことから、やむなく子諸共斬殺に処された。
宗四郎の父母は猶も一年、山中にて匿われていたが、斉義や長門が宮森の邑民と馴染み、周辺事情の急激な変化の中で事変が忘れられてゆく過程を目の当たりにして、いよいよ行く末に絶望し、刺し違えて死んだ。
即ち、城下の邑民も始めのうちは新しい領主に対し不信を顕しており、長門が備中の妾と子供を斬ったことから、一時住処を離れる者もいたが、長門は持ち前の気さくさからすぐに彼らと打ち解け、また同時に斉義に対する不信感も拭われていった。
親綱に対しては小浜を、そして父を頼むと改めて託した。そう確認しておくことが父の為でもあり、親綱の為にもなると思ったからだ。
斉義は、主家からの出戻りとなって以来、親綱はもとより、父からも万事どこか遠慮されているように(思い過ごしと自覚しながらも)感じられ、斉義の側としても、こと親綱に対しては、申し訳ない気持ちがあった。父の後継には親綱が相応しいと斉義は思っており、情深い親綱を父の側に残すことで、今後訪れる筈の難局に向けて精神的な支えになってくれるものと期待していたのだ。
斉義の石橋家中に於ける立場は、依然義綱の後嗣ということから無役のままではあったが、父義綱現役のまま、周囲は大河内備中の名跡を継いで実質的な家老格と見なす者が多かった。
周囲への遠慮からか義綱だけはいい顔をしなかったが、斉義も平然と宿老会議のような場へ出向き、父の名代としてでもなく座を占め、発言するようになっていた。
今回の事変の結果として、松丸の地位には手が付けられず、その母も塩松城にて引き続き起居していたが、かつての威勢はすっかり失せ、追従する者もいなくなった。