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弘治の頃(1555~58)。塩松は小浜城。
ある昼下がり、大阿弥丸は私室にて、傅人と共に史籍の回読をしていた。
「――壬午 入 吉野宮 時左大臣蘇我赤兄臣 右大臣中臣金連 及大納言蘇我果安臣等送之 自菟道返焉 或曰 虎着翼放之 是夕 御嶋宮――」
『日本書紀』巻第二十八、天武天皇の即位前紀の件である。
大海人皇子は、この大津を出た翌日(天智天皇十年十月廿日)に吉野へ入り、翌年夏までの半年余りを当地にて頓居する。そして、病床にあった天智天皇が死んだ後、遺児たる大友皇子が自分を弑しようと計画していることを知るや、僅かな兵を率いて打倒に立つ。そして諸勢力を糾合しながら北へ攻め上がり、挙兵からひと月後には大津朝を滅ぼしてしまう。
寡兵にて立ち、大敵に当たってそれに打ち勝つ。
英雄譚はいつの世も子供の心を惹き付ける。
大阿弥丸もその例に漏れず、退屈な話の羅列に見える『日本書紀』の中で、ここからが最も好きな箇所に当たる。この分冊ばかりはもう幾度も読んでいるのに、心は逸った。
そのとき、父の小姓がふすま越しに声を掛けた。
「お父上様がお呼びです」
大阿弥丸は落ち着いた表情で頷いて見せたが、回読の腰を折られたことに不快を得、不意の呼び出しに戸惑い、思い浮かばぬその用件を訝しんだ。そして父の書斎へ歩を進めるに伴い、心が石のように重くなってゆくのを感じていた。
父にしてみれば、いずれ自分の名跡を継がせることになるであろう嫡男のこと。一族の繁栄、そして主家の栄耀の道を託すことになる以上、万事につけ、高みを目指す気持ちを持ち続けるようにと、薫陶してきたつもりだろう。妾腹の子も幾人かいるが、正妻腹で長男となれば、次代の惣領となることはもはや誰の目にも疑いない。
大阿弥丸には、そんな父の評価が狭い了見に捉われているように思われ、殆ど顔を合わせぬ日などないにも関わらず、肉親にも関わらず、馴染むことができないでいる。父の気持ちが解らぬ訳ではない。ただ、惣領としては兎も角も、次代の筆頭家老と言われても、ピンと来なかった。
主君には男子がいない。とすると、いったい自分は誰に仕える為にこのような教えを受けているのだろう、という疑問がずっとあったからだ。
ただ、斯様な期待は余計なお世話と感じつつも、書物も弓馬も嫌いな性質ではないことから、常に自ら進んで鍛錬している。そんな前向きな姿勢に対してまでも更なる啓蒙を求めてくるものだから、一層父を避けるようになっていたのだった。
大阿弥丸は書斎に入って父に対座すると、暫くの間その凝視に晒された。父は珍しいものでも見るように、目を丸くしてジロジロと大阿弥丸の容貌と所作を細見している。
その、いつもは見せぬ父の仕草に、どこか殺気にも似た鬼気迫るものを感じ取った大阿弥丸は、頻りに逃げ出したい衝動に駆られたが、正座した膝の上で拳を握り、じっと我慢していた。
父がおもむろに口を開いた。
「其方を、……養子に出すことにあいなった」
父の膝下の辺りを見つめていた大阿弥丸は、その言葉に対し反射的に目を上げた。耳を疑って問い質したかったが、呑んだ息が継げなかった。
父の後継者となることを疑わなかったからこそ、今の自分がある訳で、それを否定されてしまっては、致仕・放逐と一緒だと思った。
父が言葉を継ぐ。
「――殿の婿となる」
「……えっ?」
漸く言葉が出た。
主君には、女子も一人いるきりだった。名を志保という。その母は父の妹、つまり大阿弥丸には叔母に当たるので、この女子とはいとこ同士ということになる。
この志保姫は大阿弥丸より少し年上で、主君はこれに婿を取るべく周辺諸氏に様々働き掛けてきたのだが、なかなかまとまらないでいた。
大阿弥丸はずっと、自分はその姫君の婿に入った者の家老になるのだという、漠然とした思いで系図上の彼女の位置付けを意識しており、彼女自身というものに関心を払ったことなどこれまで殆どなかった。ただ子供心に、まだしっかり見たことのない姫君のことを、その縁遠さから、余程の醜女なのだろうと勝手に思っていた。その程度の存在である。
自分がその婿に入るとは、ゆくゆくは名代にでもなり、姫との間に生まれる子供に「塩松殿」の名跡を譲る役回りになるということである。
大阿弥丸は何とも実感がなく、半ば放心状態の父に倣って神妙に座っていた。
初投稿なので、行間の空け方やら1回分の長さやら、手探りです。
ご了承下さい。