第9話 たった一つの覚悟
夕方の水遣りをして、道具を片付け終えた。片付けた後に、耕太は今日一日の作業進捗を改めて見てため息をついた。
作業は予定していた半分ほどしか進んでいなかった。一人だというのもあったが、どちらかというと作業に気が入らないでいたのが原因であった。
「こういう日もあるよな」
耕太は自分で自分を納得させて、家路についた。
空は西から東へ、朱色から藍色へのグラデーションが塗りつぶしていた。焼けたアスファルトが放つ熱でまだ暑気は消えないが、公園の脇を通る時に感じた風は汗ばんだ身体をほっとさせてくれた。
耕太は妙におなかが空いてきて、まっすぐ帰らずにスーパーに寄り道することにした。帰ればすぐに夕食だろうが、育ち盛りの彼の胃袋には少しぐらいの買い食いなどは誤差の範囲である。これまでも何度か、耕太は帰りにスーパーの惣菜売り場の安売りコロッケを買い食いしていた。
耕太はスーパーの自転車置き場に自転車を置き、顔見知りのパートのおばちゃんにこっそりと割引シールを張ってもらった。レジを済ませてスーパーを出ると駐輪場に向かう途中の、買い物客から死角になるところでコロッケの包みを開けた。
「近所のおばちゃんにみつかると、お母さんに告げ口されちゃうからなー」
耕太は噂が好きで詮索好きの素敵な主婦の方々を思い浮かべながらコロッケをかじった。
油の強い、お世辞にも上品な味ではなかったが、食べ盛りの耕太には満足いくボリュームと味であった。
スーパーの周辺は日中の暑いときの買い物を控えていたのと、閉店間際の値引きを狙った主婦たちでにぎわって、あちこちで井戸端会議が開催されていた。
「――ねえ、きいた? あの話」
耕太がいるのを気が付かずに、彼のいるすぐ近くで何人かの主婦が集まって立ち話を始めた。耕太はそんなことは気に留めずにコロッケを食べることに集中した。
「ええ、聞いたわよ。かわいそうね~」
主婦の誰かが応じたのをきっかけに井戸端会議はスタートした。耕太は「よく毎日話すことがある」とコロッケをほおばりながら感心した。
「なに? 何の話?」
「友坂さん家のお嬢ちゃんの話よ」
耕太の体がぴくりとはねた。友坂という姓は珍しくないが、多くもない。
「あの娘さんがどうかしたの? 元気がよくって、勉強ができて、評判の子だけど?」
耕太は美津紀のことだと確信して耳をそばだてた。
「それがね、どうも病気になったらしいのよ」
|(病気? 夏風邪のこと? 前の入院のこと? だけど、そんなこと話題にするのか?)
「ほんとなの? この間、元気そうに歩いてたわよ」
|(そうだよ。毎日、バラ園の世話してるんだ)
「本当なのよ、それが。偶然、その話をしているところを聞いちゃったのよ。もう、びっくりしたのなんの。もう永くないんですって、この夏休み、もつかどうかっていう話よ」
|(うそだ!)
耕太は手に持っていたコロッケを思わず強く握った。具がはみ出て無残な形になったが、今はそんなことはどうでもよかった。
しかし、他の主婦から出てくる情報はその噂が真実であることを示すものばかりであった。通っている病院、主治医の先生の専門、はたまた飲んでいる薬の種類まで知っていた。
「いい娘だったのに、かわいそうね」
「ほんと。でも、健康が一番よね~。そう言えば、カルビさんの『おもこってりテレビ』視た?」
「視た視た! 紅茶きのこが――」
あとの会話は耕太の耳には入ってこなかった。どれぐらいその場所にいただろうか、日は完全に沈んですっかりあたりは暗くなっていた。いつの間にか座り込んでいた耕太はのろのろと立ち上がり、ふらつきながら家に帰った。
家に帰ると遅い時間までうろついていたことを母親が叱ったが、心ここに在らずの耕太にはヌカに向かって五寸釘を打っているようなものであった。手ごたえのない説教に母親の伝家の宝刀『晩御飯抜き』が炸裂したが、耕太は何の反応も示さずに自分の部屋へと引きこもった。
耕太はベッドに腰掛けて、目は開けていたが、何も見ていなかった。おなかが空いたような気がするが、どうでも良かった。とにかく、今は何もしたくない。何も考えたくなかった。
耕太の部屋の扉が軽い音を響かせた。
「耕太。入るぞ」
許可を貰う前にドアノブを回して、耕太の兄、正輝が入ってきた。手にはラップをかけたおにぎりと麦茶のボトルが乗っかったお盆を持っていた。
「とりあえず、風呂に入ってこいよ。汗まみれだろ?」
正輝はお盆を耕太の学習机の上に置くと机の椅子に腰掛けた。
「おふろ?」
耕太は不思議そうに正輝を見た。何でお風呂なんだろう? 耕太は正輝の真意がわからなかった。
「さっぱりするぞ」
正輝にそういわれると、なんだかそうなのかもしれないと耕太はのろのろと立ち上がり、風呂場へと向かった。
三十分ほどして、耕太がお風呂から上がってくると正輝は黙って食事を載せた盆を差し出した。耕太がお風呂に入っている間におにぎり以外のおかずが追加されていた。おそらく正輝が作ったのだろう。彼が得意な手間ひまかけない男の小手先料理であった。
耕太は何も言わずにそれを夢中になって食べた。まるで何日も食事をしていないかのような食べっぷりだった。
「父さんと母さんはカラオケに行った。多分、夜中まで帰ってこない」
正輝は麦茶をコップに注いで耕太に差し出した。耕太はそれを受け取り、一気に飲み干した。
「兄ちゃん……」
「なんだ? お金の相談以外なら乗ってやるぞ」
正輝は自分のコップにお茶を注ぎ、空になっている耕太のコップにも注いだ。
「にいちゃん……」
耕太は止まっていた時間が動き出したかのように目からぼろぼろと涙を流し、今まで見せたこともないような大声で泣き始め、正輝にしがみついた。
正輝はそれを受け止め、ただ黙って泣かせていた。
どれだけ泣いたか耕太はわからなかったが、あとで正輝に聞いたところ、四十三分十二秒だったらしい。知らない人が聞けば適当というかもしれないが、こういうときの数字は意外とちゃんと測っていたりするのが正輝の正輝たるゆえんである。
落ち着きを取り戻した耕太は自分が聞いた噂話を正輝に全て伝えた。
「単なる噂話とは思えないというわけか」
正輝の言葉に耕太は頷いた。
「まあ、お前の話が本当なら、条件がそろいすぎていて間違いないかもしれないな」
耕太は正輝の分析を聞いて歯噛みした。それは自分のものと同じであった。違う結果を言って欲しかったが、それがありえないだろうこともわかっていた。
「兄ちゃん、どうしよう? 僕、ミツキちゃんに言った方がいいのかな?」
耕太はぼそりと呟いた。噂が本当なら美津紀には力いっぱい残りの時間を生きて欲しい。耕太はそう思い始めていた。
しかし、その呟きを聞いて正輝の顔が険しくなった。
「一つ訊くが、お前が美津紀ちゃんに『耕太の命は一ヶ月です』って言われたら、どう思う?」
「え? 冗談だと思うに決まってるよ」
「それが冗談じゃないといわれたら?」
不思議そうな表情の耕太に正輝は重ねて訊いた。
「そんな事言われたら、どうしたらいいかわからないよ。ショックで立ち直れないかもしれない」
耕太は困ったように正輝の質問に答えた。
「そしたら、美津紀ちゃんも同じように思う可能性があるってことだな」
「あ……」
正輝の言葉に耕太はやっと質問の真意に気がついて声を失った。しかし、それでも心にしこりが残った。
「で、でも……」
「お前の言いたい事はわかる。何も知らずに死んでいくのはかわいそう。残りの時間を有効に使って欲しい。そういうことだろ?」
「うん……」
言いたい事を先に言われ、耕太は素直に頷いた。
「だけど、それはお前の勝手な優しさだろ? かわいそう。なにかして欲しい。どっちもお前の感情しかないじゃないか」
耕太は正輝の言葉に氷水を浴びせられたように身を震わせた。まさに正輝の言うとおりであると思った。耕太の優しさは自己満足の優しさでしかない。
「暗い顔するな。中学二年のお前にそこまで悟れって言うのが酷な話だ。だけど、勝手な優しさを押し付けられるほうはもっと酷だぞ。その話をして、お前は美津紀ちゃんを残りの人生を精一杯生きるように導けるか?」
耕太は俯いてゆっくりと首を横に振った。その質問に首を縦に振れるのは、よほどの自信過剰の大馬鹿か、神様ぐらいだろう。
「そういうことだ。美津紀ちゃんの両親が彼女に黙っているのなら、お前も黙っていろ」
人の心に深く立ち入る事だけが親しさではない。ただ単に立ち入るだけなら、それは親しいのではなく、相手の心を蹂躙しているだけに他ならない。立ち入るのなら、それなりの覚悟を決めなければならない。その覚悟ができるから親しいのである。
「だ、だけど、そしたら僕はどうしたらいいんだよ」
耕太は俯いたまま心のままに叫んだ。正輝の言う事はわかる。しかし、耕太にはお説教よりどうすればいいかを聞きたかった。
「あんまり頼るなよ。俺だって、そんなに人生経験豊富じゃないんだからさ」
正輝は曖昧な苦笑を浮かべて、椅子に身体を預けて少し視線を上げた。それが正輝の考え事をするときの癖である事を知っている耕太は黙って彼の言葉を待った。
正輝はしばらく考えた後に答えを見つけたのか、視線を耕太に戻した。
「今まで通りでいいんじゃないか?」
「今まで通り?」
正輝が考え込んだ末の答えにしてはあまりにもあっさりとした答えに耕太はオウム返しに聞き返した。
「そう。今まで通り。一緒にバラ園の世話をして、一緒に勉強して、一緒に遊ぶ。それでいいんじゃないか?」
正輝も少し不安な表情をしながらも耕太に言った。
「だけど――」
「美津紀ちゃん。お前と一緒にいて退屈そうにしてるか?」
文句を言いかけた耕太の言葉を遮るようにタイミングよく正輝は訊いた。
「え? なんで、そんなこと訊くんだよ」
「いいから答えろよ」
「うーん、そんな風には見えないけど……バラ園の世話も自分からやりたいって言ったことだし」
訳がわからなくても、正輝の質問に素直に答えた。
「そうだろうな。好きじゃなけりゃ、やってられないよ」
正輝は耕太の解答で自信を持って頷いた。
「え? 好きって?」
耕太は不意に胸が高鳴るのを感じて顔が赤くなった。
「バラ園の世話がな。学校でもないのに朝早く起きて、土いじって、疲れて。好きじゃないとやれないだろ?」
正輝は耕太の反応が予想通りだったことに意地悪い笑顔を浮かべて彼の想像を否定した。
「あ、うん。そ、そうだね」
耕太は恥ずかしさと失意で俯きながら元気なく呟いた。さすがに正輝もそれを見て良心が痛み、耕太の肩をぽんと叩いた。
「落ち込むなよ。美津紀ちゃんが園芸マニアって聞いたことはないけど、どうだった?」
「え? えーと、今までまったく園芸なんてやった事ないって言ってた」
「女の子はお花は好きだけど、それを育てるのが好きな人はかなり減る。よっぽど花が好きじゃないとな。てことは美津紀ちゃんはお前といて楽しいから世話も続けているんだろ。それは自信持てよ」
「う、うん」
正輝に気がないわけじゃないとフォローを入れられ、現金にも気分が復活する単純さには嫌気が差したが、それよりも正輝の言葉の方がうれしかった。
正輝はそのわかりやすい様子に我が弟ながらシンプルなやつだと、半ば呆れて、半ばうらやましく苦笑を浮かべた。
「案外、自分のことを知ってるのかもな。美津紀ちゃん」
正輝はその可能性が高いと思ったが、それは口にしない事にした。たとえ、そうだとしても何も変わらない。変わるとしても悪い方向に向くような気がした。
一方、美津紀が自分に気があるかもしれないという言葉に喜んでいた耕太だが、現実の問題を思い出し、顔を再び暗くした。
「ねぇ……兄ちゃん。僕、自信ないよ。ミツキちゃんの楽しい思い出になれるなんて。特別なことなんてできないし……。どうすればいいと思う?」
「お前なぁ。他人にばっかり頼るなよ」
正輝はあきれて突き放すように言った。
「だけど」
正輝に突き放された耕太は再び涙を目に溜め始めた。
「わかった。わかったから、泣くな」
さすがに何度も泣かれるのは気が滅入るのだろう。正輝は必死に耕太の涙があふれるのを止めた。
「う、うん」
正輝の言葉に落ち着いた耕太が幼子のように頷いた。正輝は一つため息をついて少し居住まいを正した。
「お前、一期一会って言葉、知ってるだろ?」
「いちごいちえ?」
オウム返しの声に正輝は少し頭を抱えた。
「お前、もうちょっと国語の勉強しておけよ。一期一会って言うのはだな――俺とお前がここで今、会っている。明日も会えると思うか?」
「そりゃ、会えるに決まってるじゃないか。同じ家に住んでて、隣の部屋なんだからさ」
耕太はいきなりふざけた事を言い出す正輝に不審な視線を向けた。
「それじゃあ、俺が明日、交通事故で死んでもか?」
「え?」
死と言う言葉に耕太は過剰に反応して身体を緊張させた。
「たとえ話だ。不安そうな顔になるな」
正輝は苦笑して、耕太を安心させると言葉を続けた。
「だけど、そういうことだ。『朝には紅顔ありてタベには白骨となれる身』って、昔の偉いお坊さんが言っている通り、人間、次の一瞬に何が起きるかはわからない。今日会えた人と明日も会える保証なんてどこにもない。だから、出会った人には、どんなに親しい人でも丁寧にもてなそう。それが今生の別れ――最後の別れになっても後悔しないように。という茶道の教えの一つだ」
「へぇー。兄ちゃん、物知りなんだね」
「お前、今までどういう目で俺を見てたんだ?」
「こういう目」
耕太は珍獣や変わったものを見るような目をして見せた。
「こいつめ」
正輝は耕太の頭を軽く叩いた。
「ひどいよ、兄ちゃん。ただでさえ悪い頭がますます悪くなったじゃないか」
耕太は叩かれた頭を押さえながら軽口で文句を言った。
「そうか。それならもっと勉強しろ。すぐに元に戻る」
「むー」
「だが、その悪くなった頭でも充分わかっただろ? つまり、美津紀ちゃんと会うのは毎日が本当の意味で一期一会ってわけだ。わかるな?」
正輝は真剣な顔つきに戻って諭すように言った。耕太はふざけて誤魔化したかったが、それを許されないことを改めて思い知らされしょんぼりとした。
「うん……。だけど、それなら、なおさら、僕、どうしたらいいかわかんないよ」
「甘えるな、耕太」
正輝は驚くほど厳しく、静かな声で叱った。その声に耕太はびくっと震えた。
「美津紀ちゃんのことを思うんなら自分でどうするのがいいか考えろ。間違いを怖がって何もしたくないならそれでもいい。だけど、何かするのも何もしないのも自分で考えて、自分で責任を持ってやれ。これはお前と美津紀ちゃんの間の問題だ。他人の俺が口を挟めるのはここまでだ」
「兄ちゃん……」
正輝の言わんとすることはわかった。しかし、耕太は不安で仕方なく、すがるような目で頼りになる兄を見つめた。
「心配するな、多分、お前ならうまくやれる。協力はしてやるから、思ったようにやってみろ」
正輝はすがるような視線を正面から受け止め、自信に満ちた笑顔を浮かべた。耕太はその笑顔で信頼する兄がこれほど自信を持って自分のことを信じているのならできるかもしれないと、少しだけ不安が和らいだ気分になった。
「うん。僕、やってみるよ」
耕太の言葉に正輝は黙って頷き、頭を軽くなでてやってから部屋を出て行った。
部屋を出た正輝は口の端を思いっきり噛んだ。血がにじんで口の中に鉄くさい血の味が広がったが、それよりも苦いものが心の中に広がっていた。
「とんだ偽善者だな、俺も。逃げてばかりだ」
誰にも聞かれないように心の中で呟いた。そして、さらに、
「だけど、俺にはできないが、耕太にはできる。耕太は俺よりもすごい奴だからな」
そう続けると静かに自分の部屋へと戻った。