第6話 来年の夏
夏休みに入ってからの天気はそれまでの梅雨の湿気を抜き去ろうとしているかのごとく晴天が続いた。水をやる耕太たちも、この天気ではすぐに地面が乾くのではないかと不安になるほどであった。しかし、バラはそんな心配を他所に順調に成長を続けて、青々とした葉を茂らせて、太陽の恵みを吸い取っていた。
「さて、今日はこれぐらいにしよう」
耕太は作業を打ち切り、腰を上げた。
「まだ大丈夫だよ、コウちゃん」
「明日もあるし、気長にやろう。張り切りすぎるとばてちゃうよ」
短期集中よりも長期間の粘りと忍耐が園芸の才能である。耕太はペースを考え、根を詰めないことにしていた。
しかし、それは美津紀には不満らしく、残念そうな顔をしていた。そんな彼女に耕太は苦笑を浮かべた。
「それにさ、僕も宿題しないといけないから。また、兄ちゃんに手伝ってもらうと手数料取られるし、これ以上借金は増やしたくないよ」
「手数料取るの? まあ、正輝お兄ちゃんだし、やりかねないよね。でも、相変わらずなんだ」
美津紀は耕太の話に目を丸くしたが、自分の記憶にある耕太の兄を思い浮かべてすごく納得した。
「相変わらず鬼だよ、鬼」
耕太は頭の上に指を立てて顔をしかめた。美津紀はその姿におなかを抱えて笑った。
「じゃあ、一緒にやろ、宿題。わからないところはお互いに教えあったら早く済むし。ね、コウちゃん」
「え? いいの、ミツキちゃん? 助かるよ」
耕太は天の助けと喜んだ。彼女の成績は学年上位で、欠席していた数週間分もあっという間に取り戻していた。彼女の宿題を写せれば、万事オッケーと思うのも当然だった。しかし、優等生の彼女はしっかりとそれを見抜いていた。
「でも、写すのは禁止よ」
「げっ。ミツキちゃんのケチ」
釘を刺されて、耕太は膨れた。
「宿題は自分でしないと、ためにならないのよ。自分のためなんだから頑張りましょ」
「はーい」
優等生な言葉だが、不思議と美津紀が言うと嫌味がない。
二人は道具の片づけが終わると、一旦家に帰って、宿題を持って近くの図書館の自習室に集合することにした。
近くの図書館には勉強する場所として、受験生が好んで使う静かなと自習室と自由研究などをするための子供会議室の二つがあった。ただ、子供会議室は場所も奥まっているうえに宣伝不足も手伝って、あまり知られていなかった。自習室は夏休み中、ほぼ満席であるのに、子供会議室が満席になることはまずなかった。
耕太はスコップを筆箱に、肥料を教科書に持ち替えて、図書館に急いだ。自転車を必死にこいで急いだために汗だくの上になっていた。自転車を駐輪場に放り込むと図書館に備え付けられてあるウォータークーラーの水を一気飲みして、クーラーの風に当たり、やっと生きた心地を取り戻すことができた。
「ふう、極楽極楽」
「なに、おじいさんみたいなこと言ってるのよ、コウちゃん」
既に到着していた美津紀が涼しい顔で老人くさい耕太を茶化した。
美津紀は淡いブルーに白のストライプが不規則に入ったブラウスに、ライトブルーの格子柄のプリーツスカートという、少しお嬢様風のいでたちをしていた。耕太は彼女の制服かジャージ姿しか見ていなかったので、思わず見とれてしまった。
「ごめん。家を出ようとしたら、母さんと兄ちゃんが買い物、頼むんだもん。急いでそれを済ませてきたんだ」
耕太は胸の動機は走ってきたせいと決め付けて、平静を装う事に成功した。
「それはお疲れさま。もう席は取ってあるから」
「サンキュウ、ミツキちゃん」
美津紀は笑いながら、せっかくウォータークーラーのところまで来たのだからと、ボタンを押して水を飲んだ。その姿に耕太は妙に色気を感じて、収まりかけていた動悸が再び早まった。
「まだ、顔が赤いね。回復力なさ過ぎだぞ、コウちゃん」
水を飲み終えて、耕太の顔がまだ赤いのに気がつき、美津紀はからかうように耕太の額を指で軽くつついた。
「も、もう平気だよ、うん。顔は日に焼けてるだけだって」
「見栄張らなくてもいいのよ」
「見栄なんて張ってないよ」
耕太は思わず大きな声を出して反論した。
「図書館ではお静かに」
その様子を見ていたカウンターの司書が口に人差し指を当てて注意した。
「すいません」
二人は相手のせいで怒られたと、責任の擦り付け合いをしながら子供会議室に向かった。
子供会議室はちゃんと席を置けば、五十人ほどは入れるぐらいの大きさがあった。その会議室の真ん中には六人が向かい合って座る少し大きめの机が六つほど並べられており、壁際に四つほど二人が向かい合って座れる机が置いてあった。どれも子供が楽に座れて勉強できるように高さが低めに作ってある。
既に二、三の小学生のグループが自由研究発表のために調べものをしていて、少し賑やかであった。だが、それほど耳障りなほどでもなく、二人は取っておいた二人がけの席に座った。
中学生の二人には椅子が少し低く感じたが、二人ともやや小柄なこともあり、苦になることはない。
「さて、それじゃあ、数学からやりましょう。あたし、二週間ほど学校休んでたから、おしえてね、コウちゃん」
美津紀はそう言って、教科書とノートを取り出し、宿題の問題集を脇に置いた。
「僕が教えられるぐらいなら、期末のテスト結果で母さんに説教食らってないよ」
耕太は中の中から中の下を行き来している自分の成績で、学年上位の美津紀に数週間のブランクという程度のハンディキャップで同等に並べると思うほど勉強を甘く見ていなかった。そして、それはすぐに正しいということを証明された。
「ここが、こうして、こうなるから、このエックスが求まるの。わかる?」
美津紀の説明に唸り声を上げた。問題集の最難関問題に挑戦中である彼は頭が沸騰しそうだった。
「あー、ここまでは順調に来たのに。やっぱり、僕の頭だな」
最初は美津紀に、休んでいた時にやっていたところを耕太が教えていた。しかし、美津紀は耕太の説明ですぐに理解して、逆に彼に教えていた。
「そんなことないって。コウちゃんの教え方、とってもわかりやすかったもの。コウちゃんはやればできるって」
美津紀は耕太の園芸に関する知識の豊富さと記憶力やその応用力、肥料や薬品の濃度の計算などを簡単にやっているので、やればできると確信していた。実際、耕太の教え方は要領を得て、上手かったし、教えることで理解が深まったのか、美津紀のヒントだけで、難しい問題も間違わずに解いていっていた。
もっとも、教師が嫌がらせで入れたとしか思えない難関進学高校の入試試験問題には少々てこずっていたが。
「あーあ、来年は受験か。来年の今頃は、向こうの自習室で勉強の虫になってなきゃいけないんだろうな」
耕太は問題を解くのを一時中断して、背もたれに身体を預けた。そして、閲覧所をはさんで反対側の、ここから見えない静かな自習室の方を向いた。
「そう、だね」
美津紀は元気なく耕太の言葉に頷いた。
「ミツキちゃんは心配ないよ。それだけできるんだもん。どこの高校だって絶対合格するよ」
その元気のなさに耕太は少し心配と驚きを感じながらも明るく笑った。
「うん……」
「やっぱり敬信学院に行くの?」
敬信学院はこのあたりでは有名な進学校である。七年前までは敬信女学院といって、女子高だったが、少子化で共学になり、校名が変更された。清楚で人気のある制服と進学率のよさが競争率を上げており、共学になっても変わらず難関の進学校で女子に人気のある学校であった。
「あたしは、いけるんならどこでもいい」
美津紀は何かをかみ締めるように静かに言った。それが耕太には美津紀の受験に対する不安のように映った。
「だよな。でも、行けるんなら、僕も敬信学院、行きたいな」
「コウちゃんが?」
意外な台詞に美津紀は耕太の顔を見た。意外なほど真剣な彼の顔に美津紀は思わず、胸が高鳴った。
「今、僕じゃあ、無理とか、スケベとか思ったんだろ?」
敬信学院は元女子高ということもあり、男子学生のための設備や、男子への進学指導の経験が浅いところが指摘されていた。そいうことから、同じ難度の高い学校なら別の学校を選んだ方がいいといわれており、好んで受験しようという男子生徒が少なかった。そのため、共学になった今でも、ほとんど女子高という男女比を誇っていた。そのおかげで、『ハーレム学校』などと揶揄もされていた。
ちなみに、そのあだ名に釣られて受験する男も多かったが、容易なスケベ心では合格するのは難しい学校でもあった。いつしか、敬信学院の男子生徒といえば、『よっぽど頭のいい自信家か、よっぽどのスケベ』といわれるようになっていた。
耕太はそれを気にしていたのである。
「ううん。そんなことない」
美津紀は思いっきり首を振った。
「まあ、いいよ。スケベはともかく、今の僕の成績じゃあ、無理だからね。でも、がんばればいけるかもしれない」
「うん、コウちゃんならいけるよ。絶対」
真剣な耕太に美津紀は力強く頷いた。美津紀は耕太には本当にそれだけの力があると思っていた。だから、気休めではなく真剣に頷いた。
「僕が行けるんなら、ミツキちゃんもいけるよ。絶対」
耕太はその真剣な頷きに少し驚いたが、耕太も同じように真剣に頷いた。
「うん、そうだね」
「一緒にいこうね」
耕太は話が一段落すると、思い出したように言い訳を始めた。
「あ。これだけは言っておくけど、どこぞのバカ兄ちゃんみたいに『ハーレムと聞いていかないわけには行かないだろう』なんて理由じゃないからね。本当だよ。ちゃんとした目的があるんだから」
「わかってるって。コウちゃんがどんな男の子かは、よーく知ってるから。正輝お兄ちゃんとは違うことぐらいわかってるって」
美津紀は必死で言い訳する耕太をおかしそうに笑った。
そうしていると、向こうのテーブルで自由研究をしていた小学生の一人が二人のところへやってきた。
「おねえちゃんたち、ラブラブやなぁ。でも、イチャイチャするんは外でやってんか。そないにイチャイチャされたら暑うて冷房が利かんようになるわ」
その小学生は関西出身なのだろう、おっさんのような口調で二人を注意した。二人は気がつかないうちに、おしゃべりしてもいい会議室でも少しうるさいぐらい大きな声で話していた。
小学生たちに笑われながら、二人は小さくなって小学生たちに謝り、おとなしく勉強を再開する事にした。
「高校、か……」
美津紀は誰にも聞こえないように心の中で呟いた。しかし、それは彼女にとっては、考えられない未来の話であった。