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第3話 夜明け前

 梅雨明けするには少し早いが、ここ数日、いい天気が続いていた。空梅雨というわけではなく、梅雨の中休みで、週末には再び雨になるというのが天気予報であった。

 世間の主婦たちはその中休みの間にと、忙しく庭やベランダに洗濯物の白い花を咲かせていた。

 しかし、美津紀の部屋は明るい日光を拒むように硬くカーテンで閉ざされ、電気もつけられていなかった。

 もし、カーテンがあいていたら、電気がついていたら、その惨状に誰もが息を飲んだだろう。クッションやぬいぐるみのようなものが部屋の中に散乱し、一部は引き裂かれて、中の綿がはみ出して部屋に舞い散ってあった。綺麗に並べられるはずの本はめちゃくちゃに床に散らばり、その間に小物が散乱している。まるで、部屋の中を台風が通過したような、そんな散らかりようであった。

 その部屋の壁際に置かれたベッドの上でシーツにくるまり、小さく身を固めていた少女がいた。少し頬の痩せた顔色が悪い少女で、生気がまるで感じられなかった。だが、目だけは異様に光を放っていた。世の中全てを憎んでいる。そんな目をしていた。

「なんで、あたしだけ……」

 ベッドの上の少女、美津紀はそれまで幾度も繰り返された呟きをまた繰り返した。

 別の病院で検査してもらったが、結果は同じであった。

 美津紀の病気は末期になるまでおそろしく病気の進行が遅い。そのため、自覚症状は死の数日前まで全くといっていいほど無いのが特徴らしい。末期になって自覚症状が出てから検査をして、病名が判明すると同時に亡くなるケースも珍しくなかった。

 緩やかに進行し、ある一点を超えると一気に死に突き進む。その一点がいつくるのか、はっきりわからない。病気に気が付いてしまったら、いつ死ぬかわからない恐怖に襲われる。悪魔のような病気である。医師たちの言っている三ヶ月もはっきり言うと、あまりあてにできないものであった。

 しかし、美津紀にとって、その三ヶ月が、四ヶ月でも二ヶ月でも変わりはなかった。迫り来る死という絶望が間近であることは変わりないのである。

 病気がほぼ間違いないと知り、一時は自殺すらも考えたが、結局それはしなかった。

 病気に負けてなるものかという気持ちよりも、面倒だったという方が強かった。そんな事をしなくても、どうせ死ねんだから。美津紀は自殺を心配した両親に乾いた笑いでそう答えていた。

 恐怖に怯えて自暴自棄になり、周囲につらく当り散らした。だが、ひとしきり暴れると、そのたびに虚しさだけが募る。自分がどんなに暴れようが叫ぼうが、近づいてくる死は止まることはない。湧き上がる虚しさが心を蝕み、恐怖が膨らみ、また振り出しに戻る。

 あの日以来、地獄に続く螺旋階段を駆け下りるように、負のループを繰り返し、心をすり減らしていた。

 美津紀の目に涙が滲んだ。

「なんでよ? もう、涙は枯れたと思っていたのに」

 彼女はシーツに顔をうずめて、低い嗚咽を漏らした。


 数日後、何をするわけでもなく、美津紀は壁に身体を預けて、部屋を見ていた。

 あれほど荒れ果てた部屋は綺麗に片付けられていた。母親が掃除してくれたのである。暴れたのは数日前が最後だった。あとは生気が抜けた人形のように言われるがまま動き、食べて、寝ていた。

「もう、何もしたくない」

 美津紀はそう思っていたが、だんだんと死が近づいている事を思い出すと、それがとても怖ろしく感じるようになってきた。

「このまま、あたし、死んだら、何もしないで死んだことになる」

 この世に生きた証を何も残さずに消えていく。感情でもなんでもなく、本能的に背筋が凍った。

「なにかしなきゃ」

 そう焦ったが、自分に残された時間で何ができるのかと考えると、

「あと二ヶ月で何ができるのよ?」

 せせら笑う自分が現れる。結局、何もできないような気がして何もできず、貴重な時間だけが過ぎていった。

「もういいや」

 そう思う心と

「何かしなきゃ」

 と思う心が交互に浮いては沈み、沈んでは浮き、美津紀の心の中は以前にもまして荒れていた。

 美津紀はその日も何をするわけでもなく、心の中に嵐を抱えたまま部屋の窓から外を眺めていた。

 そんな彼女の家の前を一人の少年が楽しそうにスコップを担ぎながら通り過ぎようとしていた。泥で汚れたジャージを穿いて、昨日の雨のせいで蒸し蒸しした暑い日なのに長袖のシャツを着ていた。しかも、ご丁寧に首にはタオルを巻いて、麦藁帽子を背中に下げている。その姿はお世辞にも格好よくなかった。その少年も格好いいとは思っていないだろうが、そんな事は気にしていないふうである。

 美津紀はその少年を知っていた。小学校低学年までよく一緒に遊んだ、幼馴染みだった。小学校のクラスが変わって、女子は女子、男子は男子で固まるようになって、あまり遊ばなくなった。家が近すぎて、年賀状も交換しない。よく知っているはずなのに、ほとんど知らない男の子――遠野耕太(とおの こうた)

「コウちゃん」

 美津紀は思わず、窓を開けて、その少年を昔呼んでいた名で呼んだ。

 耕太は突然懐かしい呼び名で呼ばれて、驚いて立ち止まった。彼はきょろきょろと周囲を見渡したが道には人影がない。ふと、彼女の家を見上げて、美津紀を見つけて少し驚いた顔をしたが、すぐに人懐っこい笑顔を浮かべた。

「いま、僕を呼んだのって、友坂さん?」

「なにしてるの? スコップなんて持って」

 美津紀は自分でもびっくりするぐらい明るい声で耕太に問いかけた。彼の笑顔がそうさせた。彼はあまりハンサムではないが、昔から笑顔がかわいい。人を和ませてくれる笑顔をする。女子の間でも母性本能をくすぐると密かな人気があった。

「うん。学校のバラ園を世話してるんだ。学校のスコップは、今日はドブ掃除に使うから一本もなくって。仕方ないから、おじいちゃんの家から借りてきたんだよ」

 担いでいたスコップを軽く上げた。かなり使い込まれていたが、手入れが行き届いていて、太陽の光を眩しく反射した。

「バラ園? そんなのあったっけ?」

「あるよ。ほら、南側の池があるだろ? その横の災害備蓄倉庫の向こう」

 耕太は真っ当な学校生活をしているかぎり、行く事はまずない場所を口にした。美津紀は記憶の糸を手繰り寄せるが、バラ園などしゃれたものと一致する風景は思い浮かばなかった。

「あんなところに? でも、花壇はあったような気がするけど、バラ園だったの?」

「ずいぶんと長い間、手入れをしてないからね。花壇に見えたなら、まだましな時だったんだね」

 耕太は苦笑してその認識を認めた。彼が手入れを始めた時はゴミ捨て場と思ったほどの荒れようだった。忘れ去られる場所なのに不良の溜まり場にならなかったのは、体育教官室が近かったという偶然のおかげにほかならなかった。

「コウちゃんって、バラ好きだっけ?」

 美津紀は小首を傾げた。確かに、小学校の時も朝顔を他の誰よりも大きく立派に育てて、いっぱい花を咲かせたり、園芸が好きという、小さな男の子にしては変わった趣味ではあったのは知っていた。しかし、バラが好きというのはイメージになかった。どちらかというと、清楚な花が好きなイメージがあった。

「うーん、どっちかというと、あんまり」

 耕太は困ったように彼女の質問に答えた。

「え? じゃあ、なんで? 先生にでも押し付けられたの?」

「ちがうよ。自主的にやっているんだ。先生には許可してもらったんだ」

 窓から身体を乗り出す美津紀にあぶないと手振りで止めた。彼女は自分が二階の窓から話していることを思い出して、乗り出した身体を部屋の中へと引っ込めた。

 それを見て安心した耕太は話を続けた。

「バラは匂いがきついし、なんだか派手だから、僕の好みじゃないんだけどね。でも、みんなで見るのは楽しい花だから。ほら、なんていっても華やかだろ? それに、いい匂いがするからみんな見に来るし。せっかく、学校にバラ園があるんだし、もったいないなだろ? バラだって、綺麗に咲いてみんなに見て欲しいとおもっているだろうしね」

 耕太は好みではないといいつつ、楽しそうに語った。

「そうなんだ」

 美津紀は彼の屈託のない笑顔が眩しく見えて仕方なかった。まるで今の季節の太陽のように思えた。

「うん。それじゃあ、またね」

 彼は話を切り上げて歩き出そうとした。そのとき、美津紀はなんだか置いていかれる気がした。そして、その途端、頭の奥に何か光が差し込んだ。

「待って! あたしも手伝う!」

 美津紀は再び窓から身を乗り出して耕太を呼び止めた。

「え?」

「いいでしょ? それともだめ?」

 驚いて振り向いた耕太に美津紀はできるだけかわいらしく、精一杯媚びるようにお願いした。それが通用したかどうかは、耕太の顔が夏の暑さ以外で赤くなった事で証明されていた。

「いいけど、あんまり楽しくはないよ。疲れるし、土で汚れるし、虫だっているし」

 花を育てるのは綺麗で楽しい事ばかりではない事を知っている耕太は暗い顔をした。嫌になって途中で投げ出されるのはいいが、それで園芸を嫌いになられるのは悲しい。

「む、虫?! ……はあんまり好きじゃないけど……」

 美津紀はうぞうぞとはいまわる虫を想像して、少し顔を引きつらせたが、そんな事で引き下がるわけにはいかない。

「だけど、ちゃんとするから。いいでしょ? 一生のお願い」

 美津紀は両手を合わせて耕太に頼み込んだ。一生。という言葉を使った時、ちくりと胸が痛んだが、もうそれは振り返らない事にした。

「うん。そんなにいうんなら、いいよ。イヤになったら、やめてもいいし」

 一度言い出すと聞かない性格を知る幼馴染みは、彼女の変わらない性格に嬉しさ半分、苦笑い半分でバラ園再生委員会の入会を認めた。ちなみに現在のところ、会員は二人である。

「そんなことない。友坂美津紀に二言はないわよ。死ぬまでちゃんと手伝ってあげる」

「へいへい。大げさだな。それじゃあ、汚れてもいい服に着替えておいでよ。待ってるから」

 二階の窓際で胸を張っている美津紀に笑いながら、耕太は担いでいたスコップを降ろした。

「うん、すぐに行くから、待っててね、コウちゃん」


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