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第10話 僕にできること

 ほぼ日の出と同じ時間に合わされた目覚ましのベルが三回鳴らずに止められた。そのこと自体はいつもの朝と同じであった。ただ違っていたのは、いつもは寝ている耕太を起こしていた目覚ましが、起きている耕太に時間を知らせる役目に変わっていたことだった。

 兄の正輝に言われて耕太は昨日の晩から考え続け、考えに考え、考え抜いた末に、何も思いつかないまま朝を迎えたのであった。

 若いとはいえ慣れていない完全徹夜と、考えていたことの重さゆえにかなり衰弱して、目の下には大きなくまを作っていた。耕太自身、顔を洗う時に鏡を見て、引いてしまうほどひどい顔だった。

「こんな顔と心で今日、美津紀と会う事になったらひどい事になる」

 耕太はいっそ、今日は自分が休もうかと真剣に考えたが、いつもの習性のためか、着替えまで済ませて、台所に降りてきていた。

 休んで一日考えるにしても朝ごはんは食べなくてはいけない。そう思って、台所に入った。

「おはよう。すごい顔だな」

 なぜか台所にいる正輝に耕太は少し驚きつつ、朝食の支度にかかった。

「兄ちゃん、いつ寝てるの?」

「うーん、暇な時」

 あっさりと答える正輝に耕太は「一生、この人にはかなわない」と真剣に思った。それから何の会話もなく、耕太はインスタントの味噌汁を作り、ご飯をよそった。

「で、何も思いつかなかったというわけか」

 正輝の言葉に耕太は一瞬、手を止めた。

「それで今日は休みにして、一日考えるつもりなんだろ?」

 耕太は正輝の指摘に半分以上、そう思っていたので素直に頷いた。

「そうか」

 正輝がそう呟いた次の瞬間、電話がなった。腰を浮かしかける耕太を手で止めて、正輝が受話器を取り上げた。

「はい、遠野です。おはようございます。――はい。まだ、耕太は寝ているので起きたら伝えておきますよ。――はい。そうですか。わかりました。はい、わざわざありがとうございます」

 丁寧でそつのない対応をし終えると受話器を置いて電話を切った。

「美津紀ちゃん、今日もお休みさせてもらうって」

 正輝の伝言に耕太は無意識にほっと息を吐いた。しかし、すぐにそれに気がつき、奥歯をかみ締めた。

「今日もいい天気になりそうだな」

 落ち込んでいる耕太の前で正輝は能天気な声で外を見た。昇り始めた太陽が藍色の空を夏の空に変えていっている。

 正輝はいつの間にか用意していたのか、弁当箱と風呂敷包みをテーブルの上に置いた。

「はい。これが弁当。こっちが着替え。学校の水泳部顧問の新垣先生に頼めばシャワーを貸してくれるはずだ」

「兄ちゃん……」

「世話をサボったら折角のバラがだめになるぞ」

「……うん。そうだね」

 耕太は家の中で考えているよりもバラ園で手入れに没頭している方がいいと思った。バラ園の手入れに逃げていると言われてもいい。そう思うと、残りの朝食を胃にかきこんだ。使った食器を洗い桶に沈め、正輝の用意した二つの荷物をかばんに詰め込んだ。

「いってきます!」

 耕太はいつもと同じように元気に家を飛び出していった。たとえ、それが見かけだけであっても、いつもと同じように。


 バラ園は昨日と変わらぬ姿で耕太を迎えてくれた。そろそろまぶしくなってきた太陽の光が朝もやを消し去り、一輪も咲いていないバラ園に光の花を咲かせていた。

「よしっ!」

 耕太は気合を入れるため頬を両手で叩き、朝もやと共に心に溜まったもやを追い払った。

 バラ園の手入れは土いじりだけではない。壊れかけたアーチやテラスを修復するのもあり、柵や棚を作る大工仕事もある。師匠である神崎社長から分けてもらったセメントでモルタルを練り、レンガを組んで花壇を増設したりする土木工事もある。

 やらなければいけないことはいくらでもあった。

 耕太は昨日の予定だった作業を片付け、今日の作業に休憩無しでそのまま突入した。一睡もしていないのでダルさは少しあったが、真夏の太陽の下では落ち込む気にもなれず身体を動かし続けた。

 十時と三時に耕太の兄、正輝がスポーツドリンクとお菓子を差し入れに持って現れ、ほんの少しだけ作業を手伝って帰っていった。

「ありがとう、兄ちゃん」

「たまに土いじりもいいもんだな」

 園芸などしたこともないと思っていたが、意外に正輝の手際が良く、耕太は「本当に、あんたは何者?」と舌を巻いた。もっとも、手伝いが必要なことだけ手伝うとさっさと作業をやめて帰ってしまったが。

 しかし、耕太にとってそんなことはどうでも良かった。とにかく身体を動かして作業に集中した。流れる汗と土の香りが耕太の身体を包み込み、全てを忘れさせてくれた。

「おーい、遠野。シャワー浴びるんだったら、宿直室にいるから、言いに来てくれ。水泳部のシャワーはもう火を落として鍵閉めたから宿直室のを使わせてやる」

 西の空が茜色に染まりかけた頃、痺れをきらせた水泳部の顧問の先生がバラ園に顔を出した。

「あ、はい。すいません。もう終わりますんで」

 耕太は周囲が暗くなり始めている事に今更ながらに気がつき、泥だらけの手で顔の汗をぬぐった。あまり遅くなると道具を片付けるのが一苦労である。

 耕太は今でも地面が暗くて見えにくいが、道具を拾い集め、片付けを始めた。

 しかし、先生はバラ園の入り口で立ち尽くしていた。

「どうかしました? 先生」

 片付けにはしばらく時間がかかるのに、いまだバラ園の入り口で立ち尽くしている先生を不審そうに尋ねた。

「これ、お前一人がやったのか?」

「え? はい……いえ。僕と、ミツキちゃん――友坂さんでやりました」

 耕太はバラ園を振り返ってみて、胸を張って答えた。

(そう。僕とミツキちゃんでやったんだ)

 以前とは見違えるように整備されたバラ園。ほとんど枯れていたバラを植え替えたり、復活させたり。割れたレンガを入れ替えたり、曲がった枠をまっすぐにして。

 毎日毎日こつこつと少しずつ積み上げてきた努力の結晶。

「すごいな。本当に。お前がこのバラ園を修復するって言い出したときは、できないと思っていたが、やればできるもんだな。がんばったな、遠野」

 本心から感心して感嘆の声を上げる先生に耕太はなんだか恥ずかしくなり、西の空よりも顔を赤くした。

「ミツキちゃんも手伝ってくれたから……」

「そうか。友坂も。お前たち、二人は本当にすごいな」

 耕太からは逆光で先生の表情は見えなかったが、何かを含んだ声であったことは十分にわかった。

「はい。僕たちは最強コンビですから」

 耕太は何もかも飲み込んで力一杯の笑顔で胸を張って自慢した。

「ああ、そうだな。それじゃあ、早く来い。あんまり遅くなると家の人が心配する」

 先生は素早く向きを変えると、足早に校舎の方へと歩き去っていった。多分、先生も知っているのだろうと、耕太は先生の態度を見て直感した。だけど、それは話してはいけないことで、誰とも共有できない秘密であることもわかっていた。

「先生も辛いだろうな」

 まるで他人事のように耕太は呟いて、残りの道具を片付け始めた。汗が滴り、地面に落ちた。その汗がどこから流れたのかは耕太しか知らない。


 二回目のベルで目覚ましを止めて耕太は布団から起きた。昨日の作業はどう考えてもオーバーワークであったために全身が軽く筋肉痛に襲われたが、ちょくちょくあることなので騒ぎ立てはせずに着替えを済ませて下へと降りた。

 結局、昨日一日作業に没頭して出た結論は――

「僕にできることは何もないけど、ミツキちゃんと一緒にバラ園を世話して、最期までミツキちゃんの最強コンビの相棒でいることはできる」

 吹っ切れたというよりも吹っ切った。そんな感じであった。

 耕太は兄に教えてもらった一期一会という言葉は、自分が明日死ぬかもしれないことも言っているように思えた。そして、だから毎日を一生懸命に生きろとも。

「ミツキちゃんの残りの人生を一生懸命生きるのも、僕の残りの人生を一生懸命生きるのも同じことなんだ」

 それがあっているのかどうかはわからないが、できることといえばそれだけで、それは今まで通りなのであった。

「結局、兄ちゃんの手の平の上か」

 耕太は最終的に出した結論が兄に言われたことと同じで少々不満であったが同時に安心もした。

 耕太が台所に行くと、やはり兄の正輝が濃い紅茶をストレートで飲んでいた。テーブルの上にはなにやら難しい専門書が広げられている。

「おはよう、兄ちゃん」

「おはよう。今日はいい顔してるな」

 正輝は一瞬だけ視線を上げてにやりと笑うとすぐに視線を落とし、紅茶を飲みながら本を読み続けた。

 朝食を終えた頃に電話がなったが、正輝は本に集中して出る気配を一向に見せない。仕方なく、耕太が受話器を持ち上げた。

「はい、遠野です」

「あ、コウちゃん?」

 受話器から聞こえる明るい声に耕太は一瞬硬直した。吹っ切ったといえども頭の中だけである。実際に声を聞いたり姿を見れば、体が強張るのは仕方なかった。

 それでも耕太はなんとか平静を保った。電話で相手に姿や表情が見えないだけ助かった。

「え? あ、ミツキちゃん?」

「うん。おはよう」

「おはよう」

 電話で話すのに少し不慣れな妙な間合いが流れて、照れ笑いでも浮かべるように美津紀が話を続けた。

「ごめんね、二日もサボっちゃって」

「いいよ。しかたないよ、風邪だったんだし。でも、もういいの?」

「うん。昨日もいけたんだけど、お母さんがだめだって、どうしても出してくれなかったの」

「夏風邪はこじらすと大変だから、ちゃんと治さないとね」

「コウちゃんもお母さんと同じこと言うのね。大丈夫よ。あたしの身体はあたしが一番知っているんだから」

「うん。そ、そうだね」

 耕太は美津紀の台詞に過剰に反応しないように少し深呼吸するようにゆっくり答えた。

「そうだよ。ということで、今日から友坂美津紀、バラ園復活委員会に復帰します。よろしくね、会長♪」

「うん、よろしく」

「それじゃあ、学校――」

 美津紀が電話を切る気配を感じて耕太の頭の中にひらめくものがあった。

「ちょっと、待って!」

「え?」

「あ、あの、僕、そっち行くから、ちょっと待ててよ。すぐに行くし」

「え? だけど――」

 不審がる美津紀に耕太は普段見せない強引さで押し通した。

「いいから、すぐに行くから」

「……うん。わかった。じゃあ、待ってる」

「うん。すぐ行くよ」

 耕太は受話器を置いて、本を読んでいる正輝を見た。

「兄ちゃん! じ――」

 耕太の台詞が終わらないうちに正輝はキーホルダーを投げて渡した。彼愛用のママチャリの鍵である。耕太の愛用のマウンテンバイクにはない装備がついている。

「二人乗りするんなら絶対こけるなよ。死んでもこけるな」

 本から視線を上げずに厳しい声で注意をした。美津紀の病名は不明だったが、血液関係の病気と予測はついていたので怪我させるのはどう考えても得策ではない。

「うん、わかってる。ありがとう」

「それと、向こうに行くまでに二人乗りさせる理由を考えていけよ。俺との賭けとかな」

「う、うん。わかった。ありがとう」

 耕太は先まで読んでいる正輝にすごさを感じながらも、ゆっくりしている時間はないと慌てて家を飛び出していった。

 学校と耕太の家と美津紀の家とを線でつなぐと、ちょうど正三角形を描いている。どちらの家からも学校へは三角形の一辺を走ればつくのだが、このとき、耕太は二辺を走って学校に行こうというのである。美津紀が電話の向こうで不思議がるのも無理はない。

 耕太はできるだけ急ぎながらも、その理由を頭をフル回転させて考えた。考え事しながら自転車で全力疾走は大変危険な行為であったが、幸運の女神様にでも守られたか無事に美津紀の家に到着した。

 家の前では美津紀が既に外で待っていた。全力疾走と頭をフル回転したおかげで余計なことを考えることなく耕太は自然に手を挙げた。

「おはよう、ミツキちゃん」

「おはよう、コウちゃん。なんだか二日だけなのに久しぶりって感じがするね」

 美津紀は照れたように笑った。

「そうだね」

「でも、わざわざこっちに来るなんて。借りてた図鑑だったら持って行くつもりだったのに」

 美津紀はかばんの中から花言葉図鑑を取り出そうとした。

「しばらくは使わないから持ってていいよ」

「そうなの? じゃあ、なんで?」

 それを聞いて美津紀はますます不審そうに耕太を見た。あらかじめ言われていなければ、今頃、墓穴を掘っていただろうと耕太は兄の先読みに感謝した。

「ちょっとね。兄ちゃんと賭けをする事になったんだ」

 先読みしてもらっても結局いい案が浮かばなかったので、兄のヒントをそのまま借用することになったのだが。

「賭け?」

「うん。この間、言ってただろ? 兄ちゃんにお金を借りてるって。アレを帳消しにしてやってもいいって言われたんだ」

「ほんと? 正輝お兄ちゃんがそんなこというなんて信じられない!」

 美津紀は自分の知っている耕太の兄、正輝の人物像からその台詞が出るとは心底、信じられなかった。

「確かにね。でも、その代わり、夏休み最後の日に家から二本杉の丘まで自転車で三十分以内で行けたらって条件付なんだ」

 二本杉の丘は近くにある丘で、高さはさほどではないが高低差があり、道路の勾配もきつい。普通に行けば四十分でも速いほうであった。

「三十分。かなり無茶ね。ということは行けなかったら?」

「兄ちゃんの大学の学園祭で売り子をさせられる。もちろん、ただ働き。借金もそのまま」

「無謀な賭けね」

 美津紀は時々、遠野兄弟は賭けをするのは知っていたが、毎度あきれさせられると心の底からあきれた。

「ということで、トレーニングのために毎日、ミツキちゃんの家に寄って脚力を鍛えようと思うんだ。協力してくれる?」

「協力って言っても、朝、待てばいいだけでしょ?」

「できれば僕の自転車の後ろに乗って欲しいんだ」

「え? 二人乗りは違反よ」

「うん。わかっているけど、夏休みが終わるまでの間だけでいいから。絶対こけないように安全運転するし」

 耕太は必死に拝み倒した。あまりに必死で拝まれるので美津紀は正直迷った。

「うーん……」

「お願い。僕の借金を帳消しにできるチャンスなんだ、ミツキちゃん!」

「もう、しかたないわね。いいわよ。乗ってあげる」

「本当?」

「相棒にこれほど頼まれて断れると思う?」

 美津紀は苦笑しながら自分の自転車を置き場に戻した。

「ありがとう、恩に着るよ」

 美津紀は耕太の自転車の後ろに横のりして、片手を荷台、片手を耕太の腰に巻きつけた。落ちないようにしっかりと身体を密着させる美津紀に耕太の心臓は自転車をこぐ前に破裂寸前にまで脈拍数が上がった。

 何度か密かに深呼吸をして、鼓動を落ち着かせると耕太は平常心で首をまわして後ろを向いた。

「それでは、出発いたします、姫」

「うむ。よきにはからえ」

 ノリのいい返事にお互い笑いあうと耕太は前を向いて自転車をこぎ出した。


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