第1話 健康優良児の憂鬱
テレビの天気予報士が梅雨前線の話題を取り上げて、見慣れた半円と三角のくっついた万国旗のような線が北上、南下と忙しく説明していた。しかし、結局のところ、天気は雨というたった一言で終わってしまう。そんな季節のこと。
うっとうしい長雨があがり、久々に見る太陽のまぶしさに美津紀は目を細めた。
五月の連休明けから体調がいまひとつで、最初は「五月病だろう?」と家族はみな笑っていた。美津紀も「ひどい家族」といいつつ、自分も笑っていた。
というのも、保育園年少組から中学二年の今まで無遅刻無早退無欠席、インフルエンザによる公欠もなしの完全無欠の皆勤賞をとっている健康優良少女であったので、自分の健康にはかなりの自信を持っていた。おおかた、連休に行った家族旅行の疲れが出ただけとたかをくくっていた。
しかし、一向に倦怠感が抜けないので親戚の伯父が勤めている病院で検査をしてもらったのであった。そして、今日がその検査結果を聞きに行く日であった。
「まったく、せっかくの土曜日でこんなに晴れているのに病院に行くなんてついてないわよ」
美津紀は中学二年の歳相応な幼さの残る頬を少し膨らませて文句を言った。
「結果を聞くだけなんだからすぐに終わるわよ。終わったら、お父さんも一緒だから食事に行きましょう」
彼女の母親は苦笑しながら膨れた娘をなだめた。
たかだか検査の結果を聞くだけなのに家族そろってお出かけなど恥ずかしかったが、外で食事というのは美津紀にとってうれしかった。しかも、前から気になっていたシティーホテルのランチバイキングである。そこの有名パティシエのイチゴを使った新作ケーキはクラスメイトの間でも噂になっている。
「あ。お姉ちゃん、よだれ垂れてるよ」
「え?」
美津紀は弟の指摘に思わず、口元に手を当てた。当然、よだれなど垂れているわけがない。花も恥らう乙女がそんな醜態を無意識でも晒すはずがなかった。
美津紀は偽の指摘をした弟をきっと、にらみつけた。しかし、生意気盛りの彼女の弟は「やーい、ひっかかった」という笑顔を返している。
「カツアキ!」
美津紀は姉の威厳を保つために弟を怒鳴ったが、あまり効果があるとは言えなかった。それがまた彼女の癪に障り、姉弟げんかに発展しようとしたちょうどその時、絶妙のタイミングで母親の一言が飛んだ。
「いい加減にしなさい、二人とも! そんなんじゃ、お昼は抜きよ」
鶴の一声。まさにそれであった。二人はおとなしく矛先を納めて、表面上仲良く病院へと向かった。
「こんな元気な病人がどこにいるんだろうね」
父親があきれたように苦笑した。その言葉に母親が「まったくね」と相槌を打って笑いあっていた。
二重になった自動ドアを潜り抜けると、外の湿度九十パーセントの世界とは別世界が広がっていた。快適な温度湿度がコントロールされた待合室はじっとり汗ばんだ身体には少し寒かったが、その冷たさが少し心地よかった。
基本的に紹介状がなければ診察してくれない地域の中心的総合病院であったため、待合室にいる人間もまばらで、少しのんびりした空気が流れていた。土曜日の診療は基本、予約した人間だけであり、今は昼前なこともあり、新たに診察を受けに来る人間はほとんどおらず、会計を待っている人が何人かいるぐらいであった。待合室に人が少ないことは美津紀を安心させた。
(もし、友達のお父さん、お母さんに会ったら、心配されちゃうもの)
美津紀は健康が何より一番の取り柄というのが彼女の友人の間での共通認識だった。本当は成績も良く、学年上位に常連で入っているし、顔もかわいい。性格も明るく友達も多い。面倒見がいいためか、友人たちの間ではリーダー的な存在でもあった。しかし、友人が彼女を最初に評すのは『元気娘』『健康優良少女』であった。
本人は「もっと他にあるでしょうが」と文句をいっているが、本心ではそういわれる事は嫌ではなかった。
その彼女が病院に行ったとなれば、友達が必要以上に心配するだろうことも予想の範囲内であった。
(健康優良少女も辛いよ)
美津紀は冗談めかして気障っぽくため息をついた。検査の結果を聞きに来ている割にはお気楽なものである。
本当のところ、体がだるいのは確かだったが、今ではほとんど元に戻っている。時々、不意に疲れが来ることがったが、すぐに復活していた。心配性の父親が伯父に相談して、あまりに心配するので伯父も仕方なく、自分の勤めている病院へ紹介状を書いたというわけである。
(『おとうさんは心配性』ってギャグ漫画があったけど、あんな変態お父さんにならないかしら? 心配だな)
美津紀はマニアックな漫画を思い出しつつ、名前を呼ばれるのを待った。
人が少ない割には、呼ばれるまでに時間がかかった。余裕を持って診察の予約時間前に来ているので、待たされるのはしょうがなかった。暇をもてあました美津紀は隣に座っている家族を見た。
弟の勝昭は雑誌コーナーにおいてある漫画雑誌に夢中で読んでいる。数週前のだが、読み飛ばしてしまったらしく、雑誌を見つけて喜んでいた。母親は女性雑誌を読んでいる。韓国の有名スターの裏話に食いついてしまったようだった。ああなると、鍋を焦がしても気がつかない集中力を発揮する。父親は家で取っていない新聞を吟味している。また、新聞を変えるための検討をしているのかもしれない。父親は新聞を変えるのが趣味のようになっていた。
どこにでもいる、ごく平凡な家族。美津紀は不意にその平凡さが心に染みて、急に胸が熱くなった。
「ともさか みつき様。友坂美津紀様」
名前を呼ばれて、はっとした美津紀は自分が泣いていないか確認してから立ち上がった。しかし、家族の誰も立ち上がろうとしない。
「お父さん、新聞読みにきたんじゃないでしょ。お母さんも、どうせ、その雑誌、帰りに買うんでしょ? カツアキもいい加減にしなさい」
美津紀は一緒に来ていながら本来の目的を完全に忘れている家族にあきれて、病院内ではお静かにという標語を無視して大きな声を上げた。彼らにとって健康優良児の美津紀の検査結果など、その程度のものであった。
父親など、美津紀のことを心配して検査を受けさせておいて、検査を受けたことで安心してしまい、心配が冷めればその程度であった。もっとも、美津紀が普段と全く変わりないのを見ていたので仕方ないといえば、仕方なかったが。
「ともさか みつき様。ともさか みつき様。いらっしゃいませんか?」
「あ、はい。すいません」
もう一度、看護師に呼ばれて慌てて返事をして、両親と共に診察室に入っていった。弟の勝昭は行っても仕方ないと、待合室で漫画を読み続けることにして、ついてこなかった。
美津紀は診察室に入ると消毒液のにおいが鼻について、ちょっと緊張した顔つきになった。
「おまたせしました、友坂美津紀さん」
温和そうな初老の医師が振り向きながら、美津紀の緊張を解くような笑顔を浮かべた。彼女だけでなく、両親も少し緊張していたのだろう、軽く息を吐く音が聞こえて、美津紀は苦笑した。似たもの親子である。
「ええと、検査の結果は……異常なし。たぶん、季節の変わり目で少し疲れが溜まっているんでしょう。早寝早起きと規則正しい食事と運動をしていれば、よくなりますよ」
医師は笑顔で美津紀の検査結果を伝えた。我知らずに美津紀は思わず、安堵の息を吐いて、慌てて口に手を当てた。
「心配してたんだね。大丈夫だよ」
医師は美津紀の頭を優しくなでた。そんなに子供じゃないと言いたいが、そのなでられる感触が心地よくて、言うタイミングを逃してしまった。我に返ったときには既になでられ終わった後である。
「先生、セクハラですよ」
何も言わないのは悔しいと美津紀は拗ねるように言ってみた。本気でないのは誰の目にも明らかである。
「美津紀! 先生に失礼でしょう」
それでも母親は世間知らずの自分の娘を戒めるようにぴしりと叱った。
「いやいや、これはレディーに対して私が失礼でした。お許しください、ミス・トモサカ」
医師は見かけによらず、優美な仕草で気品溢れる本物の英国紳士のように美津紀に謝罪した。それがまるで映画のワンシーンのようで、美津紀は少し頬を高潮させ、映画のように返す言葉を捜した。
「いいえ、わかってくだされば結構ですのよ、ドクター・カドマツ」
陳腐な台詞だが、小市民家庭の中学二年女子ではこれが平均限度一杯だろう。医師もにこやかに笑って、それに応えた。
「それじゃあ、あなたの体調を早く回復するために、お父さん、お母さんに必要な栄養を含んだ食事のメニューなどを教えておきましょう。ということで、マドモアゼルには少しばかり、席を外していただいてよろしいでしょうか?」
診察室の奥から笑いを堪えながら美津紀のよく知る顔が現れた。
「笑わないでよ、伯父さん。似合わないのはわかってますよーだ」
美津紀はそう言って、勢い良く立ち上がり、出て行こうとした。しかし、その前にふっと目の前が真っ白になり、前後上下があやふやになった。
「倒れる」
美津紀はパニックになり身を硬くしたが、誰かが自分の身体を支えてくれた。倒れるのを免れたと、ほっと息を吐いて体の力を抜いた。そのうちに視界が戻り、父親が心配そうな顔でしっかりと美津紀を支えているのが目に入った。
「ありがとう、お父さん」
美津紀はなんとか平衡感覚が戻ったことを恐る恐る確認しながら、父親から身を離した。
「まったく、気をつけろよ。美津紀はそそっかしいところが、母さんに似てるんだから」
「お父さん。それはちょっと聞き捨てならないわね」
「きゅ、急に立ち上がるから、立ちくらみになるんだ。気をつけなさい」
母親に睨まれて父親は急遽話題を変え、美津紀に注意した。
「はーい、気をつけます」
美津紀は立ちくらみを起こしてこけそうになるという失態をうやむやにしたくて、そそくさと診察室を出ていった。