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16・誘拐

「マシュー、起きたのですか?」


 シモーヌの言葉にレヴェッカは意識を現実に引き戻し、閉じていた瞼を開けた。見ればマシューが目を開けている。


「マシュー!」


 覗き込んだレヴェッカと目が合うと、マシューは突然跳ね起きた。片手でレヴェッカを抱えると、自分と機械とを繋いでいたケーブルを引きちぎるようにしてベッドを蹴り、部屋の端にまで跳躍した。訝しげな顔のシモーヌに警戒するように身構え、問い掛けた。


「どういうつもりだ、シモーヌ。」


 レヴェッカは突然の事に声も出せず、マシューとシモーヌの顔を見比べた。


「何の事です?」


 シモーヌは逆に問い返した。レヴェッカも全く同じ気持ちだ。なぜマシューが目覚めたのかも、突然こんな事を言い出したのかも全くわからなかった。


「なぜここにレヴィがいる。利用したのか。」


 腰に回されたマシューの腕を掴んでいたレヴェッカは、マシューから怒りと苛立ちの感情を感じた。

 マシューはシモーヌの言葉を待たず、突然身を翻すとレヴェッカを抱えたまま走り出した。部屋を飛び出し、廊下を抜け、逃げるように。


(何?なんで?)


 わけがわからないまま、レヴェッカは揺られる苦しさに耐えていた。きつく胴に回された腕が苦しくて、高速で通り過ぎる景色に目がついて行けない。

 マシューは人間には不可能なスピードで、神殿の中を飛ぶように走っていた。いくつも角を曲がり、扉を抜け、外に出てもまだ走り続けた。外に出てからはさらにその身体性能を発揮し、建物から建物へと飛び移るように移動した。

 おかげで、やっとマシューが止まった時には、レヴェッカは酸欠状態で眩暈がして、言葉すら発する事が出来ないほどにグッタリとしていた。マシューはそんなレヴェッカをベッドに降ろすと、脇に腰掛けた。


「大丈夫か?」


 クラクラする頭に手を当て、息を整えながらレヴェッカはマシューを見上げる。


「し、死ぬかと思ったよ!」


 予測の付かない動きに、めまぐるしく変わる風景。ビルからビルに飛び移るなんて生きた心地もしなかった。


「すまない。」


 冷静な表情のマシューにカチンときて、レヴェッカはつい声を荒げる。


「すまない、じゃないよ!なんでいきなりこんなとこに連れて来たの?」


 身体を起こし部屋を見回すと、アパートの部屋のようだった。あるのはベッドとカーテンだけ。他の家具が一切無いところを見ると、どうやら空き部屋のようだ。


「とにかく、戻らなくちゃ。シモーヌが心配してるよ。」


 レヴェッカがベッドから降りようとすると、マシューは素早くレヴェッカの二の腕を掴みベッドに引き倒した。


「あっ。」


 痛いほど腕を掴まれレヴェッカはマシューを見上げた。瑠璃色の瞳が必死でレヴェッカを見つめてくる。レヴェッカは躊躇いながらもマシューの腕に触れた。


(行かせない?危ない?)


 マシューはレヴェッカを心配していた。シモーヌを疑って、レヴェッカの命が奪われるのではないかと心配していたのだ。同時に何か酷く焦っているようだった。せき立てられ、そのせいでいつもの冷静なマシューではないようだった。いや、いつも冷静に見えたのは表情にあまり出ないせいで、本当のマシューはこんな風に感情的だったのかも知れない。ともかく、今のマシューは必死で何かからレヴェッカを守ろうとしていた。


「マシュー、腕痛いよ。」


 そう言うと、マシューはわずかに腕を緩めた。しかし、それでもレヴェッカがシモーヌの所へ行こうとするのではないかと心配している。


(て、言うかこの体勢なんか恥ずかしいんだけど。)


 二人きりの部屋で、ベッドに押し付けられ上から見下ろされているのだ。レヴェッカはじっと見つめるマシューの綺麗な顔に、酷く落ち着かない気分だった。


「わかったよ。行かないから。大丈夫だから。マシュー、放して。」


 マシューの気持ちや考えはリンクした指先から読み取る事が出来たが、こちらの思いは言葉にしなければ伝える事が出来ない。そこだけ一方通行なんて、ずいぶん半端な能力だと思う。気持ちや思いがそのまま伝わるなら、言葉に頼らずに正確に伝えられるのに。レヴェッカはそう思った。


 マシューは首を横に振ると、レヴェッカを放す事を拒絶した。


 マシューは信じられないのだ。レヴェッカも、シモーヌも、そしておそらく他の誰も。そうなったのは、たぶんあのルーカスという使徒のせいだ。それまでマシューがぼんやりと人間に対して抱いていた思いを、ルーカスが明確な言葉で形にしてしまった。ルーカスの人間に対する絶望にマシューは共感してしまった。それでも、まだ完全に向こうに行くと決めたわけではなかった。マシューは人間を信じられない気持ちと、信じたい気持ちの間で身動きが取れずにいる。


(このままじゃ、マシューは向こう側に行っちゃうかも知れない。)


 シモーヌに、マシューを引き止めると約束した。そして、今一番マシューの近くにいる人間はレヴェッカなのだ。なんとかしなければ。今ここで自分がマシューに信じてもらえなかったら、マシューはきっとあちら側に行ってしまう。人間の敵になってしまう。


(マシュー、は・な・し・て!)


 レヴェッカは仕方なく、マシューの身体に命じて腕を動かした。


 マシューは自分の意思に反してレヴェッカを放す自分に驚いたようだ。そして、必死でレヴェッカを放すまいと抵抗した。放せばレヴェッカがどこかに行ってしまうと本気で思っているようだった。

 しかし、レヴェッカの能力には抗えない。レヴェッカはマシューの腕から逃れるとベッドから身体を起こす。そしてそっとマシューの背中に腕を回すと、言い聞かせるように言った。


「マシューに黙って行ったりしない。約束するから。」


 そう伝えても、やはりマシューは自由を取り戻した腕で、逃がすまいとレヴェッカの肩を掴んだ。マシューは困惑し、信じようか迷っている。

 レヴェッカはマシューの不安が収まるまで、マシューを抱きしめたまま辛抱強くじっとしていた。時折なだめるようにその背中を撫でながら。マシューが捕まえていなくても、自分はどこにも行かないのだと証明しなくてはならなかった。そうやって一つ一つマシューの信用を得ていかなければ、マシューはきっと人間全てを信じられなくなってしまう。


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