私との結婚式を抜け出したあなたを、いつまで待てばよかったのですか
「すぐに戻る。招待客には、少し待っていただいてくれ」
花婿の上着に白い花を留めている途中で、アドリアンはそう言った。私の指には、まだ留め金が挟まっている。急に身を引かれたせいで花が傾き、彼はそれを直すこともせず、届いたばかりの手紙を折り畳んだ。
「どちらへ?」
「ベアトリスが体調を崩したそうだ。屋敷で泣いているらしい」
幼馴染の名を聞いて、留め金を握る指に力が入る。彼女が夫を亡くしたのは一昨年の冬だった。それからアドリアンは、具合が悪い、寂しい、誰かに会いたいという知らせが来るたびに、彼女のもとへ通っている。
今日の結婚式にも招いていた。来られないのは残念だけれど、お祝いの手紙を後日くださればいい。私がそう言いかけるより先に、彼は控室の扉へ向かった。
「医師は呼んであるの?」
「叔母上が手配されたそうだ」
「では、そばに誰もいないわけではないのね」
「ニネット」
振り返った彼の声に、もう苛立ちが混じっている。
「こんな日まで、張り合うのはやめてくれないか」
壁の時計は、十時四十五分を指していた。十一時になれば、私たちは礼拝堂の扉の前に並ぶ。父と母、親戚や友人たちが待つ中を二人で歩き、神官様の前で誓いを交わすはずだった。
昨夜、眠れずに何度も思い浮かべた。彼の腕に手を添えるところも、指輪を受け取るところも。誓約の言葉を噛んだらどうしようと心配すると、母に、ゆっくり言えばよいのだと笑われた。
「今日だけは、行かないでほしいの」
アドリアンは時計を見た。それから、私の後ろにいる侍女へ視線を移す。聞かれたくなかったのだと分かっても、今の言葉を取り消す気にはなれなかった。
「医師も、お身内もいらっしゃるのでしょう。私たちは、あと十五分で結婚するのよ」
「顔を見せれば落ち着く。一時間もかからない」
「あなたがいなければ、式を始められないわ」
「だから、待っていてくれと言っているんだ」
それだけのことだろう、と言うように、彼は片手を広げた。
私はその手を取った。右の手袋を、彼の上着に花を留めるために外したままだったので、彼の指の冷たさがよく分かる。握り返してほしいと思った。困った顔でもいいから、私を見て、仕方ないなと笑ってほしかった。
「私は、あなたと結婚したくて、ここに来たの」
「僕だってそうだよ。たった一時間のことで、台無しにするつもりか」
彼は私の指を一本ずつ外した。
「それほど待つのが嫌なら、婚約を解消すればいい」
侍女が小さく息をのんだ。私も何か言おうとしたけれど、喉が詰まって声にならない。
アドリアンは扉を開ける。そこまでしても、私はまだ、彼の背中を呼び止めようとしていた。
「十二時までには、戻ってきて」
「分かった」
返事は短かった。彼の靴音が廊下を遠ざかり、やがて聞こえなくなる。扉の向こうへ走っていけば、もう一度頼めたかもしれない。けれど、手を離されたときと同じ形に曲がった自分の指を見ているうちに、馬車が出る音がした。
私は鏡の前へ戻り、留め金を化粧台に置いた。花嫁のヴェールは曲がっていない。髪も、口紅も、今朝みんなで整えたままだった。
*
十一時を少し過ぎて、父と母が控室へ来た。
事情を聞いた父は扉に手をかけたが、私が十二時まで待つと言うと、こちらへ向き直った。怒鳴られると思って肩をすくめた私に、父は尋ねる。
「お前が、そうしたいのか」
「……戻ると約束したから」
それでは答えになっていないと、自分でも思った。それでも父は頷き、神官様と招待客へ説明するために出ていった。母は私の隣に座り、膝の上で組んだ手に触れる。
「手袋をつけましょうか」
「もう少ししたら」
また、彼の花を直すかもしれない。そんなことを考えている自分が情けなくて、母の顔を見られなかった。
廊下では人の声が途切れない。父の説明を聞いた方が、気を遣って明るく話してくださっているのだと思う。お茶を運ぶ食器の音まで聞こえる中で、私は馬車の音だけを探していた。
十一時半に、アドリアンの家の従僕が来た。
申し訳なさそうに差し出された便箋には、彼の字で、ベアトリスが眠るまでそばにいる、と書かれていた。医師によれば病状に心配はない。気持ちが落ち着かないだけなので、騒ぎ立てず、客に昼食を出して待たせてほしいという。
私は最後の一行を、二度読んだ。
『君なら分かってくれると思っている。』
ベアトリスの状態が深刻でないことに、安堵したかった。誰の命も危なくない。それは喜んでよいはずなのに、胸の内側がひどく冷える。
命に関わるから戻れないのではなかった。私との約束よりも、彼女が安心して眠ることを優先したのだ。
「お返事は……」
従僕がおずおずと尋ねた。私は便箋を裏返し、卓上の筆記具を引き寄せる。
『私は十二時までお待ちしています。』
その先に、どうか、と書きかけてやめた。もう一度お願いすれば、戻ってくれるだろうか。あなたの花嫁なのです、と書けば、思い出してくれるだろうか。
ペン先を紙から離し、従僕に渡す。彼が出ていったあと、母が私の肩を抱いた。その腕が温かいことまで苦しくて、私は唇を噛んだ。
「泣いてもいいのよ」
「化粧が崩れるもの」
母の手が、少し強く肩を抱いた。
戻ってきたアドリアンに、泣いていた顔を見せたくなかった。責めていると思われたくない。そんなふうに考えて、やっと、自分が何を気にしているのか分かった。
あの人は私を置いていったのに、私はまだ、あの人に嫌な思いをさせないようにしている。
婚約して二年になる。
最初のころ、アドリアンはよく私を迎えに来た。私が好きだと言った庭園の薔薇が咲くと、朝早く知らせてくれたし、帰りに雨が降れば、上着を貸してくれた。ベアトリスへの見舞いを始めたときも、私はそういう彼が好きだったから、咎める気になれなかった。
ただ、私の誕生日の食事を取りやめたことも、母への挨拶を半日遅らせたことも、いつの間にか私が詫びるようになっていた。皆に彼の事情を説明して、悪く思わないでほしいと頼んだ。彼は、そのたびに私を、よくできた婚約者だと言ってくれた。
今日は違うと思っていた。結婚式なのだから、さすがに今日は。
扉を叩く音に顔を上げると、母の友人の息子であるユーグが水差しを持って立っていた。少し年上の彼とは、子供のころから、両家の食事会でよく顔を合わせている。今朝も礼拝堂の前で、緊張した私に、まだ転ぶ段差はないよと冗談を言った。
「母上から預かってきました。温かいお茶が飲みにくければ、水を、と」
母が受け取ると、彼はすぐに出ていこうとした。私は慌てて呼び止める。
「皆さん、怒っていらっしゃる?」
ユーグは扉から手を離した。
「何人かは」
「そうよね。遠くから来てくださった方もいるのに」
「君を責めている人がいる、という意味ではないよ」
そんなふうに区別して考えていなかった。招待したのは私たちなのだから、遅れていることも、待たせていることも、私が謝るのだと思っていた。
彼は私のそばへは来ず、少し離れた場所に立っている。その距離のおかげで、顔を作らずに尋ねることができた。
「戻ってきたら、皆さん、許してくださるかしら」
すぐには答えがなかった。ユーグは母を見て、それから私へ視線を戻す。
「君は、どうするの」
時計の針が進む音がした。
彼が戻ったら、ほっとして笑うつもりだった。気にしていないことにして、いつものように隣に立つ。その先のことを、初めて考えた。
今日は結婚式だった。これ以上、私と一緒にいてほしいと願ってよい日があるだろうか。
子供が生まれる日なら、そばにいてくれるのだろうか。私が病気になったときは。何か嬉しいことがあって、一緒に喜んでほしい夜には。
そのたびに、誰かの事情を聞き、私が我慢できるかどうかを考えるのだろうか。
「分からないわ」
口にすると、涙が落ちた。母が布を差し出してくれたけれど、化粧を守るように押さえることが、もうできない。
「戻ってきてほしかったの。さっきまでは、本当に」
十二時の鐘が鳴った。
私は最後まで数えた。鳴り終えても廊下に彼の声はしない。母の布を握ったまま、しばらく扉を見つめ、それから自分でヴェールの留め具へ手を伸ばした。
「お父様を呼んでいただける?」
*
礼拝堂へは、一人で入った。
母が一緒に行こうとしてくれたけれど、私から伝えたいと言って、入口で待ってもらった。白い裾を両手で持ち上げ、皆さんの顔が見える場所まで進む。昼食の案内を待っていた方々が、一斉にこちらを向いた。
「長くお待たせして、申し訳ございません」
最初の声は震えた。それでも、次の言葉を急がずに続ける。
「本日の結婚式は、取りやめます。アドリアン様とは、結婚いたしません」
人の動く音がして、前の席にいたアドリアンのお母様が立ち上がった。泣きそうな顔をして、私に近づいてくる。
「ニネットさん、あの子が帰るまで、せめて……」
「十二時までと、お伝えしました」
「あの子が軽率だったのは分かっています。でも、こんなに大勢の前で決めなくても」
私は顔を上げた。大勢の前で結婚すると決めて、今日、皆さんに来ていただいたのだ。結婚しないと決めたことを、私だけ隠して帰るのは違うと思った。
「後日、改めて両家でお話しします。ただ、皆様には、もうお待ちいただきたくありません」
父が私の隣へ来た。神官様へ頭を下げ、用意した食事は控えの広間で召し上がっていただけること、帰りの馬車が必要な方には手配することを伝える。ざわめきの中で、お母様は立ち尽くしていた。
私はその方にも頭を下げた。好きな方だった。嫁いだら一緒に菓子を焼きましょうと言ってくださったことを思い出し、また泣きそうになる。
けれど、あの人のお母様を悲しませないために結婚することも、できなかった。
控室へ戻って服を着替えると、急に寒くなった。朝から何も食べていないことに気づき、侍女が取っておいてくれた小さなパンをかじる。半分食べたところで、喉を通らなくなった。
母は急かさず、私が食べ終わるまでそばにいてくれた。その間に招待客は少しずつ帰り、廊下を行き来していた足音も減っていく。
私たちが玄関へ向かったのは、一時をだいぶ過ぎてからだった。
父が馬車を回させ、私は侍女の腕に抱えられた衣装箱を見ていた。今朝はあんなに気を遣って広げたドレスが、もう畳まれている。箱に入りきらないと思っていたのに、蓋はきちんと閉じられていた。
そのとき、砂利を踏む車輪の音がした。
「ニネット」
馬車を降りたアドリアンが、足早にこちらへ来る。彼の胸の白い花は、傾いたまま萎れ始めていた。
「なぜ着替えている? 式はどうしたんだ」
「取りやめました」
彼は私の後ろを見た。誰もいない廊下を見通し、今度は父の顔へ視線を移す。
「少し遅れただけです。ベアトリスが、なかなか落ち着かなくて」
「一時間で戻るとおっしゃいました」
「だから、使いを出しただろう」
「私も、お返事を渡しました」
届かなかったのなら、彼はそう言ったはずだ。けれどアドリアンは唇を結び、すぐに別のことを口にした。
「まさか、本当に客を帰したのか」
「お食事を召し上がってから、お帰りになった方もいます」
「なんてことを……。叔父上も来ていたのに」
父が馬車の扉を開けた。アドリアンはその前へ回り込み、私へ手を差し出す。
「分かった。怒っているのは分かったから、中へ戻ろう。身内だけでも、式はできる」
ついさっきまで欲しかった手だった。
あの手を握りたくて、朝から爪の先まで磨いていた。けれど、今差し出されているのは、私の話を聞くための手ではなかった。早く予定を元に戻すために、私を引っ張っていこうとしている。
「私は、結婚しないと申し上げました」
彼の手が止まった。
「本気で言っているのか」
「はい」
「たったこれだけのことで?」
私は彼の顔を見た。どうしてこれほど怒るのか、本当に分からないらしかった。そのことが、遅れた時間よりも悲しい。
「私は一度、今日だけは行かないでほしいとお願いしました。あなたは、それなら婚約を解消するとおっしゃったわ」
「あれは、君があまりに聞き分けないから」
「それでも、十二時までは戻ってきてほしいとお願いしたの」
彼が何か言いかけた。私は首を振り、父の開けてくれた馬車へ足をかける。
「もう一度お願いしたら、今度は聞いてくださるの? 私はあと何回頼めば、あなたと結婚してよいと思えるの?」
アドリアンが私の腕へ触れた。父が間に入り、離すよう低く告げる。
初めて、彼の顔から怒りが引いた。代わりに浮かんだ焦りを見ても、私は嬉しくなかった。朝のうちに、ほんの少しでもその顔を見せてくれたらと思っただけだ。
「待ってくれ。ニネット、話をしよう」
「婚約解消の手続きについては、父からご連絡します」
私は馬車に乗った。
扉が閉じる直前、彼が私の名を呼ぶ。思わず振り向きそうになって、膝の上で両手を握り合わせた。母が隣へ座り、何も言わずに背中を撫でてくれた。
*
五日後、アドリアンの両親が我が家へ来た。
彼自身は三度、訪ねてきていたが、そのときは会わなかった。怒りを抑えられなかったからではない。顔を見たら、自分がどんな返事をするか分からなかったからだ。
もう結婚しないと決めたのに、夕方になると玄関の音が気になった。彼から届いた封筒を、開ける前に何度も裏返した。好きだった気持ちが、決めたとおりに消えてくれないことを、私は知らなかった。
それでも、結婚式の日の便箋は手元に置いた。
君なら分かってくれる、と書かれた文字を見ると、あの控室にいた自分を思い出せた。戻ってきてほしいと願って、時計を見ていた私を、なかったことにしたくなかった。
応接室には、アドリアンもいた。私の顔を見るなり立ち上がったが、お父様に促され、座り直す。
卓上には、婚約指輪と、彼の家から贈られた品の目録を置いてある。向こうからも、私の荷物を返すための一覧が出された。結婚後に住む予定だった家には、本や食器、私が選んだカーテンまで運び込んであったのだ。
「こちらは、順次お戻しします」
お父様が父へ言った。その隣で、アドリアンが目録を押さえる。
「待ってください。まだ、延期ということにはできるでしょう」
誰も答えなかった。
「招待客には僕から謝ります。式の費用も、こちらで持つ。それなら、ニネットの家に迷惑はかからない」
「費用については、そのつもりで伺った」
お父様の声は硬かった。
「だが、それで結婚していただけると思うな」
アドリアンは目録から手を離した。
私は、彼が私へ書いた四通の手紙を卓上に出す。最初は、誤解を解きたい。次は、ベアトリスとは何もない。その次には、今後は訪問の回数を減らすとあった。
「ベアトリス様と何かあったと、私は申し上げていません」
「だったら、なぜ」
「私は、あなたが誰と一緒にいたかだけを怒っているのではないの」
うまく言えず、息を吸った。練習しておけばよかったと思っても、今から紙を取りに戻るわけにはいかない。
「私が嫌だとお願いしても、あなたは行ったでしょう。待てないのなら婚約を解消すると言って。そのあとも、私がいつまで待てるかは、あなたがお決めになるのね」
「あの日は、僕にも余裕がなかったんだ」
「私にもなかったわ」
アドリアンが黙る。
彼の前で声を震わせるのが嫌だった。でも、震えたままでも伝えなければ、また、平気だったことになってしまう。
「結婚式だったのよ。あなたに来ていただけるように、何度もお願いする日だとは思っていなかった」
隣で母が身じろぎした。私は母の手を借りず、自分で膝の上の指をほどく。
「戻ってきたあなたを、笑って迎えられる奥様にはなれません。結婚はできません」
お母様が俯いた。彼のお父様は長く息を吐き、目録を父の方へ寄せた。
アドリアンだけが、私を見ている。
「そんなに、つらかったのか」
私は頷いた。すると、彼はひどく困った顔になった。苦情を聞かされているときの顔ではなかった。ようやく私の言葉を、自分に関係のあることとして聞いたのかもしれない。
「僕は……戻れば、君がいると思っていた」
花嫁姿の私が、同じ部屋で、同じように待っていると。
「皆に詫びて、君にも謝って、それで式を挙げられると。家にはもう、君の荷物もあったから」
彼の指が、目録の端に触れた。
窓辺には青い縁取りのカーテンを掛けるつもりだった。アドリアンは、君の好きにしていいよ、と言っていた。私は嬉しくて、どちらの色がよいか見せるために、二枚の布をあの家へ持っていった。
「あれを、全部持っていくのか」
「私のものですから」
「……そうだね」
その返事のあと、長い間があった。両家の父が日程を決め、返却品の確認をする間、彼は口を挟まなかった。
婚約解消の書面に署名が終わると、お父様が指輪の箱を閉じた。その音で、アドリアンが顔を上げる。
「ニネット。少しだけ、二人で話せないか」
「ここでお願いします」
彼は両親を見た。私も父と母を見たが、席を外してほしいとは思わなかった。
「ベアトリスには、もう呼ばれても行かないと伝えた」
「そうですか」
「叔母上にも、今後は医師か親族を頼ってほしいと。そうしていればよかったんだ。最初から」
そう思ってくださるのなら、それはよいことだと思った。でも、私はその約束を聞くために、結婚式を取りやめたわけではない。
返事を待つ彼に、何を言えばよいか迷った。褒めることも、安心することも、もう私の役目ではないのに。
「あなたがそうお決めになったのなら、それでよいと思います」
彼の顔が歪んだ。
「君に戻ってきてほしいんだ」
私もそうだった。
あの控室で、何度もそう思った。今、同じ言葉を聞いて胸が痛むのは、望みが叶ったからではない。私が望んでいた時間には、もう戻れないからだ。
「結婚を約束し直すことはできません」
「すぐでなくていい。半年でも、一年でも」
私は、膝の上から手を上げた。指輪を外した場所には、薄い跡だけが残っている。
「あなたを待つ約束は、もうしません」
アドリアンが席を立ち、私の前で片膝をついた。母が驚いて私の肩へ手を伸ばす。彼はその手を見ても立とうとせず、私の名を呼んだ。
「頼む。せめて、もう一度会ってくれ」
こんな姿を見せる人ではなかった。私が人前で彼に頼み事をすると、あとにしてくれと小声で言った人だ。今は両家の親が見ていても構わず、返事を待っている。
気の毒だと思った。抱きしめたいと思ってしまった自分もいた。そうすれば、彼はほっとして、私も泣かずに済むかもしれない。
けれど、その先でまた、私が頑張ってよかったと思える暮らしを待つことになる。
「いいえ」
彼は口を開き、何も言わずに閉じた。
お父様が彼の肩に手を置いた。アドリアンはなかなか立てず、卓の縁に手をついて、ようやく身体を起こす。私へ差し出しかけた手は、最後まで何も掴まなかった。
玄関で見送ることはしなかった。扉が閉まったあと、母の隣へ座り直して泣いた。あの朝に戻ってほしいとは、もう思わなかったけれど、二年分の思い出まで嫌いにはなれなかった。
*
返ってきた荷物の中に、青い縁取りのカーテンがあった。
侍女が別の布に替えましょうかと尋ねてくれたが、私は自分の部屋に掛けてもらうことにした。窓の幅には少し余る。それでも、朝日が入るたびに青い縁が透けて見えるのは、選んだときに想像したとおりで嬉しかった。
嬉しいと思ったあと、そんな自分に驚くことが、しばらく続いた。
ユーグと会ったのは、それからひと月ほど経った日だった。
彼の母と私の母が、庭でお茶を飲む約束をしていた。部屋にいてもよいと言われたけれど、焼きたての林檎の菓子が出ると聞いて、私も席についた。
食べ終えてから庭を歩こうと誘われ、ユーグと温室へ向かう。彼は仕事で港町へ行った話をしてくれた。そこで買った魚の揚げ物に、砂糖が掛かっていたらしい。
「それは、おいしかったの?」
「二度目は買わなかった」
笑うと、彼も笑った。そのあと、少し間が空く。
「母から、海辺の庭園の話を聞いた?」
「ええ。今月いっぱい、珍しい花が咲くのでしょう」
「よければ来週、一緒に行かないか。母たちも誘って」
頷きかけて、言葉を止めた。ユーグは私の顔を見ている。急に誘って困らせたと思ったのか、別の日でも構わないと付け足した。
「日が悪いのではないの。ただ……」
足元の小石を見ながら、私は尋ねた。
「かわいそうだから、誘ってくださるの?」
口にしてから、ひどい聞き方だったと思った。あの日、水を持ってきてくれた人に、何を言っているのだろう。
謝ろうと顔を上げると、ユーグは少し困った様子で頬に触れていた。
「結婚式の日は、何かしてあげたいと思った」
正直な答えに、胸が縮む。
「でも、今日はそういうつもりではなかった。君と出かけたいんだ。……ただ、誘うには早かったかもしれない」
私は温室の扉を見た。中には鉢植えが並んでいて、行けば花の話ができる。今の話を終わらせるのは、きっと簡単だった。
「庭園には行きたいわ」
「うん」
「でも、あなたのお気持ちに、すぐにはお返事できない」
「庭園に一度行ったら、婚約の返事をする、という約束にはしないよ」
そう言われて、少し笑ってしまった。ユーグも息を吐いて笑う。
「私が行きたいのは、朝なの。昼間は混むでしょう。でも、早く出るのは大変かしら」
「何時くらい?」
「七時」
「……もう半時間、遅くならない?」
今度は声を立てて笑った。彼は早起きが苦手なのだという。私は七時半でよいと答え、それなら朝食は馬車の中で食べようという話になった。
そのくらいの相談を、いつから私は恐れるようになったのだろう。相手の予定を聞いて、自分の希望を伝えて、二人とも大丈夫なところを探す。温室までの短い道を歩きながら、私は朝食に何を持っていくか考えた。
庭園では、ユーグが見たいと言った背の高い花より、足元に咲く小さな白い花に夢中になった。彼は最初、先へ行きたそうだったけれど、私がしゃがみ込むと隣に来た。代わりに帰りの売店では、彼の選ぶ植木鉢を一緒に長々と眺めた。
私は丸い形がよいと思い、彼は四角い方が窓辺に並べやすいと言った。結局、彼は四角い鉢を買った。私の勧めた方を選ばなくても、私を大切にしていないことにはならない。その当たり前のことに、帰りの馬車で気づいた。
何度か出かけるうちに、私から手紙を書くようになった。
次に会う約束が、楽しみになった。彼の仕事が延びて日を変えたときにも、一度の変更で何もかも不安にはならなかった。相談する手紙が先に届き、別の日を一緒に決められたからだと思う。
それでも、求婚されたときには、すぐに頷けなかった。
秋の終わりだった。庭の葉がずいぶん落ちて、春には見えなかった隣家の屋根が、枝の向こうに見えていた。
ユーグは、考えてほしいと言った。私は、あなたと結婚したい気持ちはあるのだと、最初に伝えた。
「それなのに、怖いの。式の日に、また一人になることを考えてしまう」
彼は黙って聞いていた。何も起こらないとは言わなかったし、アドリアンと一緒にするなとも言わなかった。
「当日は、別々の控室にいなければいけない?」
「……いいえ。そういう決まりはないわ」
「では、一緒に行こうか。君の家へ迎えに来て、支度が終わるまで、同じ部屋で待っている」
私は彼を見た。ヴェールをつけるときにも、手袋を直すときにも、彼が隣にいる。その光景を思い浮かべると、長い廊下の向こうの足音を探さなくてもよいのだと分かった。
「時間がかかるわよ」
「分かっている。母に何度も待たされているから」
「その言い方は、お母様にお伝えしておくわね」
「それだけは勘弁してほしい」
笑ってから、涙が出た。ユーグは慌てて布を探し、私の方が先に出したのを見て、困ったように笑った。
私は目元を押さえ、その手を下ろしてから頷く。
「一緒に行きたいわ」
翌春、私はもう一度、白いドレスを着た。
前のものとは襟の形が違う。髪につける花も、自分で選び直した。鏡の中の私は少し緊張していたけれど、後ろでユーグが袖口の釦に苦戦しているのを見て、じっと座っていられなくなった。
「貸して」
「すまない。いつもと違うので、留めにくくて」
彼の手首を取って釦を留める。終わって顔を上げると、ユーグは私を見ていた。
「綺麗だね」
急にそんなことを言うので、返事が遅れた。お礼を言って手を離そうとすると、今度は彼が私の指を取る。手袋の先を整えてから、掌を上にして差し出してくれた。
廊下の向こうで、式の始まりを知らせる鐘が鳴る。
「支度はできた?」
「ええ」
彼の手に、自分の手を重ねた。扉を開けてもらうと、二人並んで歩けるように、ユーグが半歩横へずれる。
私は裾を持ち上げ、彼と一緒に部屋を出た。




