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公爵夫人が消えた朝、屋敷の全使用人が「退職届」を置いて消えた  作者: 渚月(なづき)


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第1話 退職届の山と空っぽの厨房

屋敷を出るとき、靴音が響かなかった。


 三年間、毎日歩いた大理石の廊下。足音の返り方で天気が分かるくらいには、この場所に馴染んでいたのに。最後の一歩だけが、音を立てなかった。


 まるで、屋敷が私を引き留めなかったみたいに。


 息を吐いた。白く凍る吐息が、暗がりの中で一瞬だけ形を作り、すぐに消えた。


 冬の夜明け前は、世界が止まっているように静かだ。使用人たちが起き出す前の、この静寂を私は知っ 

 ている。三年間、誰よりも早く起きて、屋敷の鍵を開けていたから。



 昨夜のことだ。


 義母——ヘルミーナ様が、夕食の席で微笑んだ。その笑顔を見た瞬間、指先が冷たくなった。


 あの人が微笑むときは、いつも誰かが傷つく前だった。三年間で学んだ数少ない確かなこと。


「フィーネ。あなたにお話があるの」


 銀の食器が燭台の光を拾って、小さく揺れた。ヘルミーナ様の指先は白く、一点の汚れもない。この人の手は、いつも完璧だ。自分の手を見た。薬草を扱い続けて、指先が少し荒れている。


「この屋敷には、もうあなたの居場所はないわ」


 呼吸を一つ、整える。こめかみの奥で脈が打っているのが分かった。


「離縁、ということでしょうか」


「ええ。クラウスもそう望んでいるの」


 隣に座る夫——いや、もう元夫と呼ぶべきか。クラウスは目を伏せたまま、窓の外を見ていた。否定の言葉はなかった。彼が窓の外を見るのは、決まって何かから逃げるときだ。


 三年間、この屋敷の家計を管理し、使用人の配置を整え、季節ごとの行事を取り仕切ってきた。


 夜中に薬草を煎じて、体の弱い庭師の薬を作ったこともある。厨房の在庫が合わないと気づいたとき、誰にも相談できず、自分で調べたこともある。


 感謝は一度もなかった。


 代わりにあったのは、義母が客人の前で漏らす「あの子は不器用で」という溜め息と、使用人たちの前で繰り返される「もう少し気が利けばいいのに」という言葉だった。


 ……分かっていた。この日が来ることは、ずっと前から分かっていた。


「承知いたしました」


 自分の声が、思ったより静かだったことに驚いた。喉の奥が詰まっていたはずなのに。


「あなたがいなくても、この屋敷は回るのよ」


 ヘルミーナ様はそう言って、紅茶のカップを持ち上げた。完璧な角度で、完璧な微笑みを浮かべて。カップの縁に唇の跡ひとつ残さない飲み方。それもまた、この人の支配の一部だった。


「ええ。おっしゃる通りだと思います」


 私は頷いた。反論しなかった。ここで感情を見せれば、義母の思う壺だ。「やはり取り乱す嫁」という物語を与えてしまう。


 部屋に戻って、荷物をまとめた。大きな鞄は一つだけ。三年分の服はほとんど置いていく。持ち出したのは、自分で買った薬草の手帳と、嫁入り前から使っていた木の櫛だけ。


 手帳を開いた。数百の処方箋が、私の字でびっしり埋まっている。薬草の品種、効能、調合の比率、患者の症状。三年分の記録。


 この手帳だけは、誰にも渡さない。


 夜が明ける前に、私は裏口から屋敷を出た。正面玄関を使う資格は、もう自分にはないと思ったから。いや——正面玄関を使えば、門番に止められるかもしれないと計算したからだ。


 裏口の鍵を閉めた。鍵は置いていく。この鍵を握っていた三年間、何度この扉を使っただろう。


 夜中に薬草園に水をやりに行くとき。体調の悪い使用人のために、薬草を煎じに厨房へ向かうとき。いつも、誰にも見つからないようにそっと開けていた。


 もう開けることはない。


 門を出て十歩ほど歩いたとき、ふと足が止まった。


 振り返らなかった。


 振り返ったら、何かが崩れる気がした。三年間かけて積み上げた、自分の中の「大丈夫」が。崩れたら最後、この冷たい石畳の上で動けなくなると、体が知っていた。


 鞄の中で手帳が揺れている。この重さだけが、今の私の全てだ。


 だから私は前を向いて、冬の空気を吸い込んだ。鼻の奥がつんとして、涙が出そうになったけれど、それは寒さのせいだと決めた。


 ……歩こう。


 足元の石畳は冷たい。けれど、自分の足で踏んでいるだけ、あの大理石の廊下よりずっと確かだった。靴底を通して伝わる地面の感触が、現実を教えてくれる。もうあの屋敷にはいない。ここは外の世界だ。


 背中に屋敷の影を感じながら、私は王都へ向かう街道を歩き始めた。手帳と櫛。それが全財産。笑えるほど軽い荷物だけれど、重さで言えば三年間の全てが詰まっている。


 空が少しずつ白み始めていた。鳥の声が聞こえる。屋敷の壁の中では聞こえなかった種類の鳥だ。


 ……ああ、外にはこんな音があったのか。


 歩幅が少しだけ広くなったのは、たぶん無意識だった。


 街道沿いの宿屋で、乗合馬車の切符を買った。窓口の女性が「お一人ですか」と聞いた。「はい」と答えた。


 一人。その言葉を口にすると、胃のあたりがきゅっと締まった。でも、不思議と足は軽かった。


 屋敷に異変が起きたのは、その日の夕方だった。


 ——と、私が後で聞いた話だ。


 ヘルミーナ様が居間に降りると、食事が用意されていなかった。厨房は空。鍋も釜も、整然と磨かれたまま、火は入っていない。水差しの水さえ、昨晩のまま手つかずだった。


 庭に出れば、花壇の手入れをする者がいない。落ち葉が風に吹かれるままになっている。


 客間を見れば、窓が拭かれていない。暖炉の灰が片付けられていない。


 侍女を呼んでも、誰も来ない。声だけが広い廊下に反響して消えた。


 テーブルの上に、紙の山があった。


 退職届。十七通。


 一番上にあったのは、侍女長マルタの筆跡だった。


「長年お世話になりました。フィーネ様のいらっしゃらない屋敷に、私の仕事はございません」


 それだけ。理由も弁明も、一切なし。二行の文章の下に、三十年の勤続を閉じた署名があるだけだった。


 その下に、料理長トビアスの退職届。短く「厨房は預けられた者が守る。守る理由がなくなった」とだけ書かれていた。


 庭師の退職届。馬丁の退職届。洗濯係の退職届。


 下働きの少年の退職届は、少し字が震えていたらしい。十七人。屋敷の全使用人が、一晩で消えた。


 一人として、引き留められた者はいなかった。一人として、理由を聞かれた者はいなかった。


 なぜなら、聞く人間がいなかったのだ。ヘルミーナ様は使用人の名前すら正確には覚えていなかった。


 ヘルミーナ様は退職届の山を見つめて、初めてあの完璧な微笑みを崩したという。唇が歪み、銀の食器を掴む指が白くなるほど力が入り——そして、誰にも聞かれることのない一言を吐いたと。


 クラウスは窓の外を見ていた。いつものように。何も言えないまま。


 ……そして私は、それをまだ知らない。


 王都へ向かう乗合馬車の中で、手帳を膝の上に開いたまま、私はただ前を見ていた。揺れる馬車の中で、文字がかすかに踊る。


 こんな寒い日に売っている花は、きっと根の強い花だ。


 寒さに耐えて、凍えた土の中で春を待つ花。そういう花に、少しだけ親近感を覚えた。


 ——次に目を覚ましたとき、馬車の窓から王都の尖塔が見えた。そして私の膝の上には、いつの間にか誰かが置いた毛布が一枚、かけられていた。


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