初釣果
彼の予報どおりに雨はやんだ。
わたしたちは、つきでた防波堤にむかった。
「雨があがったあとは滑りやすうなっとる、注意しいや」
「とくに、ライフジャケットをきとらんからな」
彼の声と目が、しっかりと注意しろよ、冗談じゃないぞと雄弁にかたっていた。
湾につきだした防波堤のうえの風はとても心地よかった。
けれども、風に塩がふくまれているのか白い肌がチクチクと痛かったのを覚えている。
彼はクーラーボックスのなかから、柔らかい素材でつくられたオレンジ色のバケツをとりだした。
オレンジ色のバケツのとってには、緑色のロープがまきつけられており、彼はロープをしっかりとにぎりバケツをするすると海へおろした。
オレンジ色のバケツに海水を汲み、それからロープをひっぱりバケツを防波堤のうえにひっぱりあげた。
クーラーボックスのなかから、プラスチックの容器にいれられた淡いピンク色の物体を彼はとりだした。
プラスチックの容器のフタをあけた瞬間、わたしの鼻にとどいたあの匂いを忘れたことはない。
人間が食べる発酵食品などとは、くらべようもないほどに臭いあの匂いを。
釣りを続けた結果、その匂いに慣れた。
むしろ、心地よい香りだと思う。
彼はピンク色の物体と海水を混ぜあわせた。
彼はオーソドックスな釣り竿を貸してくれた。
釣り竿の先には、鉛で造られた涙の形をしたものと赤と黄色のクラゲのような形のウキ、青いプラスチックの容器、そして小さい針がたくさんついていた。
青いプラスチックの容器のなかに、海水と混ぜあわせたピンク色の餌をつめこみ、しかけを海へ投げいれた。
ポトンと可愛らしい音をたて、しかけは海にしずみこんだ。そして、視界から消えた。
海のなかに、ほんとうに魚がいるのだろうか、と考えていると、釣り竿の先端がビビッと小さくふるえ、その振動は釣り竿をとおりぬけ、揺れ幅をひろげ、わたしの手をゆさぶり、腕を経由し、脳へと到達したのちに、幸せをかんじる電流となり、いままで味わったことのない快感の稲妻が、頭からお尻へと駆けぬけた。
「リールをまけまけ。かかっとる、かかっとる」
ぼやっとした頭をしゃきとさせ、リールを一心不乱にまわした。
「そんな強くまかんでもええぞ、ゆっくりでかまへん」
リールをまわす速度をゆるめた。
防波堤から離れようとする魚の抵抗を釣り糸と釣り竿をとおして手と腕でかんじた。
図鑑のなかでしか知らない魚。
スーパーに並べられている切り身とはちがう、生きた魚の手ごたえをいま実感している。
リールを巻きあげきると、2匹の魚が目のまえにあらわれた。
太陽の光に照らされた10㎝ほどの魚は銀色にかがやいている。
空中にあげられたとたんに、魚の抵抗が強くなった。
重力を利用し針から逃げようと空を跳ねまわっている。
「竿をたてぃ、おれが糸をつかんだるわ」
竿をたてると、魚は防波堤へとちかづいてきた。
彼は右手で釣り糸をつかみ、そして、左手で魚をしっかりとつかんだ。
ちいさい針が、うすい魚の口にひかかっている。
魚は口をパクパクとひらき、尾っぽを右へ左へとふっている。
「かえしがついとる、ぬきにくいけどゆっくり動かせば針はぬけよる」
釣り針をぬいたところから、細く赤い血が流れている。
彼に教えられたとおりに、釣りあげた魚を左手でつかんだ。
釣り竿でかんじた手ごたえよりも、もっとダイレクトな質感と冷たい魚の肌の感触はいまでも覚えている。
釣り針をゆっくりと左右に動かしながら魚の口からとりはずした。
海水をいれた柔らかいオレンジ色のバケツに魚をいれた。
バケツにいれられた魚は、あれだけ抵抗したとは思えないほど静かになった、死んでいるのかと錯覚するほどに。
キラキラと輝いた魚の腹の光はみえず、黒い線となりバケツのなかに浮かんでいる。




