ガイダンス
一、追っ手
…ついにやったか? 成功か?…
男はそう思ったのです。しかしそれと同時に不安をふたつ感じました。ひとつはこれからどうすればいいのか、彼ひとりではまだわからないのです。ふたつめは追っ手がまた来ないかということ。
そうこう考えて三〇秒か四〇秒だか知らんが経過して、ようやく意識が脳から眼球に移りました。あたりをグルリと見渡すと、そこは都会のど真ん中でした。東京だということはわかります。しかしなんだか様子がおかしいのです。
男はひとまず歩き出しました。すれ違う人をさりげなく見てみると、ある人は昔懐かしいガラパゴス携帯を持ち、ある人はつい最近コマーシャルで流れたかのような新しいスマートフォンを持っているではありませんか。道路をブルンと突っ走る車も、年季の入った丸っこい車から、スタイリッシュな車などさまざまでありました。
歩行を進めて、交差点をわたりました。目の前に男が通学でかつて使ったような駅がありましたので、ひとまず急ぎ目で入りました。やはり人が多いからこそ、そこからの視線は一方的に強く感じるのです。男はすぐに気がつきました。
—追っ手が来た—
男はそそくさと、あたかも小便でも我慢してるかのようにはよう歩きました。階段を上がり、プラットホームについたところ、ちょうどよいところで電車がやってきました。これもまたいくら電車に詳しくない男でも古いとわかる見た目をしておりました。
男はすぐに乗り、様々な人の中をよいしょよいしょと避け、一番混んでいる車両の中に隠れました。隠れたつもりでした。次の瞬間、右肩に手の感触が落ちてきて、さらにその手は男をとても強い力で引き摺り込みました。
…失敗か、…
男は失敗しました。気づいたらもうここは”あの場所”でした。あたり一面真っ白で壁があるかもわからない。人だけが縦二列にずらりと並び、それぞれ外側を向き絵の具セットを用意して何か様々なものを書いておりました。男もこの光景にはさぞかしよう見慣れたものでしょう。右肩を掴まれたまま、列の中の、男の定位置に連れていかれました。色のついた筆をもたされ椅子に座らせられました。追っ手は男にささやきました。
—ここは( )だ。—
———————
脳の中で電球が切れる音がし、男はびっくりして飛び起きました。
…あゝ、またこの夢か…
男は先ほどの気味の悪い夢をもう見慣れている様子でした。しかし直後にひどい倦怠感と吐き気を思いました。そして先ほどささやかれた言葉のことを考えましたが、それだけどうしても思い出せないのです。五文字だということはわかります。間隔がそうでした。畜生。
男の住む家の外では雷も鳴り、ひどい雨のようです。男はもーいーやと投げやりな状態になり、まだ真夜中なので、朝を迎えるために頭をそっと枕につけました。
二、再会
じりじり、じりじり。眼の前の明るくあついものは何かと思った時、眼は一瞬では開きませんでした。これはうっすいカーテンの隙間から差し込む、これまた鮮やかな日光でした。真夜中の雷雨とは全く違い、まるで気でも変わったかのように天気を翻していました。
男は真夜中の倦怠感と同じものを今朝もずるずると足元と共に引き摺りながら、気を紛らすかのようにコップいっぱいに水道水を入れ、イッキに飲み干しました。その後、インターフォンがいきなり鳴りました。
ただでさえ動くのも面倒なのにと、男はため息をつきながら歩きます。今日が休日でよかったです。これが平日なら更なる”ストレス”とやらが溜まっていたことでしょう。ゆっくり画面をのぞいてみると、そこには男の友人のアキトとやらが来ていました。
ん、あゝ、そういうことですか。理解しました。この2人は今現在高校生のようです。そして男の名はリョウトというようです。リョウトにとって、アキトはとても久しぶりでした。まさに彼らふたりは音楽仲間であり、互いにジャズセッションを好みます。今この身も心も硬ァい世の中で、両者共にこれは大変貴重な仲間であると自覚をしていました。
今日はまさにそのジャズセッションの日でした。リョウトは急いでギターなり、スティックなりを持ち出し、スタジオへ向かうために家を出ました。この時期はそろそろ暑くなり始める頃でしょう。ふたりも夏の次は秋が来て、冬が来て、その速さが尋常でないほど速ェえことくらい、よくよく承知していました。なんせもう高校に入り三年目ですから。
しばらく歩きに歩き、疲れました。いつもなら音楽の理論やらのお話で盛り上がるそうですが、ここ最近のリョウトの頭の中は、どうもごちゃごちゃしています。まるで気が遙か彼方へ昇天したかのようにどこか一点を見つめたり、突然涙を流すような、ウルッとする感情になったりするのです。このことにはさすがにふたりともおかしいと感じ始め、さらに身体も歩き疲れていたため、どこか日陰のある小椅子に腰掛けることにしました。
足を折り曲げ、ケツを面につけた瞬間、リョウトは…来た…と感じました。それは熱中症にも似ていましたが、それ以上に辛いものがありました。
やがて身体中苦しくなり、嗚咽を繰り返しました。アキトは背中をさするばかりです。腹の奥底から逆流してきて、我慢できなくなり口から吐き出しました。それはまさに血反吐でした。何回も何回も逆流しては口から出し、それをよう見たらまぎれて、細長い体の寄生虫のようなものが何匹もウジウジとしていました。これはハリガネムシと非常に見た目がよく似ていたので、そう呼んでいいのではないでしょうか。
アキトは今日はもう諦めて病院へ行けと、驚くべき正論を吐きます。これにはいくら音楽中心人間とはいえ賛成するしかありませんでした。こうしてトホトホとがんばって歩き、近くの病院につきました。
————好きなことをやりたいのに、クソ、これじゃアキトに迷惑かけちまうじゃねェか、クソクソ、 俺の野郎め ああああああああああああああああああああああああああああああ—————
すっかりこの様子です。
三、こちら側
どうやらしばらく目を瞑ってしまったようです。多分疲れていたのでしょう。あーだこーだ考えるのもリョウトは面倒くさくなっていました。しかし喉の痛みは感じました。ざらざらとした、嫌な痛みです。やがてじわじわと身体が浮遊していく感覚に襲われました。それは長い間船に乗って降りた後のようです。
そろそろ眼を開けようと思ったようです。眼を開けました。しかし本人には開けたように感じないのです。眼の前に風景は広がっているはずなのに、開けたように感じないのです。この矛盾を乗り切ろうとあたりを見渡しました。リョウトはガッカリしました。また”あの場所”です。眼の前がやたら真っ白だったのはそのせいのようです。またもや右肩を掴まれ、定位置に座らせられました。
リョウトは今度こそこの真っ白な”五文字”の世界から逃げ出そうと決心をしました。その強い意志といったら、なんとも私にも身体にブルブルと伝わってくるほどのものでした。
リョウトは私にバレないようそっと立ち上がり、ふと下手を見ました。すると、なんということでしょう。本来そこにはお隣さんがいるはずなのですが。その人はもうすでに倒れていました。血反吐を吐き、腹は食い破られ、中にある内臓も食い破られ、そとに露出しています。しかし、まだなんとか生きているようです。血の出方に一定のリズムがあったから。体の中身は痙攣を繰り返しています。こんな光景は久しぶりのようです。
やがて血は真っ白な床をみるみる侵食していき、真っ赤な床になり、ちょっとした水たまりならぬ血だまりほどになりました。食い破られ散々な様子の内臓の中に何かがウニョウニョと動いています。それは後ほど内臓から血だまりに出てきました。これはまさにハリガネムシです。どうやら役目を終えて、そいつは血の川をおっそい速さで進んでいきました。
ふとその人の血まみれになった絵の具セットと、画用紙をのぞいてみると、これまた何ひとつかいてはいないようです。リョウトはみるみるうちにどんでもないほど震え上がり、恐ろしさと不安が心の中で衝突するのを感じました。それといったらまた私にもひしひしと伝わってきました。
何か”創造”しないと、衝突が終わって次にリョウトはそう感じました。このままでは立派なハリガネムシの奴隷になってしまいます。しかし、その使命感よりもまず、こんなことをしたのは誰かという疑問の方が強く浮かんできました。
リョウトはいったん座り、絵をかくフリをしながら眼球を目一杯横へ回して、後ろら辺の様子を伺いました。そして、この前リョウトを追ってきた追っ手が列をジロジロと監視しながら近づいてきました。
リョウトは反抗します。この時はもう恐怖とはなんぞやといった感じのようです。すばやく振り返るや否や彼の腹に強烈なイッパツをかましたのです。彼は倒れました。そして顔を上に固定して、先ほどの逃げ遅れていたハリガネムシを彼の口の中に放り込みました。口を思いっきり塞ぎました。
———お前こそ操られる側だな———
リョウトはだいぶ考察が進んでいるようです。追っ手の方は助けを求むかのように、指をさしました。それも、アイツは、私の方に向かって指をさしやがりました。あのドアホ、”こちら側”に向かって眼線を送りやがって。バレるだろ。
おっとお口が過ぎてしまいました。リョウトも可哀想なのでこれくらいにしておきましょう。
四、前進
リョウトにとっては、驚いたでしょう。しかし、彼は成長しました。私にはそれがわかります。そして、またもやウジウジと眼をゆっくり開けました。鮮やかな日光とはまた違った、光を放つ蛍光灯が真上にありました。
重っ苦しいけれど、そっと頭を上げて下手をみました。そこには、やたら心配くせェ表情をしたアキトが、ただじっとして座っていました。眼を合わせるとすぐに、安堵の表情にそれは変わりました。
「医者によるとただの熱中症なんだって」
「そっか、」
リョウトは、そんなわけがないと抵抗の心理が働きました。しかし直後にこうも思いました。医者に自分の、気味の悪い、創造と傀儡の入り混じる、真っ赤なハリガネムシの夢などを語っても理解してもらえないと。
何時間かそのままじっとし、すっかり身体は自由に動くようになりました。アキトと医者に無理を言って、もうこれ以上世話をかけたくないので、病院から急いで後退りしました。外の空はもう、少々灰色味の混ざる橙へと変色していました。
家へトホトホと帰る途中、アキトは言いました。実はリョウトを病院で様子見しているときに、どこぞの偉いレコード会社の人がやって来て、彼ら二人の腕を買っているという話をしたようなのです。
「それは、俺たちの音楽のセンスを偉ェ人たちが見て、感心して、認めたってことだよナ?」
「あゝそういうことだなァ」
「だったら俺たち、これから忙しくなるんじゃねェのか」
「リョウトの創造心のおかげだよホンマにィ」
「イヤァ、アキトのアドリブのセンスのおかげだってばよ」
とにかくその日は二人とも、お互いのことを褒め讃えました。そして将来のことについてこれでもかと会話が弾みに弾みました。リョウトはこのとき、将来への不安など、身の回りのありとあらゆる”ストレス”が、まったくと言っていいほど消え去っていました。どこか一点を見つめたり、ウルッとする感情も消えました。しかし、まだ思い残すことがあります。というか、忘れられないのでしょう、あの夢のことは。
その日のリョウトは身軽なまま家で過ごし、やがて就寝時間が近づいてきました。そして、彼は思いました。
———あのとき、追っ手は誰を指さしたのだろう———
リョウトはそのとき確実に、私とお話をしたいと思ったはずです。彼は勘が鋭いのでしょう。だから、——お前こそ”操られる側”だな、——と言い、——誰を指さした——と、ものではなく人だと気づいていました。私もバレてしまいましたね。今日くらいは、はじめて、ゆっくりと、お話をしましょう。
リョウトはウトウトと、眠くなり始め、眼を瞑りました。しかし互いに声は聞こえます。
「あなたがあの真っ白な”五文字”の場所を、追っ手以上に監視していた人ですね。」
監視ではなく、見守っていたのですよ。
「あなたは誰なんです。」
誰もなにも、あなたの頭の中にいるのですから、あなたですよ。
「それじゃあ自分が二人いることになりますよ。なに言ってるんですか。」
私は私です。これでも”芯”がありますから。
「ハリガネムシを仕込んだのもあなたですね。」
ええ、そうです。理由をお分かりで?
「見当はついてますよ。あれは自分たちが操られる側の人間への道を進んでいるという比喩表現の具現化でしょう。」
さすが、創造心があるだけのことはありますね。
「俺はもうあんな夢は見ませんよ。」
それはあなたが落ちぶれない限りです。”あの場所”は、まあ言うたら、生き方を導く手引書というか、教室とでも言うものです。これなら五文字の意味もお分かりになるのでは?
「指導、、、まあともかく、あとさ、一回”あの場所”から逃げられそうな時がありましたよね。あの空間はなんだったんですか。」
あれはまさに、あなた以外の人が創造した世界に迷い込んだのです。あなた以外と言っても、ほんの数人ですがね。あなたほど支配から逃げ出すという強い意志を感じたのは久しぶりです。
「では俺を追っかけてきた追っ手は、あなたの部下みたいな存在なんですか。」
そうともいいますね。私ほど偉くはないですが。
「やはりあなたが一番偉いんですね。俺は操られなんかしませんからね。」
———ならば是非、”芯”を大事に———
五、浸り、悟り
その会話以来、私はリョウトの頭の中には現れませんでした。リョウトも、あの夢は見ませんでした。私は彼の成長を見守っていました。そしてやはり、時が経つのは早いものですね。時期も時期になり、彼は勉強に浸る日々になりました。
ただひとつ心配なのは、彼が芯を持ちながら生きているかどうかです。彼は悶えに苦しんでいました。両親との意見の対立です。どうやら、すぐにレコード会社の下へ行くよりも、大学へ行き、もう少し頑張ってみろと、どうしてもそちらの道を選ばせてはくれないのです。
彼の頭の中は、以前と同じように、ごちゃごちゃし始めました。彼の勉強への努力は虚しく、なかなかに学力は良い方向に進んでくれません。寝る時間は削られ、音楽に浸る時間も無くなっていきました。彼の身体の中で、ハリガネムシが動いているのがわかります。”ストレス”とやらが、溜まっているのがわかります。
私から見ても、彼はこのままでは限界が来ると、悟ることができます。葛藤とはまさにこのことです。彼の創造心の含まれるプライドが、その葛藤を産んでいるのです。自由にやりたい、好きなことをずっとしていたいという、わがままが常に入り乱れます。
ある夜のこと、塾の帰り、アキトも一緒でした。リョウトは最後に、あの夢のことを全部話すことにしたのです。
「俺はね、前まですごい夢を見ていたんだ。生き方を指導される夢。俺は勝手にその場所を”ガイダンス”って呼んでるんだけど。そこは真っ白な世界で、縦二列で人が並んで、創造をさせられるの。それができないと、容赦なくハリガネムシに食い破られるんだ。マジで、出る杭は打たれるようなこの世の中とは真逆の世界でしょ。羨ましいなあ。俺はさ、やっぱりこの身も心も硬ァい世の中には向いてないんだョ。」
「なに急に悟った言い方してんだよ。ハッハッハ。」
いいえ、彼は悟っているのです。あの真っ白な”五文字”の場所は、言ってしまえば縦二列に並んだ人は大きく見れば全員操られている側なのに対し、それでも、この創造の個性さえも認めようとしない硬ァい世の中よりかはまだマシであると感じているのです。
その日のアキトと別れの時、リョウトはずっと何かを考え、悩んでいる顔のままでした。アキトもこの様子には、すっきりできませんでした。彼は、絶対、こう考えていたはずです。どうしたらまたあの場所へ行けるのだろう、あの夢をもう一度見てみたい、と。これではもう、彼が”芯”を大事にしているとは言えませんね。今日は、久しぶりに彼とお話をしてみようと思います。彼にきつく、お説教をしようと思います。
…しかし、彼は彼なりの行動に出ました。…
その夜は、深夜にもかかわらず、リョウトの家族やアキトの家、そのさらに近所の家の電話のベルが、鳴り止みませんでした。そして、彼の家の周りには赤いランプのついた車が、何台も止まっていました。
…ついにやったか? 成功か?…
リョウトはそう思ったのです。しかしそれと同時に疑問を感じました。彼の予想では、目の前に、いつも通りの、真っ白な空間が広がっているはずでした。しかし、眼の前はなにも見えず、ただ真っ暗なだけです。しかし、眼を開けているはずなのに開いたように感じないこの矛盾は、前と一緒でした。
私から言わせてもらうと、彼はバカですね。
以上




