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Nirvana Crystal

作者: Futahiro Tada

 親父が死んだ。胃癌で。元々体が丈夫だと自負しあまり病院に行かなかったことが災いしちょっと調子を崩して仕方なく病院に行った時既にステージ4の胃癌だったのだ。それもスキルス胃癌というタチの悪い癌だったから余計に進行が早くて余命半年と告げられてあっという間に天に召されてしまった。まだ五十八歳だったのに。人生百年時代と言われる中まだまだ元気で生きてほしかった。

親父の葬儀が終わると遺品整理が始まる。そこで俺は「ニルヴァーナクリスタル」という親父が作った石を発見する。親父は普通のサラリーマンをしていたのだけどその合間を縫ってニルヴァーナクリスタルという石を作っていたらしい。これは家族の誰も知らなかった事実だ。…でそのニルヴァーナクリスタルというのは何かというと簡単に言えば持つだけで悟りを開くという石らしい。かなり曰く付きの石が大量に残されてしまう。親父はこの石をどうしようとしていたのか?その答えは簡単でこの世で悩んでいる人間をニルヴァーナクリスタルで救いたかったらしい。

 生前親父はよく俺に言っていた。「人の役に立て」と。親父がなんでこんなことを言ったのか?その理由はなんとなく判っている。俺が三十歳を目前としながらまだ働きもせずフラフラとしていたからだろう。そもそも俺には夢があった。ミュージシャンになりたいという夢が。高校時代はバンドを組んでいてベースを担当していた。一応オリジナル曲を作って演奏とかしていたんだけどそれが楽しくていつか自分の音楽を人に届けたくなったのだ。これが夢の始まり。それで高校を卒業したら上京して音楽系の専門学校に行きそこでもバンドを組んでオリジナル曲を作ってベースを担当し演奏していた。専門学校を卒業したら本格的な音楽活動をしたけど八年やっても芽が出なかった。高校時代から含めれば十年以上音楽をしてきたのだけどダメだったのだ。スタジオミュージシャンという形で少しだけ仕事があった時期もあったけどそれも単発なものが多くとてもではないけどそれだけで食えるほど甘くなかった。それで俺はとうとう音楽活動に限界を感じ大都会東京から生まれ故郷である新潟県新潟市に戻って来たのだ。まぁ早い話が夢破れて都落ちしたってこと。

 新潟に戻ってから俺は半ば燃え殻のような生活をしていた。音楽活動を諦めたといってもなんというか未練があったのだ。まだ十代の若いミュージシャンがデビューしたという話を聞くと心が引き裂かれるような悔しさを感じたものだ。だけど俺には才能がない。音楽の世界はやはり才能が必要なのだ。何しろミュージシャン志望はそれこそ山のようにいる。その中で光り輝くためにはやはり一種の突き抜けた何かがいるだろう。それを俺は才能と呼んでいる。同時に俺にはそのキラキラした才能がなかっただけの話。

 俺が都落ちし自宅で自堕落に過ごしていると親父はそれとなく俺に「人の役に立て」と言ったのだ。それだけ言ったけど決して無理に働けとは言わなかった。俺は親ガチャ大成功しているしその頃は親父もまだ元気に働いていたから無理して働かなくても全く問題なかったけどやはり居心地は悪い。俺は音楽活動をして長かったから一般企業で正社員で働いた経験が皆無だ。東京で音楽活動をしていた時生活費を稼ぐためにコンビニでアルバイトはしたけど正社員で働いたことはない。同時になんの経験もない三十手前の人間を雇う会社はあまりない。探せばあるのだろうけど労働条件が悪く続けられるか判らない。どうせすぐ辞めてしまうなら働かずダラダラしたほうがマシだという負の連鎖が起こっていたのだ。

 だけど親父が亡くなりモラトリアムという名のぬるま湯にはこれ以上浸かっていられなくなる。もう働かないとダメだ。でも何をすればいいんだろう?山のような問題が立ち塞がり俺は何もできなくなる。働かなきゃダメだと判っていながら重い腰が上がらない。まだまだぬるま湯に浸かっていたい。モアトリアムという名のぬるま湯に。

 お袋は福祉業界で働いていたけどフルタイム勤務ではなくパート勤務だったので収入は多くない。親父が残した僅かな遺産と遺族年金があるものの収入源は限られる。すでに祖父母は他界しているし兄弟はいないからお袋だけならなんとかやっていけるがそこに俺がやって来るとやはりもっと収入がいる。

 さてどうするか?俺はずっと考えていた。考えても埒が開かない。こんなのは不毛な時間だ。考えている暇があれば朝起きてハローワークへ行って就職活動するべきなんだろう。なのにそれができない。歯痒く辛い時間が続く。そんな中俺は親父が残した謎の石「ニルヴァーナクリスタル」の存在を思い出す。持つだけで悟りが開けるという曰く付きの石。冷静に考えばこんな石はあり得ないだろう。

 そもそも悟りを開くというのは「心の迷いが解けて真理を会得する」ということだ。つまり悟りの境地に達すれば雑念がなくなり完全に執着がなくなるってことなんだろう。もし仮にニルヴァーナクリスタルにそんな力があるのならこの世は釈迦で溢れてしまう。その釈迦だって悟りを開くのに何年もかかっている。釈迦は苦行を六年続けたけど悟りが開けず苦しんでいたのだ。だけど苦行が間違いだと気づき心身ともに回復した後に菩提樹の元で坐禅を組んでようやく悟りを開いたのだ。その時釈迦は三十五歳になっていたらしい。俺は今二十九歳だからそれより上だけど悟りを開くってのは大変なことなのだ。

 その悟りをニルヴァーナクリスタルを持っているだけで開けるならこの世から犯罪は無くなるかもしれないし戦争だってなくなるだろう。それだけ悟りには強い力がある。同時に誰もが辿り着けるような境地ではない。何しろ人は煩悩の塊だ。俺だってそう。夢破れたとはいえその夢に縋りついていたい。有名になりたいし楽してお金を稼ぎたい。でもそれが無理だってことも判ってる。まぁ早い話俺は悟りを開けるような高尚な人間ではないということだ。

 俺は試しにニルヴァーナクリスタルを握りしめてみる。これは半透明の水色でどこか水晶みたいだ。それで大きさは野球のボールを一回り小さくした感じ。だから石としては少し大きいかもしれない。ややひんやりしたニルヴァーナクリスタルを握りしめても全く悟りを開くような気配はない。親父が残したノートによるとニルヴァーナクリスタルを握りしめ毎日瞑想の時間を作ればいずれ悟りを開く境地に達するらしい。だが肝心の悟りを開くまでの時間が判らない。一週間とかそこらでなんとかなるなら嬉しいが何十年もかかるのならそんなにも長い間瞑想を続ける自信はない。

 だけど俺はなんとなくこの石が気に入った。しばらく持ってみよう。ニートの執念がニルヴァーナクリスタルに命を吹き込んだ。ニルヴァーナクリスタルがどこか俺を窮地から救ってくれるような気がしたんだよね。


 親父が亡くなり三ヶ月ほど経ち季節は夏になる。四十九日もとっくに終えて俺の家はようやく平穏を取り戻す。お袋は親父が亡くなったショックから一時的に仕事を休んだのだけど少しずつ立ち直り今は職場にも復帰している。あとは俺が働くだけだ。だがこの三ヶ月間俺はニルヴァーナクリスタルを握りしめ瞑想をしただけで就職活動はしていない。時折散歩をするけれどそれ以外は何もしていないのだ。同時にニルヴァーナクリスタルを持ったからといって悟りを開く気配は全くない。というか日を追うごとに雑念が増えていって俺を苦しめる。もうダメだ。人生詰んでしまった。ここからの巻き返しは余程のことがないと難しいだろう。このままずるずるお袋に寄生してお袋が死んだら生活保護とかになって細々と一生を終えるかそれか途中で人生が嫌になって自ら命を絶ってしまうかもしれない。

 このままじゃダメ。それは判ってる。負の気持ちを少しでもかき消すため俺はいつも決まった時間に散歩に出かける。俺が住んでいる新潟市万代には萬代橋という新潟市の名物的な橋がある。そして橋の下には信濃川が流れている。信濃川沿いには河川敷が広がっていてそこを「やすらぎ堤」と呼ぶ。ランニングができるように舗装もされているし散歩もできる。それ以外には出店なんかも出ており地域の憩いの場になっている。俺はそんな信濃川沿いのやすらぎ堤を歩く。あてもなく。毎日同じ時間に散歩していると同じように同じ時間にやって来る人がいることに気づく。それは老人で多分七十代後半くらいだと思う。スポーツウエアを着てスポーツシューズを履いている。体操をしたりベンチに座って川を眺めたりしてしばらくしたら帰って行く。多分向こうも俺の存在に気づいていたのだろう。だから突然話しかけられた時は酷く驚いた。

「君はいつもこの時間にやすらぎ堤に来るね」

 と老人。

 それを受け俺は

「はい。宇宙一の暇人なので」

「仕事は?」

「働いていないです。ニートってやつで」

「それはいかんな。私が君くらいの歳の頃は一生懸命働いていたよ」

「でしょうね。俺はダメ人間ですよ」

 俺は半ば自棄になっていた。何をしても上手くいかない。人生に嫌気が差していたと言っても過言ではない。

「青年。何を持っているんだ?」

 と老人は言ってきた。

 俺は散歩の時ニルヴァーナクリスタルを持って出かける。これが一種のお守りになっているのだ。

「説明が難しいんですけどニルヴァーナクリスタルっていう持つと悟りを開けるという石です」と俺。すると老人は「悟り?君はお坊さんを志望しているのかね?」「いやそうじゃないですけど死んだ親父が残した形見みたいなものなんです。まだ家に大量にあるんですけど捨てるのも忍びないから俺がこうやって持って歩いているんです」「不思議な石だ。よしここで会ったのも何かの縁だ。私が一個買おう。いくらかね?」「さぁ値段は判らないんです。タダでもいいですけど」「なら千円で買おう。それならいいだろう?」「こんな得体の知れない石に千円も払うんですか?」「あぁ本当に悟りが開けるか試してみたい。私もこの先いつまで健康で生きていられるか判らないからね。健康なうちに色々経験したいのだよ」「まぁそれならいいですけど。じゃあどうぞ」と俺は言い持っていたニルヴァーナクリスタルを老人に渡す。対する老人はニルヴァーナクリスタルを受け取ると器用に石を持ったままスポーツウェアのポケットから折り畳みのブラウンの財布を取り出しそこから千円を引っ張り出して俺に手渡し「ありがとう。悟りを開くためには修行が必要と聞くがこれは持っているだけでいいのかね?」「具体的には握りしめて瞑想するだけです。ただ悟りを開くまでの時間は判りません。というか多分こんな石を握りしめてるだけでは悟りを開けないと思いますけどね」「いやそれはやってみないと判らんよ。早速今日から瞑想の時間を作ってみるよ」

 物好きな老人だ。

 俺はそう思いながら受け取った千円を財布にしまい老人と別れた。


 それから一週間が経ち俺はやすらぎ堤で再び老人に会う。老人の格好は前と同じスポーツウエアだ。老人は俺を見つけるなり声をかけてくる。

「青年。私は毎日瞑想しているよ」

 それを受け俺は

「そうですか。ニルヴァーナクリスタルは効果ありそうですか?」

「それは判らない。だが一つ言えることがある。聞きたいかね?」

「はい。ぜひ」

「祈りの重要性だ」

「祈り?」

「そう。prayer」

「祈ると何かいいことがあるんですか?」

「とても重要だよ。まぁ祈りというのは宗教によって意味は違うが、基本的には世界の安寧や他者への想いを願い込めることだろう。青年、君だって祈るんじゃないのかね?」

「それはまぁたまには。最近はほとんどないですけど」

「私も君からニルヴァーナクリスタルを受け取り瞑想するようになるまでは、ほとんど祈ったことなどなかったよ。君はどうして人が祈るのだと思う?」

 そんなこと急に言われても困る。

 人が祈る理由。それこそ千差万別だ。俺が沈黙していると老人は再び声を重ねる。

「私も少し祈りについて調べたのだがね。人は祈らずにはいられない生き物なんだよ。地球上にはたくさんの生物がいるが祈るのは人間だけだ。そして人間は弱い生き物だ。だから祈ることで道を開こうとする」

「そうかもしれないですね。なんか仏教的だ」

「私たちが生きていく中で必ず苦しみはある。人生は苦しいことの連続だ。だから時折訪れる楽しいことが光り輝くのかもしれない。私は今まで浮き沈みの少ない人生を送ってきた。もう人生も終盤だ。明日ポックリ死ぬかもしれない。確かに苦しみはあったが大きな絶望があったわけじゃない。けどその代わり大きな喜びがあったわけでもない。私はね気づいたんだ。浮き沈みのない人生こそ苦しみだと。だから祈るのかもしれない。もっと刺激を求めて祈るのかもしれない。少しでも自分の人生が意味あるものだったと信じたいから祈るのだ。君は働いていないと言ったね。きっと苦しいだろう。絶望を感じているだろう。でも今はそれでいいのだ。深い闇を知る分それがバネとなって跳ね返ることもある」

「そうでしょうか?俺はずっと自堕落に生きていくような気がしますけど」

「祈りたまえ。祈ることで道は開く」

 老人はそう言い最後に少し黄ばんだ歯を剥き出しにしてにっこりと笑う。そしてゆっくりと俺の前から消えて行く。少なくとも悪い人ではないようだ。完全に他人である俺の行く末を案じてくれている。

 祈りか。俺はニルヴァーナクリスタルを使って瞑想はしたけど何かに祈るってことはなかった。祈りなんて無駄な行為か?それは判らない。けど確かに人は弱い生き物だろう。だから寄り添って生きる。人は一人では生きていけないしどこかで他者と繋がっている。俺だって今はニートをしているけど誰かと繋がっているんだ。人は繋がる。どこまでも。そして弱いから祈る。

今の時代繋がる手段は無数に存在する。SNSがあるしスマホを使えばいつでも誰かと繋がれる。それは決して強い繋がりではないかもしれない。きっと蜘蛛の糸のようにか細い弱い繋がりかもしれない。それでもそれでいいと思っている人もいる。深く抉り食い込むような強い繋がりは大きなエネルギーを生み出すかもしれないけど重荷になりやすい。

 俺は祈ってみる。とりあえずこの鬱屈した毎日をなんとかしてほしい。せめて真っ当な人らしく生きたい。俺はもうすぐ三十歳になる。三十。それは口にすれば僅かだけどかなり年月だ。生まれて成長して子供を持つくらいの年月だ。それくらい長い長い長い年月だ。それに普通に働いていればそれなりの役職になっている人間だっているかもしれない。三十代の社長だってそれこそたくさんいるだろう。なのに俺は…ニートを続けている。

 祈れ祈れ祈れ…。

 俺には何もない。最後に残っているのが祈りなのだ。祈りは救いだし生きるために人は祈るのかもしれない。


 翌日。俺は決意する。旅に出ると。自分探しと言えば聞こえはいいがこの状況を打破するためには今の環境を変えることが重要だと思ったのだ。そして祈ることでもっと世界を知る必要があると判った。三十手前のニートの人間が旅に出るなんて烏滸がましい話だけど今の俺は旅に出る必要があると判ったのだ。

 とはいえ海外には行けない。金はなんとかなっても言葉が問題だ。俺は日本語以外ほとんど話せない。英語が少し判る程度だ。もちろん言葉が話せなくても海外には行ける。それでもなんとなく不安だしまずは国内から攻めて余裕ができたら海外に行くという選択が一番ベストなはずだ。それ故に行くなら国内だろう。それもそんなに遠くには行けない。ではどこに行く?俺が決めたのは神奈川。祈りの対象は神になることが多い。そして神という名前がつくのは神奈川だ。俺は音楽活動をしていた時東京で暮らしていたから少なからず神奈川には行ったことがある。だけどそれは少しだ。だから全然知らない。神奈川は大きな街だ。横浜川崎湘南箱根色々ある。よし神奈川に行こう。あとは行ってから考える。

 俺は母親にしばらく家を空けると言いそのまま少し大きなカバンの中に一泊分の着替えを入れ財布なんかを入れる小さなバッグをもう一つ持って旅に出る。そしていざ部屋を出ようとした時俺の視線にニルヴァーナクリスタルが映る。ニルヴァーナクリスタルも持って行くか。親父はこの石を広めようとしていた。ならその役目を俺がしよう。俺はニルヴァーナクリスタルを十個ほどカバンに入れて旅立った。

 新潟駅から上越新幹線に乗ってまずは東京駅に。俺は少しだけ蓄えがあったがこの旅行で全て使うかもしれない。そしてスッキリしたところで新潟に戻りそこで再出発しようと考える。東京駅からどういうわけか中央線に乗り新宿駅まで行きどこに行くか迷ったけどその時の気分で小田急ロマンスカーに乗り箱根に向かう。なんとなく箱根が神の街のような気がして選んだ。温泉もたくさんあるしニルヴァーナクリスタルを広めるには絶好の場所だと思う。

 新宿から箱根までは一時間半くらいだからすぐだ。俺は朝に新潟を出たけどお昼過ぎには箱根に到着する。箱根湯本駅で降りると俺はあてもなく歩き始める。まずは泊まる場所を探す必要がある。予約をしていないから飛び込みでOKな場所を探す必要がある。まぁなんとかなるだろう。腹が減ったけどあまり無駄に金が使えないので食事は少し我慢だ。スマホを使って素泊まりできる場所を探すと一泊五千円以内で泊まれる宿がいくつかあるのが判った。山道を歩きスマホを見ながら宿を探す。午後三時くらいには旅館が見つかる。箱根湯本駅から徒歩で二十分くらいのところだ。夏本番でシーズンオフの時期ではなかったけど運よく宿泊できた。ここでしばらく泊まりながらニルヴァーナクリスタルを広めよう。

 素泊まりの部屋は簡素な和室だった。だが一応テレビなんかはついている。部屋は狭いが居心地は良さそうだ。部屋に荷物を置き俺はニルヴァーナクリスタルを持ち箱根の町をを散策することに。スマホで行く場所を調べていると「芦ノ湖」がヒットする。関東でも大きくて有名な湖だ。よしここに行こう。今から出発する夕方になってしまうがまぁいいだろう。夕闇が広がる湖は死にたくなるかもしれないけど祈るにはもってこいの場所だ。俺は旅館を出て箱根湯本駅まで歩く。

 箱根湯本駅から芦ノ湖までは十三キロ以上離れている。歩いて行けない距離ではないけどこの辺の地理は判らないし多分二時間以上かかってしまうだろう。バスにしようかな。レンタカーを借りておけばよかったけど突然旅に出ようと思い立ったからそんな準備はしていない。調べてみたところ芦ノ湖の最寄りのバス停は元箱根港だと判った。箱根湯本駅にはバスの案内所があったのだけどここで問題が発生する。元箱根港までのバスは一時間に二、三本しか出ていなくておまけに午後二時までしか走っていない。だから俺が辿り着いた午後三時過ぎにはバスがない。くそ、これじゃダメだ。タクシーを使うという選択肢もあったけど費用が余計にかかってしまう。あまり無駄遣いはできない。仕方ない芦ノ湖に行くのは明日にしよう。そうこうしているともう夕暮れも近い。一旦旅館に戻ろうか?その前に食事を準備しないと。帰りに箱根湯本の駅前のセブンイレブンへ行き夕食と翌日の朝食用の弁当を買う。旅に出たのにその土地のものを食べないのは勿体無いかもしれないけど食べるために旅に出たわけじゃないからコンビニ弁当でもいいだろう。さてずっと根詰めて動き続けたから疲れたよ。休もう!

 旅館に戻り温泉に入る。箱根は温泉街だからこれはありがたい。温泉に浸かり旅の疲れを癒し浴衣に着替えてロビーに向かう。そこでニルヴァーナクリスタル片手に祈り始める。祈りの時間だ。祈りは救いだ。同時に今の俺に必要なことなんだ。ただ俺の祈りは早々に打ち砕かれる。俺の祈りを邪魔してきた人間がいるのだ。

「お一人ですか?」

 目を閉じ祈っていたら突然前方から声が聞こえた。はっと目を開けると青年が立っている。知り合いではない。黒いTシャツに色落ち加工がされたデニムを穿いていて足元はアディダスのスタンスミスだ。

「はい。一人です」と俺。すると青年は

「そうですか。僕も一人なんです。さっき箱根湯本のバスターミナルにいましたよね?実は僕も芦ノ湖へ行こうとしていたんですがもうバスがなくてそれで戻って来たんです」

「じゃあ俺と同じですね」

 俺は言う。俺に話しかけて青年は俺よりは年下だろう。恐らく二十代前半くらい。大学生かもしれないし社会人かもしれない。この辺の判断は難しい。どことなく少年の面影があるのだけど全身から漂う負のオーラが気になる。

「明日芦ノ湖へ行きますか?」

「えぇ多分」

「そしたら会えるかもしれませんね。いやでも僕はやっぱりこれから向かいます」

 そう言うと青年は哀愁に満ちた笑みを残し俺の元から消えて行った。

 Why?彼はこれから芦ノ湖へ行くと言っていた。しかしもうすでに日は暮れている。バスもない。電車もない。十三キロ前後だから決して歩いて行けない距離ではないけど夜の芦ノ湖に行っても暗黒の湖が見えるだけだろう。むしろ死にたくなるかもしれない。死?Death?あり得ない話だと思うけど彼は何をしにこれから芦ノ湖へ行くのか?観光ではないだろう。もしかして自殺か?あの哀愁じみた笑みはこの世に残した最後の光なのか?

 参ったな。もし彼が死にに行くのだとしたらそれを放ってはおけない。もちろんこれから芦ノ湖へ行くのは面倒だ。できるなら部屋でテレビでも見てゆっくりしていたい。けどこれから死にに行く人間を見捨てることなど俺にはできない。親父は言っていた「人の役に立て」と。そうだよ。たとえニートであってもどこかで人の役に立てるはずだ。なら俺にできるのはあの青年を救うことだろう。ここで動かなければ俺は絶対に後悔する。もし仮に彼が自殺ではなく単に夜の湖を見に行っただけならそれでいい。笑い話になるから。だけど青年が本当に死んでしまったら俺は自分を許せない。人の役に立つ。俺は祈る。ニルヴァーナクリルタルに。クリスタルは青々しく輝き俺の決意を黙って聞いている。魂があるのか判らないけどニルヴァーナクリスタルも俺に彼を救えと言っているような気がした。

 俺は一旦部屋に戻り浴衣から私服に着替えカバンにニルヴァーナクリスタルと財布とスマホを入れて旅館を飛び出す。あの青年は俺に会ってから出て行った。まだ十五分くらいしか経っていない。なら十分追いつける。箱根駅伝を走る気分だった。

 旅館を出ると辺りはもう暗い。それでもホテルや旅館から放たれる灯りがか細く光り輝いているから大丈夫だろう。道路に出ると街灯がチラホラあり視界は大丈夫だ。車の通りはほとんどない。山道を走り箱根湯本駅まで向かう。これ以上走るのはしんどい。駅からタクシーに乗ろう。彼に追いつくためなら早いほうがいい。

 箱根湯本からタクシーを使って芦ノ湖へ向かう。タクシーの運ちゃんはこれから芦ノ湖へ行く俺に怪訝そうな顔をする。

「これから芦ノ湖へ行って何をするの?」と運ちゃん。それを受け俺は「人を救うんです」「は?」「あの芦ノ湖って自殺する人とかいるんですか?」「芦ノ湖は観光名所だけどたまに入水自殺する人もいるんだわ。もしかしてあんた」「いや俺が死ぬんじゃないんです。俺の知り合いが芦ノ湖で自殺するかもしれないんです。だから急いでください」「警察に電話したかね?」「まだ自殺するって確定したわけじゃないんです。それに警察は事件が起きてからじゃないと動きません」「よし急ごう。人助けだな」運ちゃんはキッと真剣な瞳を向けアクセルを踏んだ。覆面パトカーがいたら速攻で捕まるような高速でタクシーは進んで行く。時間にして十五分程度で俺は芦ノ湖へ到着する。「私はここに残ったほうがいいかね?」と運ちゃん。俺は迷ったが「すぐに見つけられるか判りません。待ってもらうわけには」「それはいいんだが。よし。私も仕事中なんだがここであんたを残して帰るのは忍びない。私も協力させてもらうよ」「運転手さん無線使えますか?」「無線?」「そうです。多分俺の知り合いも芦ノ湖までタクシーを使った可能性が高い。なら無線を使ってここに来たタクシーがあるかどうか突き止められませんか?」「う〜ん。今のタクシーはデジタル化が進んで無線は使わないんだ。この液晶タブレットを使って事務所からテキストで指示が来たりするんだがタクシー同士はお互いがどこを走っているかは判らない。だけどタクシー会社の事務所にはナビゲーション画面があって車の位置がリアルタイムに把握されるているんだわ。だから同じタクシー会社なら判るかもしれん。ちょっと待ってくれ。今事務所に問い合わせてみるから」運ちゃんは事務所に電話をかけこの時間帯に芦ノ湖に行ったタクシーがあるかどうか確認している。するとすぐに答えが返ってきた。「一台芦ノ湖まで客を乗せたタクシーがあるみたいだ。まだそのタクシーはこの近辺から動いていない」「判りました。俺急ぎます」

 俺はそう言うと芦ノ湖へ向かって一目散に駆け出した。とは言っても芦ノ湖は広い。広大に広がる湖のどこにあの青年がいるのか判らない。だがニルヴァーナクリスタルをカバから取り出し握りしめて祈る。祈りの強さが状況を変えると信じて。すると神がいたのかもしれない。俺の後ろからあの運ちゃんが走って来たのだ。

「お客さ〜ん」

「あ、運転手さん。どうしたんですか?」

「こっちだ。こっち。君の知り合いかもしれない人間がいる。自殺しようとしているんだ。今俺の同僚が説得している。詳しいことは後で話すがこっちへ来てくれ」

 俺は運ちゃんの後を追い芦ノ湖の箱根神社があるところまでやって来た。そこにはもう一人の運ちゃんとあの青年がいた。青年はおいおいと泣いている。

「斎藤さん。連れて来たよ」

 と運ちゃんが言った。斎藤さんと言うのは運ちゃんの同僚の運転手の名前みたいだ。

「あぁ坂本さんか。よく教えてくれた。ギリギリのところだったよ」

 俺をここまで連れて来た運ちゃんは坂本さんと言うらしい。坂本さんが斎藤さんに連絡し斎藤さんがあの青年を追って行ったのだろう。

 坂本さんと斎藤さんのそばには例の青年がいる。

 俺は青年のそばにより

「自殺しに来たんだな?」青年は泣きながら「死なせてください。僕はもうダメです」「どうして死ぬなんて言うんだ」「就職活動に失敗したんです」「は?それだけで死ぬつもりだったのか?俺なんてニートだぞ。それでも生きてる」「ニートなんですか?」「そうだ。ニートだ。自慢じゃないがほとんど働いたことない」「じゃあ何しにここに来たんですか?」「人の役に立つためだ」「人の役に?」「そうだよ。君を救いに来た。なんとなくだけど君から放たれる負のオーラが気になって追って来たんだ。自殺するんじゃないかっていう直感があったから。でもそれは正しかったみたいだな。死ぬなんてやめなよ」「ダメですよ。僕大学を出てさらに専門学校に行ったんです。それでも就職できなくて、親に申し訳なくて死ぬしかなくて」言ってることがめちゃくちゃだ。ここで死んだら最大の親不孝になることに気づいていない。

 人は誰だってギリギリの中生きているのかもしれない。余裕のある人生を送っている人間のほうが少ないだろう。むしろいつも疑心暗鬼だ。仕事では上手くいっているように思える人間も家庭では問題を抱えているかもしれない。俺だってそう。俺は常に背水の陣だ。何しろ三十歳目前でニートなのだ。だけどそれで死のうとは思わない。確かに冗談で死んだほうがいいかもと言ったことはあるけどそれはあくまでも冗談だ。死はまだ身近ではない。それに俺はニートを続けて来たからこそ働くことが全てではないと考えている。働かざる者食うべからずという労働に関する慣用句があるけどそれは間違いだ。働きたくても働けない人間はたくさんいる。病気だったり運がなかったり。理由は色々だ。だけど働いていないと言うだけでその人に価値がないとはならない。人は生きているから尊いのだ。

「これ君にやるよ」

 と俺は言い持っていたニルヴァーナクリスタルを青年に差し出す。

 闇夜に浮かぶニルヴァーナクリスタルは煌々と暗黒の光を放っている。

「これは?」

「ニルヴァーナクリスタル。悟りを開く石だ。早い話祈るための石だよ」

「悟りを開く?」

「そうだ。悟りは祈りだ。祈ることで開く道もある。だから祈れ。死ぬ暇があったら祈るんだ。そしてどうやったら人の役に立てるか考えろ」

「どうしてあなたは僕を。全くの他人なのに」

「言ったろ。人を救うためだ。そこに理由はない。人の役に立つ。それが俺の存在理由だよ。raison d'êtreだ。とにかく帰ろう。これ以上ここにいたら気分が滅入る」

 俺は青年の肩を抱きしめ静かに立たせるとその足でゆっくりとタクシーに乗る。

 だけどここからが結構面倒だった。斎藤さんが警察に電話したらしく警察官がやって来て色々聞かれたのだ。結局例の青年の親御さんがやって来て事件は余計に大きくなってしまう。親御さんもタクシーを使って夜の中はるばる箱根までやって来たのだ。全てが終わったのは日が切り替わる十二時だった。

 俺は人の役に立った。ニートだった俺が人を救ったのだ。これは暗黒だった俺の人生に一筋の光を与えた。ニルヴァーナクリスタルを使えばもっと人を救えるかもしれない。祈りの重要性を説くのだ。それが俺に与えられた役目かもしれない。


 翌日俺は旅館の女将さんに呼ばれロビーまで降りて行く。そこには昨日の事件の中心人物である青年とその親御さんが立っていた。青年は昨日と同じ格好をしている。

「昨日はどうもありがとうございまいした。僕もう死ぬなんて言いません」

 と青年は言う。その目は少しだけ明るくなっているように感じる。

「そうか。それはよかった」と俺。

「あの昨日は動転していて聞きそびれたんですがお名前を教えてもらえませんか?」

 昨日の夜親御さんにも名前を聞かれたのだけどその時も答えなかった。なんというか名乗ったら見返りを要求しているような気がしたから言わなかったのだ。

「名乗るほどのものじゃないよ」

「でもお礼もしたいですし」

「お礼のためじゃない。祈りは無償だ。それに人助けは見返りのためにするんじゃない。人の役に立つという信念から動くだけだ。だからお礼なんていらないよ」

「しかしそれじゃ僕の気が収まりません。何かさせてもらえませんか?」

「だが断る。ん…待てよ。なら」俺はあることを思い立つ。「ニルヴァーナクリスタルを広めるのに協力してほしい」

 すると青年はキョトンとした顔つきになり

「ニルヴァーナクリスタルって昨日僕にくれた石ですよね?確か悟りを開くっていう」

「そう。これは死んだ親父が作ったものなんだけど親父はこれを広めて人を救いたかったみたいなんだよね。だからその意志を俺が継ぎたいってわけ」

「判りました。協力します」

「ありがとう。なぁもう死ぬなんて言うなよ。自殺なんて一番親不孝なんだからな」

「もう死ぬなんて言いません。生きてみます」

「よし。なら名前を言った方がいいな。あと連絡先を教えておく。ただニルヴァーナクリスタルを広めるための協力をしてもらうだけでそれ以外のお礼はいらないからな。それで俺は作本司。宜しくな。それで君の名前は?」

俺が名乗り自分のラインを教えると青年も教えてくれてその後名乗る。

「僕は山里拓也です。こちらこそ宜しくお願いします」

「俺はしばらく箱根にいる予定なんだけど山里君はどこから来たの?」

「僕は川崎市です。だからそんなに遠くないですかね」

「そうか。俺は新潟だからかなり遠いな。新幹線を使って来たから」

「そうなんですか。ならこっちにいる間にニルヴァーナクリスタルをなんとかしないと。僕これから川崎に帰るんで一緒に川崎に行きませんか?」

「川崎に?まぁいいけど」

「川崎なら箱根よりも都会的だし人も多いですよ。ニルヴァーナクリスタルを広められると思います」

「う〜ん。まぁいいか。これ以上箱根にいても特に何かするわけじゃないし。よし川崎でニルヴァーナクリスタルを広めよう」

 俺は箱根から川崎に行く決意をする。

 山里君は川崎市の溝口という場所に住んでいるらしくそこは小田急ロマンスカーに乗って登戸駅まで行ってそこから南武線に乗り換えて武蔵溝ノ口駅まで行くと到着するようだった。時間にすると大体一時間半くらい。つまりそんなに遠くない。箱根から新潟に行くよりずっと近いのだ。

 荷物をまとめ昨日買ったコンビニ弁当を食べた後旅館をチェックアウトする。山里君はずっと俺を待ってくれていて一緒に箱根湯本駅まで向かう。

 箱根湯本駅は夏のシーズン中で数多くの観光客がいてかなり混雑している。それでも時刻は午前十時だからここから逆に箱根湯本から新宿方面に行く人間はそれほど多くない。電車内はやや混雑していたけど俺は山里君と一緒に座れた。

 山里君は昨日自殺を試みた人間とは思えなくらい変わっていた。昨日は暗黒的な表情をしていたけど今日はその影はなくなっている。恐らくもう自殺の心配はないだろう。これもニルヴァーナクリスタルのおかげかもしれない。祈りの力は無限大だ。人は困難に相対した時祈る。何も起こらないと判っていても祈ることをやめない。俺も祈る。祈って困っている人間の役に立ちたい。人との繋がりが弱くなっている昨今率先して人を救おうとする人間は少ないかもしれない。良かれと思ってしたことが実は相手のためになっていないっていうのは多々あるのだ。それでも俺は人を救いたいし人の役に立ちたい。

 やがて電車は登戸駅に到着し俺たちはそこから南武線に乗り換える。南武線は六両編成の小さな電車だけどそれなりに歴史があるらしい。

 溝口に到着すると山里君は親御さんと別れて俺と行動することになる。親御さんは昨日死のうとしていた人間をここでまた一人にするのに抵抗を覚えていたようだったが俺がいたからなんとか承諾する。俺は絶対に山里君を死なせない。あなたは死なないわ。私が守るもの。

 俺と山里君は南武線の武蔵溝ノ口駅からすぐ近くのノクティというデパートの中にあるカフェに向かう。そこでニルヴァーナクリスタルを広めるための作戦を練る。

「ニルヴァーナクリスタルを広めるためにはそれを売ったらどうでしょう?」

 と山里君が言う。

 ニルヴァーナクリスタルを売るか。それも考えた時期はある。金儲けしたいわけではないけど悟りを開くための石だし売ってもいいのかな?

「売るか…まぁ大量に在庫はあるんだけどね」

「どのくらいあるんですか?」

「多分千個くらい。死んだ親父が大量に作って残していたんだ」

「結構いい石みたいですから売れるかもしれませんよ」

「俺はただニルヴァーナクリスタルを広めたいだけなんだよね」

「でも作本さんは今ニートなんですよね?」

「そうだよ。働いたら負けかなって思ってる」

「それ古いですよ。でもいつまでもニートなわけにはいかないでしょ」

 その通りだ。親父が亡くなり残ったのはお袋だけだ。そのお袋だってもういい歳だ。もうすぐ還暦だしずっと働けるわけじゃない。それに今度は俺がお袋を支えるのだ。働くというのはお金を稼ぐことだ。だから人は嫌な仕事をする。だけど俺は就労=人の役に立つことだと考える。その考えで言えばそこにお金はいらない。たとえお金にならなくても人の役に立てるのならそれでいいのだ。…ん、だけどその考えは甘いか。それでも日本は福祉サービスが割と充実しているから万が一の時は生活保護という選択も取れる。それでも生活保護は色々制約が多い。だからなるべくなら自分の力で生活したい。ならやはり金を稼ぐ必要がある。そうしたらこう考えよう。ニルヴァーナクリスタルで人を幸せにする。そしてその幸せから少しお金を頂く。こうすれば人の役に立つということと稼ぐということを両立できる。

「よし。売ろう。ニルヴァーナクリスタルはたくさんあるから」

 と俺。すると山里君は

「具体的にどのくらいの金額で売りますか?」

「千円くらいかな。前に千円で売ったことがあるし」

「安いですね。あんまり安いと信憑性がないですよ。僕昔【ムー】っていうオカルト系の雑誌をよく読んでいたんですけどそこの通販でよく幸福になる石とか売っていたんです。それって大抵四、五万くらいしましたよ」

「四、五万!そんなに高いの誰が買うんだよ。ただでさえ得体の知れない石なんだぞ」

「そこは作本さんの腕の見せ所ですよ。まずは奇跡を見せる必要があります。ニルヴァーナクリスタルに力があるという証拠を見せれば買ってくれますよ」

「そんな上手くいくかなぁ。第一奇跡なんてどうやって見せるんだよ。俺魔術師じゃないぞ」

「魔術師か…そうだ。占いとかどうです?ニルヴァーナクリスタルを使って人を占ってそしてついでに石を買ってもらう。占いが当たれば人はそれを奇跡と信じ石を買ってくれますよ」

「でも俺占いなんてできないよ。それに適当なこと言って人を騙すの嫌だよ」

「騙すんじゃないですよ。人がより良い方向に行けるようにアドバイスするんです。作本さん言ってたじゃないですか。人の役に立ちたいって。占いって最高に人の役に立つと思います。占いをしに来る人は困っている人ですからその困っている人の悩みを聞いて助けてあげる。それでいいんです」

「占いの勉強しないとな」

「二人でやりましょう。例えば二人でインカムを使って占うとかどうです?こんな感じです。まず作本さんが占い師として人を占いお客さんの生年月日とか聞いて僕にインカムで伝える。インカムでメッセージを受け取った僕はネットで生年月日占いとかを見てそこで得た情報をやはりインカムで作本さんに伝える。それを受け取った作本さんは占ったふりをしてお客さんに伝える。もちろんインカムを付けているのは隠す必要がありますけど可能だと思いますよ」

「それってインチキじゃん。ダメだよ」

「最初だけです。軌道に乗るまでの辛抱です。徐々に慣れていけばその人がどう困っていてどういったアドバイスを欲しがっているのかが判ります。最初はネットの力を使って活動する。慣れたらそれをやめて自分の力でなんとかする。それが一番いいですよ」

 なんだが話がどんどん変な方向に流れているような気がする。俺占い師になるのか?今まで占いなんてまるで信じてこなかった。確かにニュース番組の星座占いとかは見たことがあるけどいい時だけ信じて悪い時は信じないのが基本スタンスだ。そんな俺が占いなんてできるのか?それも最初はインチキに近い占いだ。

「作本さんは僕を救ってくれました。だから今度は僕が作本さんを救いたい。お手伝いさせてください。あぁそうだ、作本さんはどのくらいこっちにいられるんですか?」

「金がそんなにないからなぁ。長くても一週間くらいかな。あんまり長く旅をしていられない。それにさ、ニルヴァーナクリスタルは実家には大量にあってもこっちに持って来たのは僅かなんだ」

「とにかくやってみましょう。まずはやってから考えましょう」

 確かにまずやってみるというのは大切かもしれない。人は新しい何かを始める時必ず億劫になる。そして何か理由をつけてやるのを先延ばしにする。だけどそれが一番いけない。先延ばしにすればするほどやる気はどんどん低下する。やると決めた時がやり始めるのに一番適している時なんだ。

 しかし本当に上手くいくのか?占い初心者だし勝手がまるで判らない。いやいやこれもよくない癖だな。できるできないで物事を測っちゃダメだ。やるかやらないかだ。例えば英語を話したいと思っても英語ができないから少し勉強してから英会話を始めようとするのはよくない。まずは飛び込むべきだ。いきなり外国に行って無理やり英語の環境に浸かる。そうやっていけばそこで何か問題にぶつかりその問題を解決していくことで人は成長する。問題はやりながらクリアにする。それが一番いいだろう。俺は占いを知らない。けどまずは飛び込むべきだ。岡本太郎だって怖かったら逆に飛び込んでごらんと言っている。俺が体当たりでぶつからなければニルヴァーナクリスタルは広められない。漕ぎ出せ大海原へ。

 作本司占い師化計画始動。俺は今日川崎の地で占い師になる。とは言ってもまずはどこで占いをするかだ。どこでやってもいいのだけどどうせなら人が集まる場所の方がいい。そこで俺たちは駅を選んだ。今いるカフェから駅がすぐだったという理由もあるけどよく駅で占いをしている人を見かけるからそこでやってみようと思った。ただ駅で占いをするためには一応許可がいるらしい。日本では通行以外の公道の勝手な利用は禁止されている。許可を申請する場所は駅なら鉄道会社。溝口にはJR武蔵溝ノ口駅と東急田園都市線の溝の口駅の二つの駅があるけど俺たちはJR側にお願いする。しかしここで問題が起きる。駅の近くで占いをするための許可が降りなかったのだ。JRがダメだったから東急田園都市線のほうにも行ったけどこちらもダメだった。となると俺たちが駅でよく見る占い師たちは勝手にやっていることになる。どうやらここら辺はグレーゾーンらしい。勝手に占いをやって注意されたらやめる。そんなスタンスのようだ。ただあまりに改札に近いところでやるとすぐに見つかってしまうので俺たちは駅の改札から少し離れた広場のようなところで店を広げることにした。

 まずは下準備だ。スマホのインカムアプリをインストールし溝口のドンキホーテに行き折りたたみの机を一つと同じく折りたたみの椅子を二脚とインカムアプリ用のBluetoothのイヤホンとあとはイヤホンをしているのを隠すための夏でも使える耳まで隠れる大きめのニット帽を買う。これで結構な出費になってしまったがまぁ仕方ないだろう。肝心の占いというのは俺が占いをしてインカムで情報を山里君に伝え少し離れたところで待機している彼がネットでリサーチしてその内容をインカムで俺に伝えるという仕組みだ。まぁインチキ占い師なのだが最初はそれいいだろう。人を救う。いい方向に行けるようにアドバイスするのだ。

 占いますという札を書きそれを机に下げる。インカムアプリを起動させてテストをしてみてOKだったからイヤホンをしてニット帽をかぶりあとは人が来るまで待つ。しかしいくら待っても誰も来ない。何しろ得体の知れない占い師だ。こんなよく判らないニートの俺に占って欲しい人間などいないのかもしれない。

 しかし待つこと一時間半。ようやく最初のお客さんがやって来る。それは初老の女性だった。一人だ。身なりは結構よく薄手の白ブラウスにゆったりとしたダークトーンのパンツを合わせている。足元は黒のパンプスだ。

「こんなところで占いなんて珍しいわね。占ってもらおうかしら。いくら?」

 と初老の女性は言った。

 それを受け俺は

「十五分で二千円です」

「そう。判ったわ。はい二千円」

 初老の女性はあっさりと二千円出す。それを受け取った俺は

「ありがとうございます。では占いますので生年月日を教えてください」

「1957年8月18日」

「そうですか。1957年8月18日ですね。どんなことを占って欲しいですか?」

「私の息子のこと。もうすぐ四十歳なのにまだ結婚しないの。普通に働いているし性格だって真面目だと思うんだけど彼女すらいないみたいなの。息子の結婚運を見てくれないかしら?」

 占いをしに来たのに自分のことではなく自分の息子を占ってほしいらしい。ならば

「では息子さんの生年月日を教えてもらえますか?」

「1983年10月26日」

「判りました。1983年の10月26日ですね。今占います」

 俺は繰り返しそう言い山里くんに情報を与える。あとは山里君がネットでリサーチしてその内容を俺に伝えるだけだ。ただ少し調べるまで時間がある。そこで俺はニルヴァーナクリスタルを使って占うフリをする。すると老婆はニルヴァーナクリスタルを見つめ

「綺麗な石ね。水晶?」

「違います。ニルヴァーナクリスタルです」

「ニルヴァーナクリスタル?何なのそれ?」

「この石に祈りを捧げると悟りを開けるというありがたいものです。俺は石の力を使って祈りを捧げそれで占います。あ、ちなみにこの石は販売もしています。一万円ですが」

「一万円!高いわね。だったらいらないわ」

「でしょうね。無理に買ってくれとは言いません。…っと占いの結果ですよね」

 インカムで山里君から返答が来る。

(10月26日生まれの人はなかなか本業に熱心になれず他のことに夢中になってしまう傾向があるみたいです。それと色々なことが気になるタイプなので折に触れて有用な発明をする可能性があると出ています)

 なるほど。これなら上手くアドバイスできそうだ。俺は山里君の告げた占いの内容を踏まえながら初老の女性に伝える。

「あの息子さんは色んなことに夢中になるタイプなのかもしれません。だから結婚に目がいかず色々したくなるのです」

 すると初老の女性はふむふむと頷きながら

「確かにそうかもしれないわ。若い頃から多趣味だったから」

「そうでしょう。だからですよ」

「じゃあどうしたら結婚に目が向くの?今時お見合いなんてしないでしょう」

 さて困った。山里君助けてくれ。

 俺の意思が通じたのか山里君がアドバイスを出す。

(誕生日カラーは赤みたいです。だから赤を身につけると良いみたいなこと言ったらどうでしょう)

 山里君の助けを聞き俺は初老の女性にアドバイスする。

「息子さんのラッキーカラーは赤です。ですから赤いものを身につけましょう」

「赤だったらなんでもいいの?」

「はい。服だと目立つのでハンカチとかがいいかもしれません。それなら男性でも持ちやすいですし」

「そう、早速やってみるわ。ありがとう。もしも赤いものを使って結婚できたらお礼に来るわね」

「いえ、お礼なんていらないですよ。俺は占いで人の役に立ちたいだけですから」

 後は当たり障りにのない話をして俺の最初の占いは終わる。一応親身になって話を聞くことを重要視する。初老の女性も俺の親身な態度に概ね満足してくれたようだった。それからもしばらく座って待ったのだけどお客さんは来ない。そこで一旦山里君と落ち合いそこで今後の方針を話し合う。

「客が来ないな」

 と俺。すると山里君は

「最初はこんなものですよ。でも最初のお客さんを無事こなせましたね。離れた場所から見ていましたけどなかなか板についていましたよ」

「そうかな。あんまり実感ないけど」

「素質ありますよ。後は経験を積み続ければいいんですよ」

「まぁとにかくやってみるかぁ」

 再び俺は椅子に座り占い師としてお客さんが来るのを待つ。

 ただそこにやって来たのは駅員だった。

「ちょっとお兄さん。ここで何してんの?」

 駅員は少し怒っている。参ったな。

「いや占いを」と俺。すると駅員は

「ダメだよ。ちゃんと許可取ってるの?」

「許可は取ろうと思ったんですけどダメだったみたいで」

「そりゃそうだよ。ここで占いなんてやっちゃダメなんだから」

「なんとか今日だけ見逃してくれませんか?俺ずっとここにいられるわけじゃないんで」

「ダメだったらダメ。あんまりしつこいと警察呼ぶよ」

「じゃあ駅でこの石売ってくれませんか?」

「は?あんた何言ってんの?石って何さ?」

「ニルヴァーナクリスタルです。持つだけで悟りを開くというありがたい石です」

「あのねぇ。そんな霊感商法みたいなもの余計にダメだよ。ほら早く片づけて」

 これ以上は引き下がれない。ここまでのようだ。俺は椅子と机をたたみ駅員に会釈をしてその場を後にする。俺たちのやりとりを聞いていた山里君もすぐにやって来る。

「この辺りはダメみたいだ。駅員のガードが堅い」と俺。

これには山里君も困ったみたいだ。

「他の占い師ってどうやってやっているんですかね?確かにこの辺には占い師はいないけど。ほら銀座の母とか新宿の母とかいうじゃないですか?ああいう人たちもいちいち許可とか取っているんですかね?」

「それは判らん。ただあのクラスになると占いがよく当たるってことで見逃してもらえそうだけど。俺たちには実績がないからなぁ。とりあえずここからもう少し離れたところでやってみるか?」

「そうですね。駅から少し離れてもこの辺は人通りが多いですからお客さんが来るかもしれません」

 俺たちが次に向かったのは武蔵溝ノ口駅からちょっとだけ離れた小さな公園だった。砂場があり後は滑り台が一基とベンチが二基あるだけの小さな公園だ。ここならまだやっても問題ないかもしれない。

 俺は椅子と机をセットしてお客さんが来るのを待つ。ただ今度やって来たのは小さな子供だった。恐らくまだ小学一、二年生くらいだろう。夏休み中公園に遊びに来たという感じだ。

「おじさん何してんの?」

 子供は言う。俺はもうすぐ三十歳だがまだおじさんという歳ではない。ショックを受けるけど相手は小さな子供だし何も言わない。子供は半袖短パンにジャイアンツのキャップをかぶっている。今時野球チームの帽子をかぶる小学生なんているんだな。

「占いだよ。君小学生?占ってやろうか?」と俺。

「小学一年生だよ。でも占い?当たるの?」

「どうだろな。当たるかもしれないし。当たらないかもしれない。信じるのは君次第だよ」

「やってみてよ」

「本当は二千円するんだけど小学生からお金は取れないから特別に無料にしてやるよ」

「わ〜い」

「生年月日を教えてくれ」

「2015年5月5日だよ」

「わかった。2015年5月5日だな。今占う」

 俺はそう言いインカムの先の山里くんがネットで調べた占い結果が来るのを待つ。

 山里君も慣れてきたのかすぐに回答が来る。

(小さいことには動じないしぶとさを持っています。後は頭の回転が早いみたいですね。それ以外は理屈ばかりでなかなか行動に移さないので腰が重いみたいです。う〜ん。それとやや早咲きみたいですね。若い頃から名を上げる人が多いと出ています)

「占った」俺は言う。「君は小さいことはあまりくよくよしないね」

 すると少年は

「どうだろ。そうかもしれないけど」

「それと頭の回転は早い方だね?」

「頭の回転って何?」

「う〜ん。なんて言えばいいんだろう。状況を理解する力が素早いってことかな?これで判る?」

「なんとなく。僕割と頭はいいよ。テストで百点取ったことあるし」

「ふむ。君は頭がいいから若くして成功する可能性がある。夢とかあるのかい?」

「夢?YouTuberかなぁ」

「なら今すぐ始めるといい。すぐに結果が出るかもしれない」

「ダメだよ。お母さんが反対する。ああいうのは大人になってからしなさいって言うんだ」

「なるほどね。じゃあ他にやりたいことは?」

「そうだなぁ。野球選手とかになりたいけど運動は苦手なんだ」

「練習をすれば甲子園だって行けるかもしれない。努力するといい」

「面倒だなぁ。でもおじさんの占いは当たってるような気がするよ。ありがとう」

 お礼を言われた。

 何か嬉しい。相手が子供でもその人の役に立っている気がする。もしかして占い師は天職なのか?

 俺がそんなことを考えていると前方に若い女性が現れた。多分三十代だろう。

「ちょっと何してるんですか?うちの子相手に」と女性。うちの子と言ったってことはこの子供のお母さんか?それを受け俺は答える。「ちょっと占いをしていて」「占い?こんな小さな子相手に?まさかお金とか取るつもりじゃ?」「いえ。お金はいりません。無料です。占いをしてみた結果ですがお子さんは若くして成功する素質があるようです」「いい加減なこと言わないでください。占い師なんてみんなインチキでしょ」「俺はニルヴァーナクリスタルを使って占う本物の占い師です」と俺。実際は無能の占い師だけどそれは言わない。お母さんはキッと俺を睨みつける。「ニルヴァーナクリスタルってなんですか?」「持つだけで悟りを開くありがたい石です。ちなみに販売しています。一個一万円ですけど」「一万円!そんなインチキな石を売っているんですね。警察呼びますよ。こんな小さな子相手にインチキ商売して恥ずかしくないんですか?」「だからこの子の占いは無料ですって。それに石だって無理に買ってくれとは言いません。ただ祈りの大切さを教えたいんです」「祈り?」「そうです。ほらよく困ったことがあると祈るでしょ?祈りには力があるんです。人の幸せを祈ることだって立派な祈りです。僕はこの少年に幸せになってほしい」「あなた何言ってるんですか?危ない宗教じゃないですか?もう、うちの子に勝手なこと言うのはやめてください。これ以上何か言うなら本当に警察呼びますから」「判りました。もう何も言いません。俺はただ占いで人の役に立ちたいだけですから」お母さんは訝しそうな顔をしながら少年の手を引いて消えて行った。

 俺は再び残されて公園で一人になる。

 しかし新たな問題が立ち上がる。俺が占いするために待っていると警官がやって来たのだ。恐らくさっきのお母さんが通報したんだろう。参ったな。

「ちょっとお兄さん。こんなところでお店広げて営業許可証持ってるの?」

 警官はやや面倒臭そうに俺に向かってそう言った。

 それを受け俺は

「いや持っていないです。やめろと言うのなら立ち去ります。だから許してください」

「公道や公園では勝手に商売できないんだよ。だから今すぐやめなさい。いいね」

「判りました。すみませんでした」

「でも占いか。この辺じゃ珍しいよね。それにまだ若いのに仕事は何してるの?」

「今は働いていないです。旅をしている最中です。新潟から出て来ました」

「ちょっと身分確認できるものある?」

「免許証はありますけど」

 俺は財布の中から免許証を取り出しそれを見せる。すると警官はその免許証を見つめながら

「とりあえず今回は許すけど、また同じことやったら今度は一緒に警察署に来てもらうからね」

「はい。すみません。もうしないです」

 俺は解放される。どうやらこの近辺で占いはできないらしい。やはり占い師なんて無理なのだ。俺は山里君を呼び戻し占いはやめようと告げる。山里君も警官に目をつけられたらもうできないと察したらしい。

「占いはダメかもしれませんね。そうしたらどうしよう。ニルヴァーナクリスタルどうやったら売れますかね?」

 山里君は言う。

 俺は答える。

「まぁ無理して売らなくてもいいよ。こんな得体の知れない石、一個一万円じゃ絶対に売れないだろうし」

「メルカリとかで売ってみますか?ヤフオクとかでもいいですけど」

「誰も買わんだろ。やるだけ無駄だよ」

「そうですか。なんかすみません。協力できなくて」

「いやいいよ。とりあえずどこかで休もうか」

「そうですね」

 俺たちは再び武蔵溝ノ口駅まで戻り駅の近くにあるコメダ珈琲に入る。折りたたみ式であるとはいえ椅子や机がかなり邪魔になってしまうが仕方ない。店内は平日だというのに混雑している。それでも空いた席がありそこに座る。席に座り俺たちはアイスコーヒーを頼む。待っている間山里君がスマホで色々調べる。

「やっぱりメルカリがいいですよ。石とか結構売ってますよ。あんまり高くないですけど」

「どのくらい?」

「千円前後が多いですね。一万円以上はあまりないです」

「まぁそんなもんだろ。じゃ、メルカリで売ってみようかな。それに椅子や机も売ろう。持っていても仕方ないし」

「そうですね。出品は簡単ですからやってみますか?」

「そうだなぁ。家に大量にあるからそれが処分できれば一番良いけど、親父はニルヴァーナクリスタルを使って祈りの重要性を説きたかったんだよ。それができずただ石を売るのは虚しいかな」

「祈りですか…」

「そう。祈り。俺も最近よく祈るようになってさ、それでなんだか日常が変わったような気がするんだよね」

「日常が?」

「うん。祈るために瞑想の時間を作るとリラックスできるっていうか、まぁ気の迷いかも知れないんだけど」

「少し前ですけどマインドフルネスとか流行りましたからね。瞑想には強い力があるのかもしれません」

 やがて店員がアイスコーヒーを持って来る。俺たちはそれをブラックで飲む。コメダ珈琲は新潟にもあるけど行ったことはない。コメダ珈琲のアイスコーヒーはグラスがステンレスでできていてキンキンに冷やされている。それでいて味が濃くて美味しいから疲れた体に心地よく染み渡っていく。

 俺何がしたいんだろう?

 本当はそれを探しに旅に出たのに結局したことは山里君を救い占いを少ししただけで他は何もやっていない。これではなんのために新潟からはるばるやって来たのか判らない。金だって無限ではない。まだあるけどそれはずっとではない。仮にこの旅が終わったら俺はどうなるんだろう?新潟に戻って働くのか?いや働けるのか??それは謎だ。俺の未来は暗黒だな。

 暗黒の未来が広がっているはずなのにどういうわけか俺はそんなに焦っていなかった。多分焦りがないとおかしいと思う。だってもうすぐ三十歳なのに無職なのだ。この境遇がいいわけがない。きちんと働いてお袋を安心させなければならないのに。

「人ってどうして生きるんだろうな?」と俺はアイスコーヒーを飲み干し言う。すると山里君は「それを自殺しようとしていた僕に聞きます?でも難しいですね。多分生きる意味なんてないんですよ」「意味がないのにどうして生きるんだろう」「もしかして死にたいとか考えてます?それこそミイラ取りがミイラになるですよ」「いや死にたいわけじゃない。ただ自分の存在理由が判らなくなって。俺はさ人の役に立ちたい。それは間違いないんだけどそれができないしせっかく占いをして人の役に立とうと思ったのにそれもできない。どうやったら人の役に立てるんだろう?」「占いをする気はあるんですか?」「判らないよ。でも少しやってみて楽しくは感じたかな。人にアドバイスするのって楽しいし」「占いの道に行くならタロットカードとか覚えるといいかもしれませんね。そっちの方がなんとなく占い師っぽいし」「タロットか。それはそれで面倒だな」「まず何をするのか整理しましょう。とりあえず作本さんはニルヴァーナクリスタルで人の役に立ちたいんですよね?」「まぁそうかな。できるか判らないけど」「大量にあるニルヴァーナクリスタルはどうするんですか?」「家に置いておいても仕方ないから処分したいけど」「ならメルカリで売りましょう。それで売れたらその時考えましょう。まずはやってみないと」「そうかもな…」

 俺はメルカリでニルヴァーナクリスタルを売ってみようと思い立つ。どうせあっても荷物になるだけだ。お袋だって大量に残されたニルヴァーナクリスタルには驚いていたのだ。親父の形見ではあるけど形見は一個あればそれでいい。売れるものは売ってスッキリした方がいいだろう。

 メルカリの出品方法は簡単だ。売りたい商品の写真を撮ってその商品の詳細を書いて販売価格を設定して出品するだけだ。日本最大級のフリマアプリだけあって利用者も多い。山里君に倣い俺も少し調べてみたけどニルヴァーナクリスタルのような綺麗な石もたくさん出品されているのが判った。もしかしたら売れるかもしれない。

 売るためには写真が命だけど俺は面倒だったのでコメダ珈琲の机の上にニルヴァーナクリスタルを置いてそれを写真に撮る。価格は一個千円。本当は一万円にしたかったけどメルカリに出品されている石の多くが安かったのであまり高いと売れないと思ってとりあえず千円にしてみる。ついでに占いで使った折りたたみの椅子や机も店の外に出て写真に撮って出品する手はずを整える。Bluetoothのイヤホンとニット帽は利用価値があるので俺がそのまま使うことにする。

 武蔵溝ノ口駅の近くの広場に行き出品した商品が売れるのを待つ。しかしそんなに簡単には売れない。写真がクソなのもあるけど何しろ商品説明に悟りを開く石と書いてあるのだ。完全に曰く付きだ。こんなものを買う人間は余程の物好きだろう。だがこの世にはいろんな人間がいる。これを面白いと思って買ってくれる人間もいるかもしれない。ニルヴァーナクリスタルに悟りを開く力があるかどうかと聞かれたら多分ないというのが答えだろう。けれどこの石は薄い綺麗なブルーをしているから置き物としていいかもしれない。綺麗な石を集めている人間だっているはずなのでそういう人間の目に留まれば売れる可能性はある。一個千円だしね。買う人にとってもそんなに痛い出費にはならないはずだ。

「なぁ山里君。君の言った通り生きるって多分深い意味はないのかもしれない」

 と俺は言う。

山里君が俺をチラッと見たあと答える。

「そうかもしれないですね。僕みたいに色々考えると死にたくなるのかもしれないです。それよりももっと大らかに考えていちいち細かいことを気にしないようにするといいのかもしれません」

ニルヴァーナクリスタルを握りしめると突如ビビッと生きる意味みたいなものが浮かび上がる。同時に俺は今生きてるんだとはっきり自覚する。そして今思い浮かんだことを山里君に告げる。

「今この瞬間を生きることが大切なんだ」

 山里君は呆然としながら繰り返す。

「今この瞬間を?」

「そう。今に目を向ければ過去を振り返ることもないし未来を心配する必要もない。大切のなのは今なんだ。だから俺は今を生きる」

 俺の生きる目的がはっきりしたような気がする。

 生きる目的は人それぞれあるかもしれない。俺は人の役に立つってこと。そのためにニルヴァーナクリスタルを使うのだ。それに目的があったほうがいいかもしれない。目的がなくても生きているけど目的があったほうが生きるのが楽しくなる。人はそれまでできなかったことができるようになると嬉しい。例えばピアノをやっているとして最初は上手く弾けなくても毎日練習するといつしかある程度弾けるようになる。そうなると嬉しいしもっとやりたくなる。そうだよ目的を持って今この瞬間を生きればいいんだ。

「もう一度占いをやろう」

 と俺は言う。驚いたのは山里君だ。

「え?本気ですか?ここら辺じゃできませんよ。警察に目をつけられているんですから」

「迷った時はやった方がいい。なんとなくだけどそう思う。どうやったら占いができると思う?」

「やっぱり駅でやるなら駅員に許可を取る必要がありますけど武蔵溝ノ口駅じゃダメだったみたいですし。う〜ん。商店街とかいいかもしれませんね。ここからだと武蔵新城って駅の近くにアーケード商店街があります」

「そこでやろう」

「商店街の組合なら許可が下りるかもしれませんね。やってみましょうか?そしたら椅子や机の出品どうします?もう少し待ちますか?」

「そうだな。椅子や机はもう少し後にしよう」

「判りました。これからやりますか?」

「いやとりあえず今日は遅いから明日やってみよう」

 俺たちは新たな目標を見つける。とりあえず今この瞬間に目を向けるのだ。人生で今が一番若い。何かを始めるのに遅いってことはないはずだ。


 俺は武蔵溝ノ口駅のそばにあるメッツというホテルに泊まり朝になったら再び武蔵溝ノ口駅でTシャツにデニムという格好をした山里君と待ち合わせしそこから南武線に乗り武蔵溝ノ口から一つ先の武蔵新城駅まで行く。この駅は快速も停まるしとても大きい。山里君の言った通り武蔵新城駅の近くにはアーケード商店街があり人がたくさんいる。確かにここなら占いをしてもいいかもしれない。ただ昨日の一件もある。とりあえず商店街の代表に一言言っておいた方が良いだろう。武蔵新城のアーケード商店街で占いをするためには恐らく新城商店街振興組合というところに連絡しなければならない。本当は武蔵新城駅に来る前に電話しておけばよかったのだけどやる気が先走ってしまいやって来てしまった。まずは新城商店街振興組合に電話しよう。これはネットで調べられたから俺はそこに電話をかける。

「はい。新城商店街振興組合会館ですが」

 電話の声は女の人だった。

 俺はすぐに答える。

「あのアーケード商店街で占いをしたいんですけど許可もらえませんか?」

「は?」

「だから占いです。商店街で占いをしたいんです」

「ちょっと待ってください。今判る者に変わります」

 しばらく待つと今度はおじさんが電話に出る。

「商店街で占いをしたいって。ダメだよ。そんなの許可できないな」

「どうしてですか?」

「そりゃ商店街はきちんと店を出している人が商売するところだからだよ。それを邪魔されたら困る」

「ダメですか?俺占いで人の役に立ちたいんです」

「う〜ん。そうは言ってもね。ダメなものはダメだよ。占いなんてよく判らないものに営業許可を与えるわけにはいかないよ。他に示しがつかないからね」

「どうしてもダメですか?じゃあ俺があなたを占うんでそれが当たったら許可をください」

「だからダメだって。私は占いなんて信じてないし」

「じゃあ石を買ってもらえませんか?ニルヴァーナクリスタルって言って持つだけで悟りを開く石なんですけど」

「何言ってんの?君霊感商法でもしてるの?怪しいな。これ以上食い下がるようなら警察に通報するよ」

 また警察と出た。オレオレ詐欺とか多いからこの辺みんなシビアになっているのかもしれない。とにかく判ったのはここでは占いはできないということだ。同時に俺は必要とされていない。そう考えるととても寂しい。

「判りました。変なこと言ってすみません。占いはしないんで警察には連絡しないでください。それでは失礼します」

 そう言い俺は電話を切る。俺たちのやりとりを聞いていた山里君もがっかりしたような表情を浮かべている。

「ダメだったんですね」

 と山里君。

 俺は答える。

「うん。ダメみたい。諦めよう。俺は必要とされていないみたいだ」

 人が一番ショックを受けるのは無職だからとかそういうことではない。自分が必要とされていない。これが一番堪えるのだ。人はどこかで繋がっていたいし必要とされたい。これが人の役の立つということに繋がる。せっかく人の役に立てそうだったのにその道は断たれてしまった。さてどうするか?まだ金はあるけど俺の旅も終わりかな。どうせ山里君がいないと占いはできないし。まぁタロットカードを覚えるという方法もあるけど時間がかかりそうだしすぐには実践できないだろう。第一タロットカード持っていないし詳しく知らない。確か愚者っていうカードがあったような気がするけど。

「これからどうします?」

 と山里君。

 どうしようもないと思いながら俺は答える。

「とりあえず椅子や机をメルカリに出してあとはニルヴァーナクリスタルが売れるのを待つよ。はぁ俺の旅も終わりかもしれない」

「そうですか。残念ですね。でもまだメルカリに出したニルヴァーナクリスタルが売れるかもしれないし。元気出してください」

「そうだな」

 俺たちは一旦武蔵溝ノ口駅に戻る。本来なら新潟に戻るのがベストな選択肢なのだけど占いで使った椅子や机が売れないと帰れない。俺はドンキホーテもびっくりな激安価格で椅子や机を出品し売れるのを待つ。すると意外にすぐに売れて配送の手続きをする。ただ売れて欲しいニルヴァーナクリスタルは全然売れない。売れるまで何日か待ってみたが五日経ったというのに売れなかったから俺は諦めて新潟に帰ろうと決意する。もう既に旅に出て一週間が経とうとしている。ここ数日は占いができなくなって山里君と溝口近辺を観光して過ごすだけだったのでそろそろ帰らないとダメだなと考える。見切りをつけて俺が新潟に帰る日占いで使ったニット帽をかぶり武蔵溝ノ口駅へ向かうために駅前の広場を歩いていると小さな奇跡が起こる。俺が初めて占った初老の女性と邂逅したのだ。彼女は総柄のチュニックに黒のパンツを合わせたお洒落な格好だった。

「ちょっとお兄さん。会いたかったのよ」と初老の女性。俺はびっくりしながら「どうもこんにちわ」「今日は占いしないの?」「えぇちょっとここではできなくなりまして」「そう残念ね。せっかく良い占い師だと思ったのに」「どういうことです?」「あなたの占いの通り息子に赤いハンカチを身につけさせたら彼女ができたのよ。今流行りのなんていうのマッチングアプリ?それで出会ったんですって。私には内緒で前々から連絡は取り合っていたみたいなんだけど私が赤いハンカチを持たせた日に告白したら付き合うことになったんですって。もしかしたら結婚するかも」意外な展開。俺の占いは適当だったけど少し嬉しくなる。「よかったですね。あの正直に言うと俺インチキなんです。あの占い俺が占ったわけじゃないんですよ」「え?そうなの。でも当たったわよ」「まぁ偶然っていうか」「自信持ちなさいよ。あなた素質あるわよ。今はインチキかもしれないけど続ければ良い占い師になれる気がするわ。だって私を占っていた時のあなた真剣だったし何よりも親身になって話を聞いてくれたじゃない?そういうのって大切だと思うわ」「ありがとうございます」「それでなんだっけこの間言っていたじゃない?悟りを開く石。あれ買ってあげてもいいわ」「本当ですか?」「いくらだっけ?」「千円です。メルカリにも出品してあるんで」「そう。じゃあ千円。悟りを開けるか判らないけど綺麗な石ね。置き物にはいいかもしれない」俺はニルヴァーナクリスタルを渡す。一応十個ほど持って来たのだ。初老の女性から千円を受け取ると彼女は嬉しそうに「ありがとう」と言って俺の前から消えて行く。売れた。ニルヴァーナクリスタルが。同時に俺の占いが役に立った。これってかなり嬉しい。

 俺の旅はこれで終わる。この旅で俺は三十歳になった。まだ金は少しあるけど俺は自分の行くべき道を見つけたような気がする。俺の天職が占い師かどうかは判らないしこの先やるかどうかも判らない。けど俺は今この瞬間を大切にして仕事を通して人の役に立ちたい。そのための仕事を探すのだ。ボランティアでもなんでもいい。人の役に立つことこそ生きる意味で存在理由なのだ。人は一人では生きていけないから協力し合って生きて行く。だから俺もその輪に加わりたい。

俺も少しは悟りを開けたかな?なんとなくだけどニルヴァーナクリスタルを持って前向きになれたような気がするよ。

〈了〉

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