びぃだまのみずうみ
ネスト。温かな棲み家。出会ったのはこの場所で、別れもまた、この場所だった。
サハラとの出会いは、十八の春のこと。インソムニア療養施設、『ネスト』にて。どれだけ時間が過ぎたって、忘れもしない。だって、その日は兄の死んだ日だったから。
インソムニア。眠らぬ人。それは生まれた瞬間から眠ることを知らない、彼らを指す言葉。
先天性の病とされているけれど治療法はなく、原因も不明。わかっていることは、彼らには他人の感情を敏感に感じ取る特性があるということ。嬉しいとか、悲しいとか。彼らは他人の持つそういった気持ちを音として、色として、感じ取ることができるのだという。
医師である父と、看護師の母。二人が莫大な予算をかけて彼らのための療養施設を作ったのは、私が生まれるずっと前のこと。
ネスト。巣、と名付けられた施設では、今も多くのインソムニアたちが生活している。一見、普通の人と変わらない様子で。皮肉なことだと思う。だって、その大勢の中には、私の兄の姿も混ざっていたのだから。
彼ら、インソムニアの一生はさほど長くはない。日ごと積み重なっていく疲労に、体が耐え切れないから。生まれて数日でこの世を去る子供も珍しくはないし、そうでなくても大人になりきる前にいなくなってしまう。
兄も例外ではなかった。二十二歳。普通の感覚ではまだ若すぎる年齢で、私の前からいなくなった。
ひどくうららかな日だった。晩春。光が弾け、鳥が歌い、風は暖かい。よく晴れた空に浮かぶ雲はどこまでも白く、咲き誇る花々を蝶が渡る。平和で、穏やかで、希望に溢れていて。そんな景色すら、悲しかった。
施設内に作られた小さな教会から逃げ出して、私は一人、浮かんでくる感情に耐えていた。涙は流さなかった。声も出なかった。ただ、歯を食いしばって。その時だった。
「うるさい」
不意に聞こえた不機嫌な声に振り向くと、そこに一人の男が立っていた。
だらし無い着こなしの喪服。焦げ茶の髪。長い前髪が顔の半分を隠しているせいでどこか排他的な印象を受けるその吊り上がった目元に刻まれた黒い影を見つけて、複雑な気分になる。深い隈。病の証。彼も、兄と同じ。
「泣いてんじゃねえよ」
ぼんやりとしている私の前で、彼は再び口を開いた。不快そうな言葉には、同情も憐憫も籠められてはいなかった。
「…泣いてないよ」
「泣いてんだろうが。思いっ切り」
言い切られた言葉は、間違いではなかった。だって、心の中は悲しみでいっぱいで、確かに苦しかったから。泣き出しそうなくらいざわめいていたから。インソムニアに強がりは通じない。それは、兄といるときも一緒だった。
「お前、千里の妹だろ?」
兄の名前を出されて、再び心がざわめく。泣きたいような気持ちが増す。男が小さく息をついた。ため息とさえ言えない微かな仕草。うるさい。再びそう言われた気がした。
悲しみをごまかしたくて。けれど、震える声を悟られたくなくて。出てきたのは、とても短い問いだった。
「…誰?」
「ああ?お前オレのこと知らねえの?どんだけ」
男は顎を上げ、わざと高い位置から私を見下ろす。黒の瞳に光が入って綺麗な赤茶に変わるのを、あの日、私は不思議な気持ちで見つめていた。
「サハラ。千里のダチだ」
それが出会いだった。高い空をツバメが飛び交う、春のこと。あの日からサハラは理由もなく私の前に現れては、悲しみに暮れる私を叱り飛ばすようになった。毎日、毎日。
「おい。うるせえっつってんだろ」
風が雲を流していく様をぼんやりと見ていた私は、粗暴な言葉で現実に引き戻された。馬鹿みたいに広い敷地を埋める庭園。生前、兄がよく座っていたベンチに腰を下ろしていた私は、視線を巡らせて声の出所を捜す。
冷たささえ感じさせる言葉を投げ付けたサハラは、私の隣にどっかりと座って舌打ちをした。
「お前な、いつまでも悲壮感漂わせてんじゃねえよ」
兄がいなくなって、気がつけば一月以上。
一流大学への入学を許可されていた私が、長い時間電車を乗り継いで金のかかった立派な校舎へ足を運んだのはたった一度きり。後の数十日は兄のいた施設の隅っこで、ただぼんやりと時を過ごした。両親は何も言わなかったし、何を言われたってきっと無駄だった。
私がフリーズしている間も時間は流れ、桜は葉を茂らせ、風はどこかへ過ぎ去った。思考停止した私の心は、それでも空っぽにはならず、ふと気付くと悲しみばかりが浮かび上がってくる。
サハラの話では、悲しみはひどく高音の耳鳴りに似た音がするらしい。耳障りだからいつまでも沈んでんじゃねえ。毎日のように言われた言葉だ。
「お前な、泣きたいんなら素直に泣きやがれ。その方がまだマシだ」
サハラの言葉は私の耳元を素通りし、何の感慨も与えないまま消えていく。隣で聞こえた舌打ちだけが、はっきりと耳に残った。
嫌なら側に来なければいいのに。私の心に生まれるのは、そんな卑屈な思いばかり。インソムニアのサハラがその感情に気付かないはずはない。けれど私の想いを知って、それでもサハラはずっと私の側にいた。あの日から、ずっと。
「おい、暇なら手伝え」
そう言ってサハラが私の手を引いたのは、新緑が眩しい五月のこと。彼は中庭のベンチと半ば一体化した私の腕を掴むと、ぼんやりとした足取りの私を引きずるようにして施設を抜け出した。
「ねえ、どこ行くの?」
「ああ?散歩だ、散歩」
インソムニアが町に出ることはひどく珍しい。別に隔離されているわけではないけれど、彼らは人込みに渦巻く感情の波を嫌うし、普通の人間は感情を読まれることを嫌うから。
サハラはそんな一般的な考えなど構いもせずに、町をぐんぐん歩いて行く。外出許可は、という質問に返ってきたのは、んなもん取るわけねえだろ、という答えだった。
あまりの言いようにめまいを覚えたけれど、掴まれた手を振りほどいたりはしなかった。私の頭の片隅で、このままどこかへ行くのも悪くないという思いが生まれていた。
きっと私は、悲しみに暮れる毎日に飽きていたのだ。そう思い至って罪悪感を抱いた途端、サハラに頭を叩かれた。
「いい気晴らしだろうが。オレに感謝しろよ」
サハラの手を振りほどけないまま辿りついた場所は、緑の溢れる公園だった。平日の午後。散歩中の主婦や老人の姿が目につく。
「調度いい」
サハラの声に視線を向けると、彼はひどく楽しそうな表情を浮かべていた。
「何が調度いいの?」
「ちょっと、な」
サハラは楽しそうにそう言うと、上着のポケットから出した手を私に突き付けた。青い光がその手を離れる。慌てて受け止めたものは、透き通るビー玉だった。
「え、何これ?」
問いかけるとサハラは顎で芝生を示した。彼の視線を辿った先には、鞄を枕に眠りこける人影が一つ。ブレザーとしわくちゃなワイシャツ。高校生だろう。
「お前ちょっとあいつのとこ行って、そのビー玉握らせて来い」
「え、何でそんな…」
「いいから行けよ」
目つきの悪いサハラにすごまれて、私はわけもわからないまま少年に近付いた。自主休講を満喫中の少年は、確かな寝息を立てて眠っている。投げ出された半開きの掌にビー玉を乗せ、私は慌ててにやけ顔のサハラの元に戻った。
サハラはそのまま芝生の上に座り込み、私は所在無げに立ったままで五分ほどが過ぎた。不意に、サハラがビー玉を指さした。
「おし。もういいぞ。回収してこい」
抗議の視線はサハラには通用しなかった。仕方なく私はもう一度少年に近付き、どきどきしながらその手からビー玉を外した。ところが微かな動きが伝わったのか、突然その目が開かれた。次の瞬間、少年が驚いた顔で跳び起きる。
当たり前だろう。この状況は、どう見ても不審だ。私は大声で謝罪の言葉を叫び、そもそもの元凶を振り返る。後ろから意地の悪い笑い声とヘタクソ、という言葉が聞こえた。次の瞬間にはサハラは私の頭を無理矢理押さえ付け、少年に爽やかな笑顔を向けていた。
「やー、悪いね。コイツちょっと精神的にアレで、よく奇怪な行動すんだ。許してやって」
「え、嘘。違…」
慌てて弁解をと思ったけれど、言葉が終わらぬうちにサハラは私の腕を掴んで来た道を引き返していた。私は再び引きずられる格好で、必死にサハラの後をついて行く。
「何、今の?」
施設の中庭に戻った所でようやく問いかけると、サハラは騒動を思い出したのか口元を歪め、ポケットから先ほどのビー玉を取り出した。
「お前、夢って見たことあるか?」
「…夢?」
眠っているときに見る、夢のことだろう。私は仏頂面を引っ込め、首を振った。夢なんて一度も見たことはなかった。サハラは微かに頷き、見ない奴もいる、と呟いた。
「さっき、夢をコピーしてきた」
「コピー?」
「寝てる奴にビー玉握らせるだろ。そうすっと、見てる夢を写し取ることができるんだと。千里が考えたんだぜ」
思いがけず兄の名を聞いて、悲しみがまた首をもたげる。サハラはうるさい、と呟いてビー玉を覗き込んだ。
「さっきの奴、巨大なはと時計に閉じ込められる夢見てるぜ。くっだらねえ」
「…何それ」
私もサハラの真似をしてビー玉を覗き込むけれど、見えたのは青色に染まる景色だけ。きっと、インソムニアにしか見えないものなのだろう。
「お前明日からオレの代わりに寝てる奴の夢、片っ端から集めて来い」
サハラはポケットをあさると、両手から零れ落ちるほどのビー玉を私に押し付けた。
「え、これ全部?」
「当たり前だろ。ボーッと無駄な時間過ごすぐらいならオレの役に立て」
サハラは目茶苦茶な言い方をして、それから吊り上がった目を細めて笑った。
あの日から、あの時から、私が悲しみに捕まる時間は少しずつ短くなった。
兄のいたベンチで絶望に明け暮れる代わりに、ポケットいっぱいにビー玉を詰め込んで町中を歩くようになった。思い出を振り返る代わりに、目の前の景色を見るようになった。懐かしい声を望む代わりに、サハラの教えてくれるビー玉の夢に聴き入るようになった。
気がつけば私が施設を訪れる理由は、兄の思い出からサハラへと変わっていた。
サハラと出会ってから、三年の月日が流れた。
一昨年の冬、二十二歳の誕生日を迎えたサハラは私の前で、千里に追いついた、オレの方が長生きしてやる、と豪語していた。その言葉通り、サハラは翌年も得意げな顔で誕生日を迎えた。そして。
春が過ぎ、夏が過ぎ、季節は秋。モズの声が冷たい風に乗る頃。私に、二度目の別れが近づいていた。
サハラはこの所いつもだるそうにしていて、眠ることはできないくせに欠伸ばかりを繰り返している。体や脳が限界に近付いているのだ。もうすぐ、サハラはいなくなる。それがわかった時から、私の足は施設から遠のいていた。別れが怖くて。
施設の裏にある自宅の前でサハラと再会したのは、どんよりとした雲が空を覆う昼下がりのことだった。
「お前、オレのこと避けるとはいい度胸してんじゃねえ?」
数週間ぶり。サハラの相変わらずの悪口に私はひどく安堵した。まだ生きていたことに、安堵した。
「バカ。勝手に人のこと殺すんじゃねえよ」
サハラの声は笑いを含んでいたけれど、顔色は良いとは言えなかった。
兄が死んだとき、私はこの人に助けられた。ひどく口の悪い兄の友人は、どうしてだかいつだって私の側にいてくれた。あの時、私の悲しみを誰よりも知っていてくれたのは他の誰でもなく、サハラだった。
だけど、サハラももうすぐいなくなる。いつまでも一緒にはいられないことくらい、よくわかっていた。わかってはいたけれど、悲しみは埋まらない。無くならない。
「ねえ。インソムニアは、何のために生まれたの?」
兄がいなくなって、三年。ずっと心の奥で燻っていた想い。長い時間に埋もれたはずの気持ち。誰かに聞きたくて、だけど誰にも聞けなかった問い。それが三年経った今になって、甦る。
「眠らない病気なんて何のためにあるのかわからない。そんなの無ければ兄さんは二十二なんかで死んだりしなかった。サハラだって、そう」
一度口を開いたら止まらなかった。ずっと押し込めていた気持ちは、酷い言葉に変わっていく。
「サハラだってもうすぐいなくなって、私はまた悲しい思いをするの」
「仕方ねえだろ。オレらはそういうもんだ」
病気なんだから、仕方ないの。
昔、両親に言われた言葉を思い出す。兄の病を話すとき、両親はいつだってそう言っていた。病気なんだから仕方がない。治らないんだから仕方がない。仕方がないのだから、一緒にいる時間を大切にしたらいい。
いつだってその言葉に従ってきたつもりだった。兄が生きていた頃。無駄な時間なんて一秒だってなかったと、胸を張れるくらいに。
だけど、そうじゃないのだ。どれだけ大切に想っても、どれだけ一緒に笑っても、どれだけ別れを惜しんでも、時間は止められない。最後には取り残されて、悲しむしかない。
「サハラももうすぐいなくなるのに」
淋しい。淋しい。淋しい。私の心の中で、たった一つの気持ちだけが大きく膨らんでいく。三年前の春の日にサハラが救ってくれた気持ちを、今度は誰が知ってくれるというのだろう。
「ねえ。サハラはどうしてあの日、私のところに来たの?」
「お前、それ…」
私の言葉にサハラは何か言いかけ、けれど何も言わないまま口を閉じた。私から視線を逸らし、顔の半分を隠す前髪をくしゃくしゃと掻き回し、大きなため息をつく。
サハラが再び口を開いたのは長い沈黙の後だった。視線を戻したサハラは、今まで見たこともないほど暗い目をしていた。感情なんて読めなくても、怒っていることがよくわかった。
「お前さ、オレといたこと後悔してたのか?」
そんなつもりじゃない。なのに。
「そうだよ。サハラなんかと、会わなければよかった」
出てきた言葉は、気持ちとは裏腹だった。
「私のことなんか放っておいてくれれば良かったのに。そうすればもう、こんなふうに悲しまなくて済んだのに」
八つ当たり。子供っぽい。無神経。こんなことを言いたいんじゃないのに。心のどこかで冷静にそう思うのに。それなのに、言葉は止まらなかった。
「サハラなんか大嫌い」
違う。違う。違う。こんなことを言いたいんじゃなくて。本当に言いたいのは、もっと別の言葉。
けれど、心の奥に隠れた気持ちはインソムニアのサハラにも伝わらなかった。膨れ上がった淋しさが邪魔をしていたせいかもしれない。
「そうかよ」
サハラは疲れた声で短く言うと、私に背を向けた。
「帰る。こんな言い合いしに来たわけじゃねえっつの」
「サハラ…」
私の声に、サハラは一瞬だけ足を止めた。
「オレらが何のために居るかって?」
私の言葉を当て付けのように言い換えて、サハラは嗤った。
「んなもん、オレらが一番知りてえよ」
遠ざかっていくサハラの足音を聞きながら、私はいつまでも立ち尽くしていた。泣いたりはしなかった。泣きたくても涙は出なかった。
サハラに会わなければいけない。会って謝らなければいけない。話をしなければいけない。何度も何度もそう思ったのだけれど、気持ちが動かなくて。足が向かなくて。伝えたい言葉が解らなくて。時間だけが無意味に過ぎて。そうして。
そうして。
ネスト。温かな棲み家。今日、光の中でサハラが眠りに落ちた。
おやすみ。おやすみ。おやすみ。
口々にかけられる言葉は、ずっと前からの彼の望みだった。生まれて初めての言葉。眠ることを許された、優しい言葉。
木枯らしの吹く秋のこと。穏やかな顔をした彼は、もう二度と目覚めることはない。それは確かに安らかな、永遠の眠り。誰にも妨げることのできない、永遠の。
旅立ち。この別れをそう表現する人も大勢いるけれど、私たちは旅立つ彼らに別れは言わない。さようならの代わりに祈るのだ。生まれて初めて訪れた、その眠りが永久に続くことを。
おやすみなさい、と言葉をかけて。兄を見送った、あの小さな教会で。
二十三歳。長い長い間休むこともできずに動き続けていたサハラの顔には、深い隈が浮き出ていた。先進医療の全てを駆使しても隠せなかった、時間の痕として。
会わなければ良かった。そう言った。子供じみた八つ当たり。サハラがいなくなることが淋しくて。だけど、素直に淋しいとは言えなくて。こんな風にしか、自分の気持ちを表現できなくて。
喧嘩なんてするんじゃなかった。早く謝るんだった。もっと、一緒にいるべきだった。あれこれ思っても、もう遅い。
最後の別れに、何かを言いたくて。でも、何を言っていいのかなんてまだ解らなくて。ただ、後悔ばかり。
その時、開け放した扉から風が舞い込んだ。強い風は私の手からネリネの花を巻き上げて窓の外へとさらっていく。追い掛けて、外に出る。
風に舞い上がった銀杏の葉が、軽い音を立てて顔にぶつかってくる。晴れた空はどこまでも高く、どこまでも澄んでいる。雪が舞い始める、一歩手前。からりと乾いた空気がサハラを強く連想させた。
小さな花の一輪さえ、サハラには届かない。
残されたものは悲しみと、淋しさと、後悔ばかり。
葬儀には戻る気になれなくて、なんとなく向かった先はサハラの部屋だった。サハラが居たときは一度も入れてもらえなかった場所。微かに軋む扉を開けて、驚いた。小さな部屋の中に、湖が広がっていた。
もともとは殺風景な部屋だったのだろう。明るい色調のフローリング。白い壁紙。質素な机と僅かな私服。椅子の背もたれに無造作にかけられた上着が、戻らない人を待っている。
ベッドの無い部屋を彩っていたのは、見覚えのある青いビー玉だった。三年間、私が一心に集めていた誰かの夢。何百。いや、何千。数え切れないほどのビー玉が床を埋め尽くしている。足の踏み場もないくらいに。
その大量のビー玉が窓から入る日差しに色をつける。フローリングを照らし、白い壁紙を包み、天井まで染め上げる。淡い青に。
「どうだよ、すげえだろ」
不意に声が聞こえた気がして振り返る。開け放した扉の向こうには誰もいなかった。けれど、声を思い出したら止まらなくなった。言われた言葉とか、一緒にいた場所とか。顔も、癖も、全部。連想ゲームみたいに心に甦る。
もう、会えないのに。
そう考えたら抑えきれなくなった。涙は一滴も流れなかった。だけど、心の中で何度も名前を叫んだ。うるさい。そう言ってくれる声を期待して。
けれど、望んだ声はいつまで待っても私を救ってはくれなかった。
コートのポケットで、ぶつかり合ったガラスがかちゃかちゃと音を立てる。
町中で居眠りをしている人は案外たくさんいるもので、今日は三つ、ビー玉に夢を写した。サハラの部屋ほどではないけれど、私の部屋も少しずつ淡い青に染まり始めている。
サハラがいなくなって、一週間。
始めの三日間を無気力に過ごした私は、四日目からはまた、ビー玉をポケットに町を歩き回った。こんなことをしたってもうサハラはいないのに。それでも私は誰のためでもなく、ただ漁るように他人の夢を集めた。
もしかしたら、頭がおかしくなったのかもしれない。と、思うくらいには冷静。けれど、この世の終わりみたいな悲壮な顔で町を徘徊する私は、全然大丈夫ではなかったと思う。
眠ることができなくなったのもその頃から。
夜が訪れるたびに暗い部屋の隅にうずくまって、時計の音だけを聞いて。開け放したままのカーテン。暖かさを失っていく空気。しん、と染みるような静けさの中で。ただ、ただ、夜明けのときを待って。
窓から差し込む月の光が、部屋中に散らばったビー玉を輝かせていく。
夜ごと思い出すのは、粗暴な言葉とわかりにくい優しさ。思うことは、切なさと悲しみ。いつまでも消えない淋しさ。
朝を待つ長い長い時間。永遠とも思える夜の中で。このまま弱って、眠れぬまま弱って、彼らのように死んでしまえたら。そんな風に何度思っただろう。弱気な思考を叱ってほしい。どんなに酷い言葉だって構わないから。
その時だった。
「また馬鹿なこと考えやがって。この根暗が」
確かに、声を聞いた。あの懐かしい声を。
顔を上げると、辺りは深い青に包まれていた。見慣れたはずの自分の部屋がいつの間にか雰囲気を変えていた。足元を埋め尽くすのは、数え切れないほどのビー玉。どこから光が差しているのか、ぼんやりと輝く青がとても幻想的だった。
ビー玉の湖。その中に、望んだ姿を見た。
茶色の髪と吊り上がった目。どこか意地悪な表情。
「…サハラ?」
名前を呼ぶと彼はふんぞり返ってにやりと笑い、偉そうに頷いた。三年の間に見慣れた、サハラそのもの。
もう会えないはずの存在が目の前に現れたというのに、私は何故か少しも疑問を抱かなかった。頭のどこかが麻痺したような、ぼんやりとした感覚。頭が正常に働かない。ただ懐かしさと罪悪感が心を埋めて、言葉が勝手に零れていた。
「ごめんなさい」
「ああ?何がだよ」
サハラは何の話をしているのかわからないらしく、不思議そうに問い返してくる。
「この前。大嫌いだって言った」
「ああ…」
サハラは納得したように頷くと、青い光の中に座り込んだ。
「泣いてんじゃないかと思って顔出せばこの有様。お前、どんだけ予想通りだよ」
サハラはそう言って、呆れたように笑った。何か話したい。そう思うのに、何を話すべきか解らない。
「ねえ。インソムニアは、どうして生まれたの?」
うまく働かない思考回路で、私が口にしたのはいつかの問い。答えをもらえないままになってしまった、あの日の問い。サハラは少しだけ考える素振りを見せ、口を開いた。
「たぶん、オレらは知る必要があったんだ」
「…知る?」
「人の心を。悲しみ。優しさ。悪意も、好意も。全部知るために、オレらがいたんだ」
誰かの痛みに気付けるように。誰かの心に寄り添えるように。
「サハラが…私のそばにいたのは、どうして?」
何故だろう。ひどく頭が重い。奇妙な浮遊感と覚束ない思考。気を抜くと目の前の景色が歪んで、滲むように消えていく。ひどく、眠い。
「んなもん、どうだっていいだろ。大した理由はねえよ」
素っ気ない言葉。これがサハラの優しさなのだと、気付いたのは別れの後。淋しいとき。苦しいとき。辛いとき。いつだって側にいてくれた。
「…お前が、インソムニアを嫌ってなかったから」
ぼんやりとした思考の中に、サハラの声が届く。眠りたくない。ちゃんと聞かなければいけない。たぶん、言葉を交わせるのはこれが最後だから。
「他人の感情を読むってのは、世間的に言えばめちゃくちゃ異端な能力だ。気味悪がられるのは日常茶飯事。偏見、同情。見下した態度。それが普通だった」
そう。インソムニアは異端の人間。兄がインソムニアだったことが世間に知れたとき、私もその身内として酷い批判を受けた。けれど。彼らを不気味だと嫌う人は大勢いるけれど、自分の気持ちを言葉にするのが苦手な私は、彼らの能力が好きだった。
「お前は違っただろ。オレらのことを嫌ってなかった。オレ達インソムニアは、自分たちに好意を向ける奴を嫌ったりはしない」
だから、側にいた。たった三年。別れはすぐに訪れて、いつまでも一緒にはいられなかったけれど。それでも、確かに。
「お前さ、これからも施設に顔出せ。オレも千里ももうあそこにはいないけど、お前のことを心配してる奴は大勢いるから」
サハラの声が遠くなる。ぼやけていく姿を、もう、はっきりと捉えることができない。ただ、ビー玉の弾いた光だけがあちこちを青く染めているばかり。
「一個だけ頼みたいんだけど。…てかお前、聞いてる?」
少し不機嫌そうな言葉で、はっと目を開ける。今にも眠りに落ちそうな、まどろみの中。
「オレの部屋、片付けといて」
遺言みたいな言葉に、意識の底で悲しみが甦る。引きとめたい。そう思うのに、目が開かない。誰かの手が、頭を撫でた感覚がした。それが眠りを強めていく感じ。悲しみも、淋しさも、まどろみの底に沈めていく。
「明日香」
不意に、サハラが似合わないほど真面目な口調で私の名前を呼んだ。開かない目を無理矢理こじ開けて、意識を保つ。
「後悔してたか?」
一緒にいたことを後悔してたか。あの日、悲しみに任せて肯定した問い。思いを確かめる時間は必要なかった。気がつけば首を振っていた。
ぼんやりとした頭で考えるまでもなく。はっきりとしない思考で悩むこともなく。言いたかった言葉は、不思議なくらいあっさりと心に浮かんできた。
「会えて、良かった」
青い光が全てを掻き消していく。それは、水の中によく似ていた。私の意識も静かな無音の青にゆっくりと沈んでいく。視界を奪っていく光の中で、サハラは当然だとでも言うように偉そうに笑った。最後まで、笑っていた。
どれだけ時間が経っただろう。どれだけの間眠っていただろう。
目を開けて最初に見たのは、月明かりの湖。けれど、それはいつもの私の部屋にすぎなくて、捜す姿はもうどこにもなかった。
思考が目まぐるしく回転して、現実的な答えを弾き出す。夢だったのだと。こんなにはっきりと夢を見たのは生まれて初めてのこと。
夜明け前。朝日を待つ空気は淡い青色をしていた。水の中のよう。世界はまだ、眠りに沈んでいる。
座り込んだままの体を動かした途端、手元から何かが落ちた。
青い、ビー玉ひとつ。私の夢を吸い込んで。まるで、サハラが夢をくれたような。そんな気がしてならなかった。
堪えきれなくて、最初の一粒が目元を離れた。涙を流さなくなったのは、物心ついた頃。誰にも心配されたくなくて。でも、誰かに気付いて欲しくて。泣きたくて、泣けなくて、ずっと苦しくて。気付いてくれたのは兄と、サハラと。
自覚をしたら止め処なくて。後から後から涙は溢れて。泣いて。泣いて。泣いて。そうして、どれだけ時間が過ぎたか。
開け放したカーテンの向こうから朝の光が入り込んで、静かに部屋を照らし出す。水の底から世界を呼び起こしていく。鳥が鳴き、朝露が輝き、世界が温度を上げていく。音が甦り、色が甦り、名前も知らない誰かが目を覚ます。
泣き腫らした私の目にも、朝日は綺麗に映った。
夜明けは、希望に満ちている。眠れない夜を過ごして、有り触れた言葉の意味をようやく知った気がした。
涙を拭って顔を上げる頃には、心は落ち着いていた。考えることは、今日のこと。
立ち上がって、部屋中に散らばったビー玉を段ボールに詰め込んで。サハラの部屋へ行こうと思った。彼がいなくなってから、悲しみに負けて二度と入れなかったあの湖へ。
片付けといて。
夢の中で言われた言葉に従うために。
あのビー玉。全部あげてしまおうと思う。まだ名前も知らない、インソムニアの誰かに。どんな片付け方だって、サハラは文句を言わないはずだから。
睡眠不足の顔を洗って、重たい段ボールを抱え上げて。ふと、振り返る。机の上。小さな花瓶に活けられたカンパニュラの花が揺れた気がして。
部屋の中には取り残されたビー玉が一つ。朝日を受けて、青い光を放っていた。私の夢と一緒に、いつまでも。
お読みいただき、ありがとうございました。