第32話 エルドアの朝
エルフェン共和国の首都・エルドアは、レディスト王国の国境からは離れているものの、それでも戦争の不安は確実に伝わっていた。それは、多くの人々の心に先の大戦の記憶がまだ生々しく残っているからに他ならなかった。
笑顔で戦地に向かっていた男たちが、帰ってくる時にはその数を大きく減らし、まるで死人のような表情で戻ってきたのを、誰もが覚えている。そして、昨夜ブロデア帝国のメックが侵攻してきたことが新聞に掲載されており、戦争が間近に迫っていることを嫌でも思い出してしまった。
空は気持ちいいほど晴れ渡っているが、国民の表情はどんよりと曇っていた。
普段は明るい雰囲気のカフェも、今朝は重い空気が流れている。
メックは撃退されたとはいえ、ブロデアが再軍備を進めていたことは大きな衝撃を与えた。
「これは……厄介なことになりそうだ」
カフェでコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた初老の男性は、白髪交じりの頭を掻きながらぽつりと呟いた。
毎朝カフェで新聞を読みながら食事をするのが彼の日課である。町の様子を眺めながら、濃いコーヒーをすすり、バターをたっぷり使ったパンを頬張るのを何よりの楽しみとしていた。
しかし、今日ばかりは穏やかな気持ちでいられそうにない。
彼もまた、先の大戦で多くの仲間を失った。戦争を嫌っているのは、皆と同じだが、無抵抗のままではただ蹂躙されるばかりだ。
「仕方ないとはいえ……戦争は嫌だな」
戦争が好きな人間など、民の心が分からない愚かな独裁者くらいなものだろう。そんな独裁者がブロデアに生まれてしまった。
それはブロデアだけの責任ではない。先の大戦の戦後、ブロデアに多額の賠償金を課し、国境に武力を配備できないようにした。再び大戦に発展しないようにと、各国が恐れた。だが、恐れすぎてしまったが故に、逆に反発を招いてしまった。
全ては戦後処理の失敗から始まった。
次の世代に平和な世界を残そう、と思えば思うほど、平和から遠のいていく。
彼が新聞を畳んでテーブルに置いた時、近くで悲鳴がした。
若い男が女性の腕を引っ張っている。無理矢理女性を連れていこうとしているのだろう。
彼が見たところ、男はデュナミスである。ということは、真っ先に戦地へ赴かなければならない。そのため、自棄になったのか、単なる欲求の発散なのか、近くにいた女性に目を付けた、といったところだろうか。
周囲の人々は、誰も助けない。いや、相手がデュナミスだから助けに行けないのだ。能力のない人間は、どうやってもデュナミスには敵わない。
——私が行くしかないか。
立ち上がり、男の元へ向かう。
「あー、キミ……」
男性の敵意剥き出しの視線と、女性の不安そうな視線を一気に浴びる。
「その子も嫌がっているじゃないか」
男は舌打ちする。
「怪我したくなきゃ黙ってな、じいさん!」
「もちろん、誰だって怪我はしたくない。だけど、私はこの状況を黙って見ているわけにもいかんのだよ」
相手に言い返す暇も与えずに、初老の男性の言葉が続く。
「どうせ戦争に行きたくないとか、そんなことだろう。まったく情けない。戦争に反対するのは個人の自由だから、私に止める権利はないがね、その女性は関係ないだろう」
「てめぇ……死にてぇのか?」
「私の顔が死にたがりの老人に見えるかね? 観察力が欠如しているね。それとも想像力かな。まあどちらでもいい」
男は女性から手を離すと、懐からナイフを取り出す。
それは特殊な加工がされていない一般的なナイフであったが、デュナミスが持てば恐ろしい兵器となる。
ナイフが輝いたかと思うと、初老の男性へと襲いかかる。しかし、彼は最小の動きで白刃を避ける。
「なかなか筋がいい……でも、もっとも大事なことを分かっていないな、若いの……自分より強い相手に喧嘩を売っちゃあいけない」
彼はそう言うと、銃弾のような速度で迫ってきた刃を、人差し指と中指の先だけで止めた。
「私の名前はヴァイスザッハ……ゲルハルト・ヴァイスザッハ……まあ、覚えておく必要はない」
ヴァイスザッハはナイフを押し返すと、男の腹部に向かって拳を叩き込む。男は吹き飛ばされ、街路樹をへし折ってようやく止まった。
これでようやく静かになる、とヴァイスザッハは思ったが、背後に複数の足音が聞こえる。軍で使われる革靴の音だ。倒した男の仲間というわけではないようだ。
「まさか、この騒ぎを聞きつけて捕まえるために……ってわけじゃあなさそうだな」
振り向くと、5人の軍人が立っている。
その中の1人、階級の高い人物が一歩進み出る。
「ヴァイスザッハ伯爵、レオポルト・アウグスト卿からの伝令です」
そう言って、伝令文を差し出した。それは蝋で封印された便箋のようであったが、すぐにデュナミス専用の伝令であることを察した。アウグスト家の封印はデュナミス特有の力を注ぎ込まなければ無事に開けることができず、無理矢理開けようと思えば瞬時に燃え尽きてしまう。
手順を踏み、伝令に目を通したヴァイスザッハの表情に、誰が見ても分かるほどの動揺が現れた。
「……レニ様……」
ヴァイスザッハは手の上で伝令を燃やした。これも伝令の機能で、完全に証拠を消すこともできる。
「了解した……アウグスト卿の元へ連れて行ってくれ」




