第17話 カミラ・ローゼンハイム
1930年7月1日、職場へと向かうブロデアの労働者は足を止めて、ある男の演説を聞いていた。
クラウス・ヴェルマー。ブロデア帝国の総統であり、数年前まで崩壊寸前であったこの国を立て直した政治家である。
彼は街頭に立ち、自分を見上げる国民を壇上から見回すと、ゆっくりと話し始める。
「我々は、先の大戦で敗北し、様々な制裁を受けた。鉱山を奪われ、軍事施設も閉鎖……100年先まで支払い続けなければならない賠償金……その結果、我がブロデアは一兆倍のハイパーインフレを引き起こした」
民衆が一斉に唾を飲み込んだ。
ここにいる者たちは、その暗黒時代を体験している。
「一キロのジャガイモを買うのに、両手で持ちきれないほどの紙幣が必要になった……やがて捨てられた紙幣の束で子供たちが遊び、暖炉には薪ではなく使い古された札束が使われた」
ヴェルマーは国民の不安そうな顔を眺める。
「それでも我々は耐えた……だが……!」
彼の口調は徐々に荒々しくなる。
「他国は我がブロデアに対して牙を剥いたのだ! 昨日、レディスト王国は宣戦布告も無しに我々を攻撃した! 彼らはまたしても戦争をしようとしているのだ! 奴らの目的は、我がブロデアの破壊である! 明日のパンさえ、奴らに奪われる!」
民衆の目には怒りが浮かんでいる。
「このまま殺されていいのだろうか……いや、我々は断固として戦わなくてはならない! 我がブロン人を根絶やしにしようとする国家に対し、ブロデアは宣戦布告をする! 奴らの汚れた血を、奴らの土地に流すのだ!」
民衆は興奮し「ハイル・ヴェルマー!」と叫び続けた。
ほんの短い時間で、ヴェルマーは民衆の心を掴んでいた。この音声はラジオ放送もされるため、実際には多くの国民が彼の言葉を聞いたはずである。
彼はデュナミスであった。しかし、知能は高いものの身体能力は並で、ダイバー能力さえ持っていなかった。
だが、彼の言葉には不思議な力があった。ヴェルマーの言葉にはなぜか説得力があり、不思議と癒され、時には鼓舞される。それが彼の能力であった。
その能力があったからこそ、短期間でブロデアを立て直し、再軍備を可能にした。
実際にはブロデア帝国からレディスト王国の土地に攻め込んだのだが、ヴェルマーの能力があれば、大衆をいとも容易く騙すことができる。
ヴェルマーが壇上で演説の手応えを感じている中、同じく壇上に一人の女性がいた。
整った顔立ちに透き通った白い肌、ウェーブのかかった美しい金髪に碧眼、さらには長身でスタイルの良いブロン人の特徴を兼ね備えた女性であったが、その表情は氷のように冷たい印象を与える。
しかし、民衆の視線はヴェルマーに注がれており、彼女に注目するものは誰もいなかった。
* * * * *
彼女は名前をカミラ・ローゼンハイムと言った。彼女もまたデュナミスの軍服を着ており、爵位は侯爵であった。
軍においても、カミラは機甲師団を率いているほど、地位も実力も持っている。
ヴェルマーが総統官邸へと戻ってくると、すぐそばにカミラの姿もあった。
「総統、現在レディスト領へはイルマ・ハイゼが向かっております。アルベルト・ベルグはあのまま前線には置いておけませんので、本国の病院へ移します」
執務室へ向かう間、ヴェルマーへの報告をする。
「本当にバストラがやられたのか?」
「ええ、頭部と右腕が破壊……残念ながら修理には時間がかかります」
「相手は? まさかヴァンクールではあるまい?」
「イルマの報告では、例の新型のようです」
「やはり……レディストは国境に新型メックを生産していたのだな」
ブロデアとレディストの国境沿いで新型メックが生産されている、という諜報員の報告により、ヴェルマーは今回の武力行使を決定した。メックが国境に配備されるということは、いつでも攻められる危険がある、ということだ。
ブロデアの土地が奪われる。その焦りが、バストラによる侵攻を実行させた。
「総統、場合によってはバストラでこの戦争は戦い抜けないかもしれません」
「どうやらそうらしい……もちろん何か案はあるのだろう?」
「はい……我が機甲師団で、試作のメックを生産できましたので……」
彼女が言葉を続けようとすると、クスクスと笑い声が聞こえた。カミラが声のした方を見ると、廊下の端でヴェルマーに敬礼をしながら、カミラに聞こえるかどうかという小さい声で「淫売め」と言い、笑っている男がいたのだ。
カミラ自身「総統の愛人」「軍隊付きの売春婦」と罵られたことなど幾度もあり、女が出世することでそれを妬む男の視線を何度も浴びてきた。
男の前を一メートル以上通り過ぎた彼女は、次の瞬間には男の目の前にいた。音もなく、まるで突然現れたようであった。
「……落とし物だよ」
そう言って、カミラは男に何かを手渡した。
真っ赤な血が滴る肉の塊であった。
「……ッ!」
驚きのあまり男が口を開けると、鮮血を吹き出す。カミラが渡したのは、男の舌であった。
言葉にならないような叫び声を上げる男を尻目に、カミラは気持ちよさそうに笑う。
これでまた一つ、カミラを罵る声が消えていった。




