夕暮れのタクシードライバー
「名波ホールまでお願いします」
タクシーを止めた長身の男性客が運転手に依頼する。
後部座席に乗った客は、走行中しばらく外の景色をぼんやりと眺めていた。
目的地までもう少しという所で、客は運転席の裏に貼られた名刺に目をやった。
『運転手・戸川春人 安全運転でお届けします』と書かれている。
客はその偶然に少し驚いた。その事を口にしてみる。
「今日はボクシングの試合を観戦するんですよ。運転手さんと同じ名字の戸川拳一選手の」
「ええ、ええ、そうみたいですね。今日勝てばバンダム級の王者ですわな」
「勝てますかね、もうわくわくして眠れませんでしたよ」
「勝ちますよ。昔からチャンピオンになるって言って聞きませんでしたから。あれはそういう男です」
「え?もしかしてお知り合いですか?」
「ええ、まあそんな所です。あ、お客さん着きましたよ」
タクシーをホールの向いの交差点付近に停車する。
「ありがとうございました」
客はそう言ってホールの巨大な入口へと去っていった。
運転手も小休憩をと外に出る。
日も暮れかかっていた。
一つ伸びをした後、「シュ」と右ストレートを打つ真似をした。
昔から拳一に戯れに教えていたストレートだ。
その拳一が自身のプライドを賭けて戦う。
父である春人もプライドを胸に、今日もタクシーを走らせる。